脱線

20万打企画:跡部 ver
First love









「多摩川の土手の集会に出るから、亜久津先輩はここには来れなくなりましたぁ?どういうことですか。それ」


「僕も詳しいことはよくわからないんですが、ただ、すっごい怒ってました。携帯を壊されたらしくて・・・、僕がここにいるのもそんな理由があるんです」



きっと、また喧嘩をふっかけられてどこかで暴れているのだろう。年を追うごとに、自分を争いごとに巻き込まないように配慮するようになった亜久津に多少の苛立ちを覚えながらも、伝言をするため、わざわざ麻雀部屋に訪れた壇太一に、は礼を述べた。それから、麻雀板の上で牌を転がしていた荒井に目を向けた。




「麻雀は中止です」

「みたいだな。今日は勝てる気がしたんだけどな」




一度も勝った試しがない彼の痛い発言をあえてスルーしたは、麻雀牌を片付け始めた。丁度、どこの学校もテスト期間で部活は休みだった。その為、最近は荒井を巻き込んで、3人で麻雀漬けの楽しい毎日を過ごしていたのだ。が、亜久津がいなければ麻雀は不可能だ。は小さくため息をついて、競馬場に行く準備を始める。冷蔵庫に入れてあるオレンジジュースとチーカマ、その他もろもろ食料をカバンに入れていると、新井が声をかけてきた。



、こいつ、麻雀できるって」



冷蔵庫に入っていたハムを齧りながら、振り返ったは、「一度、亜久津先輩に教えてもらったことがあります」と、はにかんだ壇を見て眉を顰めた。



「へえ?『亜久津先輩』に、ですか。それは、それは、彼もお優しいことで」



は首元をかきむしって壇を冷めた目で見るが、「はい、誤解を受けやすいんですけど、先輩は本当は優しい人なんです」と照れたように耳を赤くし、彼は頭をかくだけだった。「そうですね。きっと、多摩川に行ったのも心無い人に捨てられた空き缶やペットボトルを集める為でしょうし、そこで報酬として得たお金も、優しい彼ならばコンビニでタバコなど買わずに、入り口に備え付けられた募金箱に入れるのでしょうね」と笑うと、荒井はぎょっとしてを見た。



「・・・壇太一。一局いかがですか?」

「え、でも、僕は・・・」

「掛け金は貴方が決めて下さって結構ですよ。ねえ、新井さん?」

「ああ、良いな」




壇は困ったように眉をハの字にしたが、と荒井に睨まれると、「あ、じゃあ、一局これくらいで」おずおずと五本の指を立てた。それを見て、荒井は財布を確認し、は満足そうに頷いた。

彼が提示した額が5千円を想定していようが関係ない。5万円ふんだくってやる。


そんな最低なことを彼女は考えていた。







対局が始まると、荒井は初恋の話をし始めた。最初、「え、なんのバツゲーム」と、ドン引きしていた壇だったが、対局が進むにつれ、牌を読むことに集中するようになった。荒井の話は運命の出会いと彼女を目で追うバラのような甘い日々から始まり、絶望に満ちた失恋話に終わった。途中、鼻をすすりはじめた彼にはティッシュケースを投げ付けた。その様子を、壇はあたふたとしながらも見守っていた。


亜久津はいないが、これが麻雀部屋のいつもの風景だった。荒井が毒にも薬にもならないくだらない話をし、が適当に相槌を打ち、亜久津が無視するというのが、対局中の様子だ。
ただ、その日は壇がいた。彼は荒井だけに恥ずかしい話をさせるのが申し訳なく思ったのか、彼の初恋の話をし始めた。失恋話かと思えば、意外や意外、純愛ラブストーリーで、ラブレターの告白から始まり、カップル成立という惚気話で終わった。驚いたら失礼かもしれないが、彼女持ちだったらしい。荒井はいよいよ惨めになった。


荒井に同情したが恥を忍んで、自分の初恋の話を始めるのは流れとして不思議ではなかった。ニコニコとどこかうれしそうに彼女を見る壇と、不満げに壇を睨みつけながらも「今度はお前が話す番だと」ちらちらと彼女の様子を伺う荒井を一瞥し、ため息をつく。



