30万打企画

亜久津編


「お前は10年に一人の逸材だ。世界を狙える素質を持っている」





どのスポーツをやっても、指導者たちは同じ言葉を放った。彼らがいうとおり、何をやっても俺の前に敵が立ちはだかることは無く、興味を持ったスポーツも、退屈で滑稽な試合をこなすと俺の熱は決まって冷めていった。

小学4年生になって通い始めた空手道場も結局、俺より強い奴はいなかった。入道当初、生意気だという理由で俺を叩き潰そうとしていた奴らは姿を消し、残った奴らは、ほどなくして、俺の顔を見る度に怯える表情をするようになった。学んだものを実践で生かしたいと思うことは自然のことで、力を付けた俺は、次第にそれを使いたいと思うようになった。同級生、上級生問わず、力で人を捻じ伏せることは、愉快で刺激的だった。しかし、俺に文句を言う奴や反感を持つ奴は試合で叩きのめし、道場から追い出していくと、保護者たちの俺を見る目は、自然と厳しくなった。

そして、大人たちは「これだから片親は」と必ず俺の家庭環境を持ち出して罵った。耳に届かなくとも、肌で感じられる嫌悪感は、とっくの昔に慣れたものだった。学校でも、道場でも、何処に行っても注目されれば、その言葉はついて回った。「天才が来た」の次には、「片親らしい」という言葉が、まるで合図のように周囲からは飛び出るのだ。そして、だいたい、噂が広まるその時期に、俺は人目を避けるようにその場から去るようになった。学校はサボり、道場はやめた。気分が悪かったからだ。









つまらない、変化の無い日常の中で、俺はスリルと刺激を求めていた。



それは日本が久しぶりに寒冬を迎え、東京にも珍しく雪が舞い降りた朝のことだった。バレンタインデーで、浮き足立った同級生たちや教師たちを見て虫唾が走った俺は、ホームルームの途中で教室を抜けた。行く当ての無いまま電車に乗り、気付けば、空手道場のビルの前まで来ていた。道場に行く気はさらさらなかったので、真向かいにあったコンビニに一先ず入り、適当な雑誌を掴んでは大して興味もないのにページを捲った。


魔が差した、というのはこの事だと思う。


別にその雑誌が欲しかったわけでもなければ、金が無かったわけでもない。喝上げの常習犯である俺は金に困ったことなど一度も無かったし、欲しいものがあれば、いつも誰かをパシって手に入れていた。

ふと、思ったのだ。もしも、この雑誌を金を払わずに手に入れることができたら、面白いかもしれない、と。思い立ってからの行動は早かった。
店内に設置されている防犯カメラの死角で雑誌を素早くカバンの中に入れ、俺はコンビニの自動ドアに足を向けた。丁度自動ドアが開いた所で、カウンターにいた店員が俺を呼び止めると、それを合図に走り出した。




「おい、君!」




追ってくるだろう店員を見越して設置されているゴミ箱を蹴り、足場を悪くしてから、全力でコンビニの駐車場から去る。面白そうだから、スリルを味わいたいから、そんな軽い気持ちでやったのだ。それが、俺の人生を180度とは、いかないまでも90度は確実に変えるような契機になるとは思わずに。



「万引きだ!!誰か捕まえてくれ!!」


後方から、懇願に似た店員の叫び声が俺の耳に届いた時だった。50メートルほどの幅のある駐車場を駆けていた俺の視界が突然遮られた。

ゴッと、鈍い音がしたと思ったら、鼻を中心に顔全体が燃えるように熱くなり、同時に浮遊感を覚えた。視界一面が青に変わり、それが空であると気付く頃、背中に激痛が走った。




「私、万引きって初めて見ました」



最初、何が起こったのか理解できなかった俺だが、全身に痛みが伝わったところで、腹を蹴られて地面に叩きつけられたと気付いた。すぐに立ち上がろうとしたが、地面に手をついた瞬間その手を踏まれ、その足で腹に蹴りを入れられた。ゲフッと聞いたこともないような呻き声が自分の口から出され、それと共に、胃液が喉まで這い上がってきくる。反射的に口元を抑えようと手を当てると滑りを感じ、それが自分の鼻血であることに気付くまで時間がかかった。俺を襲った奴の靴を見れば、最近女子に人気があることで有名なアニメキャラクターがプリントされていた。




「雑誌一つ買えないなんて、貧乏って大変ですね」



感情の無い女の声が頭上から降ってきて、まさか、とは思ったが、女子にやられたと知った俺は精神的にショックを受けた。どこのどいつだ、相手の面を確認しようと頭を動かそうとした瞬間、その女は、動いて良いって言ってないだろ、とでも言う様に顔面に蹴りを入れ、そのまま俺の頭を靴で踏みつけた。地面にポタポタと血が落ちて、俺は今自分を足蹴にしている人間を絶対殺すことを誓った。

女は俺の頭から足をどける様子も見せず、駆け寄ってきた店員に、自分が俺の姉であると言い謝罪の言葉を述べた。俺の記憶が正しければ、俺に兄弟はいなかった筈だ。








コイツの目的は一体何なんだ、と訝っているとを、突然、万札がパラパラと頭上から振ってきて、俺は目を見開いて驚いた。それから、店員が慌てた様子で金を拾い始め、しばらくして店員と目が合うと、店員は驚いた表情をし、それから俺に同情するような視線を向けてきた。


女は俺の頭に乗っけていた足に体重を乗せると、「ほら、貴方も謝りなさい」と脅した。頭がカチ割れるかと思った俺は、謝らず「どけ、デブ!」と叫んだ。すると、今度は思いっきり腹を蹴られた。

冷静さを取り戻した店員は盗まれた雑誌のことよりも、血を流して倒れている俺の体の心配をし始め、「謝罪は良いから、彼の頭から足をどけてあげてくれ!それから、病院に連れて行ってくれ」と焦った声をあげた。















タクシー料金メーターが5000円を過ぎた時点で、俺は車の向っている先が病院じゃないことにようやく気付いた。車が揺れ動く度、肋骨が悲鳴をあげる。俺が動けないのを良いことに、女は俺のカバンを漁ると学生証を取り出して、俺の顔と確認するように見比べた。




「なるほど。どこかで見かけたことあるなと思っていたんですが、納得しました」

「てめえなんぞ、俺は知らねぇ」

「貴方と同じ空手道場に通っているです」




と名乗ったその少女は、手を口元に置いて小さく笑った。彼女が羽織っているコートは、俺の制服とは違う良質の素材から出来ているようで、ずいぶん威圧感があった。ふんわりと香る香水の匂いが鼻をつき、肩まで伸びた黒髪が揺れて、窓から射す光が白く反射する。


背は自分より頭一つ分ほど大きいが、どこからどう見ても、良家のお嬢様のようにしか見えない、こんな女に俺は伸されたのか?そう思って、愕然とした。



「俺をどこに連れて行くつもりだ」

「私の家です。貴方をご招待します」

「車から降ろせ。今すぐに」

「何故です?暇でしょう?退屈なのでしょう?」



目を大きく開けて、俺は彼女を凝視した。何で、お前がそんなこと知ってるんだよ!と、健康体であれば怒鳴っていたところだ。




「私、ずっと待っていました」



は目をキラキラとさせ、俺の傷だらけの手を力強く掴んだ。同時に、強烈な痛みを感じて小さい悲鳴をあげ身じろいだが、松岡は気にもとめず、こう言った。






「貴方のような方が現れるのを、私はずっと待っていたんです」







それは、ロールプレイングケームで、モンスターに困っている町人が、勇者に向ける決まり文句のようであったし、もっと言えば、中世ヨーロッパの城に住む、外に一歩も出たことも無い世間知らずの『お姫様』が、初めて出会った『王子様』に送る言葉のようでもあった。30分前まで足蹴にしていた相手に言うような台詞には到底思えなかった。













タクシーが大きな門をくぐり、長い竹林を悠々と進み、大きな洋館の前で停車する。文京区に家を構える人間がどれほどいるか知らないが、こんな豪邸を見たのは初めてだった。思わず、息を呑む。玄関前には使用人が並び、がタクシーのドアを開けた瞬間「お帰りなさいませ。お嬢様」と一斉に礼をした。その光景は圧巻だった。全く別世界をみたような、そんな気味の悪さも同時に感じた。



「お嬢様のお友達でございますか?酷い怪我をなさっておりますが・・・」

「彼、怪我をしているから、歩くのを助けてあげて下さい。それと、手当ては私がするので、救急箱とおやつを部屋に持ってくるように」

「かしこまりました」



偉そうな態度で使用人に接するは、疑いようも無く、この家の持ち主だった。俺んちのアパート全体の土地と同じくらいあるのではないか、と思うほど広い玄関を通り、長い廊下を執事の手を借りて歩きながら、俺はふとに関する記憶を呼び起した。