亜久津がいない対局は久しぶりで、は少し興奮していた。
しかも、かなり調子が良いのか、彼女の手には良い牌だけが集まってきていた。
対局中いつも聞き手のが、口を開くのは、非常に珍しいことだった。機嫌は最高潮でいつにもなく饒舌になった。彼女は、自分の初恋について話したのだった。











************















初恋というものを経験したのは、私が小学6年生の時だった。


クラス委員という名の雑用係を決めることになり、じゃんけんに負けた私が生徒会に入り、そこで、生徒会会長という名のパシリを決めることになり、これまたじゃんけんで負けた私がその仕事を任されることになったのだった。仕事内容は多岐に渡っていたし、一見やりがいがあるようにも見えたが、まあ、一言で言えば、やっぱり雑用だった。



飽きっぽい性格の私はすぐにそれを副会長である真田という男子に適当な言い訳を付けて丸投げした。彼は非常にまめで真面目な生徒だったため、私が投げ出した仕事も全てやってのけた。



そんな頼りがいのある彼に私が恋をするのは時間の問題だった







・・・ということは、決してない。






彼は何をするにも全力で仕事も速く、教師にとっても、私にとっても、使い勝手の良い便利な人間だったが、自分に厳しい彼は同様に他人にも厳しかった。



適当な言い訳も勘の良い彼は次第に通用しなくなり、生徒会の仕事について姑のようにガミガミ言うようになった。時には、生徒会室の机を人差し指でツーと触れて、指に付いた埃を私に向けてふっと吹くという下劣な行為をした。その日、私は生徒会室の床から窓、机に椅子、天井裏まで雑巾で丁寧に拭き、ワックスをかけた。真田がいつも座る椅子の下にはそれはもう丹念に塗りつけた。まあ、分かりやすかったので、翌朝叱られたが。





話が逸れてしまったが、私は嫌々ながらもこうして生徒会の仕事をこなすことになったのだった。裏方は全て彼に任せたが、他校との文書のやりとり、行事の計画のまとめ役や指示は任され、全生徒の前で恥ずかしい「代表の挨拶」というものをやらされた。誰も聞いてもいないのに、何らかの言葉を発さなければならないという義務を前に、毎週朝礼で挨拶を行っている校長に同情と少しの尊敬の念を抱いた。



ある日のことだった。


学校に一通の手紙が届いた。私は中身を確認する前に、真田に見られないようゴミ箱にそれを捨てたのだが、便箋にはキツイ香水がかけられていたらしく、彼はゴミ箱に手を突っ込んで中身を確認し、それを私の顔面に押し付けた。信じられない暴挙だった。一度ゴミ箱に入れたものを人の顔面に押し付けるなんて、まっとうな人間ができることではない。





読んで聞かされた手紙の内容は、なんてことはない。ギリシア語の叙事詩を募集するものだった。世界的にも有名なコンクールで、毎年優勝者には1万ユーロの賞金と世界一周の旅のペアチケットが送られるのだ。が、未だ日本から受賞者が出たことはない。



世界では1200万人の話者がいるらしいが、ギリシア語を読み書きできる日本人小学生が果たして何人存在するのだろうか。当時、婚約者の影響でギリシア語を多少齧ってはいた私ですら、その言語の有効性をあまり感じられなかった。彼はギリシア語とドイツ語が堪能でよく自慢するかのように叙事詩を語ったりしていたが、私から言わせて見れば学問というより、娯楽の一つとしか思えなかった。

もっと人口の多い国の言語を学べよ。ヒンディー語とか中国語とか、日本経済を牽引する人物が必要とする言語は他にもっとあるはずだ。誰か、現実を教えてやってくれ。そう、思っていた。


真田から手紙を受け取った私はそれを、掲示板に貼り付けるため画鋲を用意しようと机の引き出しに手を伸ばしたのだが、私の手は真田によって叩かれることになった。




「お前以外にギリシア語ができる奴はいない」

「そんなこと分からないじゃないですか」

「威厳が足りないのがいけなかったんだ」




この時、昔婚約者が放った「愛が足りないのがいけなかったんだ」という言葉を思い出し、背筋に寒気が走った。男というのはどこまでも自分本位な生き物なのだ。
私はそんな悲しい現実を小6にして既に知っていた。