「・・・思い出したぜ。てめぇ、変態国会議員の娘だろ。空手道場の奴らが『大して強くも無いのに父親の七光りで、上級クラスに入ってきた奴』がいるって言ってたな」



「ふーん」と大して興味の無さそうな声を出し、は部屋に着くと俺を椅子に座らせ、救急箱やら、お茶やらを持ってきた使用人たちを外に追い出した。壁一面を、桜色を基調としたその部屋には至る所にぬいぐるみや人形が置いてあり、妙に居心地が悪い。腰をかけた椅子のクッションにも無駄にレースとフリルがあしらっており、何かの罰ゲームのようにも思えた。



「私も貴方の噂はよく耳にしますよ。貴方は『片親で問題児の亜久津』さんですよね」



俺はカッと頭に血がのぼって、「てめぇ、ぜってーぶっ殺してやる」と叫んだ。 はその声が全く聞こえていないかのように大きな救急箱に手を突っ込むと、消毒液を取り出し、俺の膝の傷にそのまま中身をぶっ掛けた。声にならない悲鳴が出る。



「痛いですか?」

「クソッタレがっ」

「私も、今亜久津さんに睨まれて、ここがぎゅっと苦しくなりました」



眉をハの字にしたは人差し指を胸の部分に当てた。


「ですから、おあいこですね」

「どこが『おあいこ』だ!ドタマかちわんぞ!俺はな、柔道、空手、剣道全ての種目で全国大会まで出てんだぜ。」


「私は、華道草月流普通4級、漢検2級、弓道初段の資格を持っていますよ」

「・・・で?」

「貴方が自慢話をされたので、私も対抗しようと思いまして、会話の流れにおかしい所でもありました?あ、漢検準1級はこないだ落ちたんですよ。ナマズの漢字がどうしても思い出せなくて」


「ナマズって、・・・魚へんに、念じるの「念」だろ」




俺に正解を言われたのが面白くなかったのだろうか、は俺の腕に消毒液を勢い良くかけた。


「うぐっ」

「痛いですか?」

「死んじまえっ」




俺が言えた義理じゃ無いが、一体どんな教育受けたらこうなるんだ。
あまりの痛みに唇を白くなるまで噛み締めていると、机の上に置いてある写真立てに目が留まった。俺の苦痛の表情を馬鹿にするような偉そうでニヒルな笑みを浮かべた園児の写真が、そこには納まっていた。何なんだ。メルヘンな壁紙と言い、ぬいぐるみと言い、俺の神経を逆撫でするようなものしか、この部屋にはないのか。


は人形にでも語りかけるよう一方的におしゃべりを続け、俺の手当てを適当に済ませると、クローゼットの中から、大きな段ボール箱を引きずって持ってきた。そして、チェスや将棋盤、麻雀やオセロ、人生ゲーム、ゲーム機器の一式を取り出すと腕を組んで「うーん」と考え込むポーズを取った。


「何して遊びます?」

「何で俺がてめぇなんかと遊ばなきゃならねーんだよ」

「だって、こないだプロレスごっこしたら、景吾さん、右腕折っちゃって大変だったんですよ」


の回答は、俺の質問に全く答えていないように思えた。眉を顰めて睨んでやると、は先程俺が見た机の上にあった写真を持ち、それに人差し指をさした。




「これが、景吾さんです」


それは、「this is a pen」に近い響きを持っていた。


「綺麗でしょう?彼が幼稚園の時の古い写真ですから、今はもう少しおっきくなってるんですよ。まあ、貴方と同じでチビですが」


にこにこと、宝石でも自慢するように見せるが、有名な私立幼稚園の制服を着たその園児は、見るからに『おぼっちゃま』という風貌で、俺は生理的な嫌悪感を抱いた。 俺が何の反応も示さずにいると拗ねるようにして口を尖らせた。