案の定、彼は生徒会会長の求心力と支持率の向上のためにコンクールで優勝しろ、と、無理難題を押し付けてきた。






とりあえず、頷いた私だったが、勿論その手紙は机の奥深くに仕舞い、二度と真田の目に触れられないよう厳重に鍵をかけたのだった。が、手紙がなかろうと彼の記憶が無くなるわけもなく、翌日彼は私に文通相手を見つけたと言って、茶封筒と便箋、そしてペンを渡してきた。彼にギリシア人の知り合いがいたとが意外で驚いたが、それ以上に文通から始めるようなレベルでコンクールに優勝できると思っている彼のイカレタ頭に脱帽した。


成せば成る何事も、なんて彼は本気で思っているのだ。私はいよいよ頭が痛くなった。


それでも、ペンを握ったのは日ごろ彼に任せている仕事量を考えれば、大したことないかと思い直したからだった。しかもコンクールへの作品提出までの半年間は、「叙事詩を考えるので忙しい」という言い訳を使うと、彼は率先して雑用を代わってくれたのだ。文通を続ける限り、仕事をしないで済むのであれば、それは悪くない条件だった。



真田に教えられた文通相手の「あて先」は、ギリシアではなく、東京にある小学校の生徒会で、そこの生徒会長が文通相手だった。彼もコンクールに応募するらしく、手紙で叙事詩について語り合おうではないか、というのが意図だったらしい。

真田と、どういう知り合いなのか、私にはよく分からなかったが、彼は文学的才能に溢れていた。ちょっとした引用を使っても、すぐにどの筆者が書いたどの小説から引用したのか悟り、同じ小説から引用した文章を返してきた。




繊細で、けれども、大胆な、彼が綴る叙事詩に目を奪われ、そして、何度目かのやり取りで、








私は心を奪われた。








彼の知性と品性が詰まった手紙を何度も読み返し、ため息をついた。顔も見たこともない人間に対して抱く感情ではないと知りながらも、私は確かに恋心を抱いたのだ。


それは相手も同じだったようで、彼は私のことをギリシア神話の愛と美を司る女神の名前をとって「アプロディタ」と呼んだ。私は彼のことを「ゼウス」と呼んだ。ギリシア神話の神々と人類の支配者の名前だ。








「荒井さん、私に白い目を向けないで下さい。壇太一、手が止っていますよ。さっさと牌を捨てなさい。そして、話を最後まで真面目に聞くのです」

「ってか、お前婚約者いただろ。アイツどうしたんだよ」






そう、恋に燃える二人の間には、この婚約者は不必要で邪魔な存在だった。
週2・3回ペースで、婚約者と会っていた私だったが、次第に彼と距離を置くようになっていった。私も彼も互いに連絡を取らなくなったのだ。特に疑問は抱かなかった。小学校高学年にもなってくると、異性を意識して友人だとしても距離を置いてしまうことがあることを知っていたからだ。




それに、その頃、私たちは些細なことでもすぐに喧嘩をしていた。



彼は、私に教養と品性を求め、私は彼に常識と感性を求めた。



「ゼウス」と婚約者を比べずにはいられなかった。何をしても、何を話しても、何で私の隣にいるのが、「ゼウス」じゃないのだろうと、考えていた。婚約者が「なあ、浮気って悪いことだよな?そうだよな。俺は最低な馬鹿野郎だ。悪い。許してくれとは言わない。俺を罵ってくれ」と言っても、私は彼を罵倒せずにただ「ゼウス」のことだけを考えた。




彼のことで頭がいっぱいだった。










私はホメロスの叙事詩『イーリアス』を読むため、婚約者と会っていた時間を国立図書館に通う時間に宛がうことにした。しかしながら、目的の図書はいつも他の誰かに借りられており、私は仕方なく、その続編である『オデュッセイア』を手に取り、適当な席に着いては読んでいたのだ。




いつものように図書館に行き、目的の本ではないほうを手に取り席についたある日のことだった。表紙を開こうとした時、目の前に座っている男子が『イーリアス』を読んでいることに気付き、私は舌打ちした。その男子はこちらに気付いて顔を上げた。驚くことに、なんと、それは婚約者だったのだ。

それからも、国立図書館に行くと必ず彼が私の目的の本を読んでいる状況が続いた。




殺意とは案外簡単に抱くことのできる代物なのだと、この時知った。





「距離置いてねーじゃん!結局、会ってるじゃん」


「荒井さん、この間、負けた分を今日清算したいですか?5万ですよ。5万」

「・・・話を続けて下さい」









私が図書館で攻防を続けている間も文通は何度も交わされ、彼は最高傑作ともいえる叙事詩を完成させた。手紙に目を通した時は、自然と涙が溢れ出た。文学界に衝撃を与えるであろう非の打ち所のない完璧な作品だった。
彼は私と二人の合作だと語り、その手紙の最後には小さく『agapeetos(愛している)』と記されていた。

胸が熱くなった。

そして惹かれあった私たちは、必然的に会いたいと思うようになったのだ。




そこで、私たちは関東近辺の生徒会が集まる仮面舞踏会で会う約束をした。普通に会うのも良かったが、恋する私たちはロマンチストの夢想家だった。パーティー会場の庭で落ち合う会おうと彼は手紙に記し、私は承諾の返事を書いた。




仮面舞踏会が行われた日は、もうてんてこ舞いだった。ドレスから香水まで全てお気に入りのものを揃え、誂え、社交界で仲がほどほどに良く、聖ルドルフ学院幼稚舎の生徒会長を勤める観月はじめに衣装と髪型のチェックをしてもらった。始終、自分の髪の毛を弄り、「んふ」とわけの分からない声を発する幼馴染であるが、自ら進んで生徒会長になったり部長を務めたりしている彼は非常に面倒見が良かった。ただ、面白い人柄でもないので話は盛り上がらない。


仮面舞踏会が行われるホテルに着き、車から降りると私は一目散に庭に駆けていった。仮面舞踏会だけあって、皆派手な衣装に個性的なマスクを付けている。口元こそは飲食をするために何も飾られていないが、こめかみに七色の羽が無数についているマスクや大きな宝石を飾り付けているマスクを見て、知り合いがいても分からないだろうと思った。





賑やかな会場と一転して、庭は静かだった。真っ暗な夜空いっぱいに星が散りばめられ、クラシックの穏やかな音楽が流れていた。「ゼウス」はまだ来ていないようだったので、私は彼に会ったら言う言葉を考えながら、額にかいた汗をハンカチで拭い、マスクを付けた。



それから、左手の薬指に嵌められている指輪を外しポケットにしまい、指輪の痕がついて赤くなってしまっている薬指をさすった。その時だった。








カリニクタ サス(こんばんは)、アプロディタ」





後ろから肩を掴まれ、耳元で囁かれた言葉に胸が高鳴った。私が「ゼウス?」と独り言のように呟くと、彼は私を強く抱きしめて「会いたかった」と言った。



「私も」




季節は11月下旬だというのに、全身から火が出るように体温は上昇し、頭も真っ白になった。文学少年であろう彼に不相応な逞しい腕に、ドキリとさせられ、品の良い香水の香りに酔いしいれ、彼の美声に耳を澄ませた。




「こんな気持ち、初めてで、自分でもどうして良いのか分からない。でも、手紙を読んでいるうちに段々気持ちが育っていって、今日お前の後姿を見たとき、MOIPAだと直感した。」


「MOIPA・・・運命の人」




彼が同じように感じてくれていて、うれしくなった私は振り返って彼を抱き返した。自分がこんな大胆な行動に出れるとは、思っていなかったが、その時はもう周りなんか見えなかった。私たちはマスク越しに視線を交わし、触れるだけの甘いキスをした。




心臓がバクバクと音を立てて、相手に聞こえてしまうのではないかと不安に思った私は唇が離れるとすぐに目を伏せた。そして、私は彼の左手の薬指に嵌めている指輪に気がついたのだ。まさか、と思った。「婚約指輪?」と私は唇を震わせて、かすれた声を出した。彼は一瞬肩を揺らしたが、すぐに安心させるよう私を強く抱きしめたのだ。