「彼はパパが私のために用意してくれた遊び相手なんですが、婚約者でもあるので危険な目に合わせてはいけないのです。プロレスごっこも、駄目なんですって」


たぶん、相手が『婚約者』でなかろうと、危険な目にはあわせてはいけないような気がするが、俺は何も答えなかった。


「で、私、前々から思っていたんです。景吾さんより、頑丈で色々な遊びができる相手が欲しいなって」

「まさか、そんなくだらない理由で俺をここに連れてきたわけじゃねーだろーな」

「そのまさかです」

「死ねっ」

「そんな怒らなくても平気ですよ。私といれば絶対楽しいですって」



それは明らかに間違いだ。今現在俺は不愉快な目に合ってる。



「あ、そうだ。手始めに、賭けでもしましょうよ」

「賭け?」

「そうです。賭け。ギャンブル。良い響きでしょう?ワクワクしませんか?お金でも物でも何でも良いですよ?勿論、私の体でも」


ふふ、と余裕の笑みを浮かべた彼女に腹が立って鼻の上に深い皺を刻む。


「お前の体っつーことは、なんだ?黙って殴られてくれんのか」



ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて見返すと、彼女はキョトンとした表情になり、それから、期待はずれだと言わんばかりに大げさに肩を落とした。




「スレてるって聞いていたのですが、そうでも無かったようですね」



その馬鹿にしたような目つきで、見下ろすの顔を俺は反射的に殴り飛ばした。全身に軋む様な痛みを感じたが、それでも目の前の気に食わない人間を倒す為に、俺は全身に鞭打ち、絨毯に転がったの上に跨り手を振り上げた。



「俺は、女だからって手加減しね―ぞ!」




俺はそのまま、何度か殴るとは動かなくなった。ぐったりと力を無くしたの上から、立ち上がり、「ざまあねーな」とはき捨てるように言って、俺はカバンを取って帰ろうとした。しかし、カバンを掴んだその直後、足の脛を蹴られ、俺は肌触りの良い絨毯に顔面をぶつけた。鼻と額が火傷したように熱くなった。




「結構痛めたのに、よく反撃できましたね」




顔を上げてみると、絨毯の上に転がっていた筈のが立っていた。俺が殴った時に出た鼻血をティッシュで丁寧に拭くと、部屋にある鏡をじっと見て「ま、良いや。どんな顔になってもお嫁にはいけるし」と呟いた。



「・・・てめぇ。こんな事して、ただで済むと思うなよ」

「何が不満なんですか?お互い暇を持て余しているんですから、楽しく過ごしましょうよ」



穏やかな様子で笑う。が自分と互角か、それ以上に強いことは何となく分かった。喧嘩は、体格の大きい奴の方が有利だ。肝の据わり方は同じくらいだろうが、の方が俺よりも大きかったし、なんといっても喧嘩慣れしているようだった。相手を不愉快にさせるほど、どこまでも冷静に対処する。しかし、それを認めたくない俺は、舌打ちをして睨みをきかす。


「じゃぁ、賭けろ。負けた方が相手の言うことを何でも聞くんだ」

「何でも?」



は俺が言ったことを復唱すると、目を爛々と光らせた。負けることなど一切考えていないようだった。



「期間は1ヶ月で許してやる」


勿論、勝つ気でいた俺は彼女に言い放ったが、実際に、1ヶ月も彼女に指図できる権利が与えられたとしても、大してメリットは無い様に思えた。金持ちそうだから、その辺は使えそうだが、パシリとしては、女は勝手が悪い。


「私は1年でも良いですよ」


にこにことうれしそうに笑うの目の前にオセロ盤を出した。彼女は麻雀が良いと不満げな顔をしたが、俺はルールを知らなかったので、無視した。






勝負の結果は、見事な惨敗だった。盤上はあっという間に真っ黒になっていき、勝ちを確信したは「言ったじゃ、ありませんか。『ずっと待っていた』と」胸を張り得意げに言った。







これは俺が小学4年生の2月14日のことだった。それからの日々はもう、のペースに巻き込まれるばかりで、気付けば、いつも奴が俺の隣にいた。賭けに負け続けたからと言って、素直に命令に従うような性格ではなかった俺は、悉く、を無視した。しかし、指示に従わなかった場合は常に制裁が加えられた。下校時間に門で待ち構えられ、突然現れては俺の顔面に拳を入れ、裏庭に連れられたと思えば、暴力を振るわれた。また、母親の勤めている店が、どういうわけか閉店に追い詰められたこともあった。



「世の中の大概のことは暴力とお金で解決できるんですよ」と、どこか満足げに言ったを俺は心底殺したいと思った。今から思えば、あれが、俺が一人前の『不良』になる一端をになっていた様に思う。










これがとの出会いだった。
そして、これが退屈でつまらなかった俺の人生の、波乱の幕開けだった。


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