「政略結婚だ。別に相手を愛している訳じゃない」



「私も、そういう相手がいます。でも、いつでも切り捨て可能な人です。だって、私が好きなのは貴方だけなんですから」




彼は私の首筋に顔を埋め、「最高だ。俺も、俺もお前だけだ」と言って小さく笑った。



「名前を聞いても良いか?」



私が頷くと同時に彼は再び口付けを落とした。そして今度は触れるだけのものではなく、もっと絡み合うような深いものだった。当時小学6年生だった私は彼の行動に驚き、それを背徳行為のようにも感じたが、それ以上に喜びを抱いた。思いが通じ合うことの素晴らしさを知ったのだ。




満天の星空の下、私たちは何度もキスをした。そして、張り裂けそうになる心臓を抑えつつ、私は彼の肩に手を伸ばし、つま先を立てて彼の耳元で「仮面を外しても良いですか?」と聞いた。彼が頷いた後、うれしくなった私は自分の名前を小さく呟いた。





それが、長い夢から覚める呪文だとも知らずに。



名前を告げると彼はピタリと効果音が付きそうなくらいはっきりと体を固めた。唯一見えている口元も強張っているようで、怪訝に思ったが、それでも手は止めず彼の仮面をゆっくり外した。











が、仮面の中に隠れていた顔を見て、私は外した仮面を再び彼の顔に付けた。








「・・・。おい、誰が『切り捨て可能』だ。コラ」




「わ、わー、今晩は月が綺麗ですね。景吾さん」








「今夜は新月だ。」

「・・・通りで、星が綺麗に見えるはずです」

「ふざけんなよ、お前。俺の純情を返せ」

「だったら、私のファーストキスを返して下さい」

「そもそも、見ず知らずの男とキスするってどういう了見だ」

「してきたのは、そっちじゃないですか」

「お前は迫られれば誰とでもキスすんのかよ!このアバズレ」

「アバズレ?何言ってるんですか。私の場合、貴方と違って初恋だったんですよ?どう責任とってくれるんですか。この女たらし」


「お、女たらし!?おま、俺だって初恋だったんだぞ!」








それから二人が今まで製作してきた叙事詩の批判をし合い、二人が互いに付け合った名前に関してまで文句を付けるようになった。

ダメだ。まるで離婚裁判のように、何を言っても諸刃の剣だ。
そう先に悟ったのは彼の方だった。彼は「つ、月が綺麗だな」と言って、喧嘩を強制終了させようとした。勿論、私は「新月ですよ」と口を尖らせてそっぽを向いた。





これが、私の、記憶から抹消したい、初恋の話である。











「つーか、途中で気付けよ!!」



「恋は盲目なんですよ。今、考えればあの手紙の字だって、彼と同じ字だったし、後ろから抱きしめられた時に鼻を擽った匂いだって彼がいつも付けている香水と同じものでした」


「というか、僕はさんに婚約者がいたことに驚きました。亜久津先輩の彼女だと思っていたんですけど違ったんですね。」


「それは、ありえませんね。一体どこから、そんなこ」


「あ、ロン」




壇が牌を平積みにすると同時に、荒井はうな垂れ、は額に手を当てた。初心者の壇に負けるとは思ってもいなかった二人は慌てて財布を取り出して中身を確認し、互いの顔を見合わせた。は荒井に部屋の後片付けを頼み、壇を連れてコンビニに向かいATMで金を下ろすと、「荒井の分も入ってるから」と言い彼に1万を渡した。



壇は頭を下げて、財布をカバンから取り出すとその中に一万円を入れ、それから9千円を取り出し、に渡した。





「僕、テスト勉強しないといけないので、ここで失礼しますね。今度また対局させてください」




雑踏の中を駆けていく彼を見ながら、は呆然と手の中に納まっている9千円を見た。
たぶん、壇太一の脳内では掛け金は5百円だったのだろう。はコンビニにもう一度入り、入り口近くにあった募金箱に手にしたお金を入れてから、荒井が待っている麻雀部屋に戻った。


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