小学1年生の時、景吾さんは彼の大好きなお爺様にねだって、犬を飼ったことがあった。彼がモルモットのように小さい犬を連れて、勝手に私の家に上がりこみ、血統書付きのその犬がいかに珍しく高価であるかを得意げに自慢していったことを今でも鮮明に覚えている。くりくりっとした目がとても印象的で、毛並みは絨毯のようにふさふさで、とても愛らしかった。しかし、半年も経たずして、景吾さんは、その犬を知人に預けることになったのだ。理由を聞いてみれば、不機嫌そうな顔をして「思ったより、大きくなったんだ」と、私に大きな歯跡が付いた腕を見せた。犬種はドーベルマンだ。大きくなるし、人間よりも強くなると承知の上で買ったのでは無かったのか、と彼を非難したこともよく覚えている。
だから、まさか、私が、彼と全く同じミスをすることになるとは、想像もしていなかった。
「あの、すみません。お茶を点てるのに着替えって必要なんですか?」
「必要なわけないだろう」
「あ、そうですよね。茶道教室ってどこにあるか知ってますか?」
「茶道教室?このビルの3階でやってるが?」
「あー、ここは4階ですよね」
「何言ってんだ。体験と言っても、この道場では手加減しないぞ。さっさと着替えて来い」
「はあ」
「返事は『はい』だ!」
「『はい』」
景吾さんに怒られるかなと思いながらも、借りた胴着を身に付け、体験で一通りのことを指導してもらった私は、その日のうちに言われるがまま入会金と月謝を払った。いつものように流れに身を任せて、気付いたら、ほとんどの放課後を道場で過ごすようになった。道場は土日平日問わず、朝9時から夜の8時まで開放されていて、景吾さんが部活で忙しい時は必ず顔を出すようになった。先生は「は熱心だな」と毎回うれしそうに私の練習につきあってくれたが、実は、私は空手自体には、まったくと言って良いほど興味がなかった。
「あ、、一応いっておくが、亜久津には気を付けろ」
「あくつ?」
「お前の同級生だが、素行がかなり悪い。喝上げ、親父狩り、喧嘩なんでもする奴だ」
「小4なのに?」
「そうだ。小4なのに、だ。末恐ろしいだろう」
「はあ」
「ともかく、目を合わせないようにしろよ。食われるぞ」
「それは怖いですね。外見的特長は?」
「危ないオーラが出ている」
「・・・オーラって目に見えるんですか?」
「心で感じろ」
空手は私にとって、ただの暇つぶしにしか過ぎなかった。むしろ、複雑で難解なルールがたくさんあり、やたらと精神論を押し付けてくる宗教色強いそのスポーツを、面倒くさくも感じていた。柔道にしろ、剣道にしろ、フェンシングにしろ、全ての格闘技には歴史があり、武士道やら騎士道精神やら、何かにつけては持ち出してきて、「暴力」とは違いますよと、声高々に主張する。喧嘩が大好きな私にとって、それはとても残念なことだった。
「先生!亜久津に月謝袋を取られた!」
「あちゃー。それは大変だったな。でも、まあ、良かったな。無傷で」
「金出さなきゃ、手首折るって脅されたんだ!」
「それで、月謝袋を出したんだな。ああ、賢明な判断だ」
「そんな物知り顔で頷いてないで、マジでなんとかしてくれよ!」
「いや、分かっている。本当なんとかしようとは思っているんだが、アイツ、道場に顔出さないからなー。手の施しようが無い」
良いじゃないか。暴力。
物理的に相手を打ちのめす行為は、刺激的で楽しい。勿論、精神的に相手を追い込む方が、もっと愉快であることは確かだけれど、心の傷はお金で解決できないからやっかいだ。
好きなスポーツは?と聞かれたら、真っ先に喧嘩と答える。
好きなオリンピック競技は?と聞かれたら、真っ先に陸上中距離走と答える。
何故なら、難しいルールが無いからだ。強い方が勝ち。早い方が勝ち。単純明快で好きだ。
「アイツ、マジ狂ってるよ。も気を付けろよ」
「はあ。あ、その後、取られた月謝はどうされたんですか?」
「母さんに訳を話して、銀行振り込みにしてもらった」
「根本的な解決策にはなっていないようですが」
「根本的な解決策って何だよ?」
「暴力ですよ。彼を倒すんです。アンパンマンがバイキンマンをやっつけるみたいに、バイバイキーンって」
「負けてるじゃん!ってか、馬鹿言うなよ。アイツに喧嘩で勝てるわけ無いだろ!」
「試してみたのですか?」
「まさか!」
「なら、どうして、無理だと思うのです。レッツ、トライ!」
「は全く分かってない。亜久津は悪魔なんだよ。楯突いて負けたら、何されるか分かったもんじゃねえ。大人たちだって言ってる。アイツに近寄っちゃいけないってな」
「どうして」
「片親だからだ」
「ほう」
「普通じゃねーんだよ。家庭環境が悪いからグレちまって、俺たちとは違う人種に育っちまったわけだ。人間として大事なものが欠けてんだよ」
「人間として大事なもの・・・それは一体なんですか?」
「良心だ」
「両親。なるほど、確かに片親じゃあ、駄目ですね」
「ああ、そうだ。駄目ダメだ」
空手道場に通い続けた理由は、暇つぶし以外にももう一つ理由があった。と、いうか、これが主な理由だ。稽古を始めるにしても、学校に通うにしても、一番大事なのは友達を作ることだと思う。私は今まで色んな習い事を景吾さんに半ば強制的にさせられてきて、友達も人より多くつくることが出来た。しかし、彼が押し付けてくる習い事は全て、「上品」なものだった為、似たり寄ったりの友人しかできなかったのだ。
そうして、いつしか私は、よりワイルドでシャープかつスマートな友人を探すようになった。自分で言っていて、いまいち、よくわからない理想像だったが、彼の話を聞いてピンときたのだ。これは運命だ。『亜久津』って少年は私の友達になるべきだ、と。
それから、私は『亜久津』の心を射止める為に、たくさんの計画を考えた。闘争心が高く、征服欲も人並み以上にありそうな彼を釣るのは、何かで勝負をするのが一番良いと思い立った私は、囲碁、将棋、麻雀、チェス、オセロ、ゲーム、そして一通りのスポーツを勉強し、朝から晩まで練習に励んだ。勿論学校の成績は下がり、そのことについては景吾さんに叱られたが、それ以上に私の心を占めていたのは、『亜久津』との決闘の日のことだった。
コンビニで彼に出会ったのは本当に偶然のことだった。神様はいつも私に味方してくれるんだな、と、自分の家まで快調に走るタクシーの中で思った。
計画通り、私はオセロで彼との勝負に勝った。
そして、彼に友達になるよう命令したのだった。
友達になっても彼は私の元に遊びに来てくれないので、いつも彼の学校の前で待ち伏せ、いや、待ち合わせすることになった。彼は私の顔を見ると必ず眉を顰めるが、決して無視することは無かった。きっと心の底では私のことを嫌っていないのだろう・・・と、思い込む。 そして、その日も彼は私が校門で待っているのを見ると、声をかけてもいないのに近づいてきた。
「俺のランドセルの中に毬栗詰め込んだのは、テメェか?」
「栗が好きだと聞いたので。あ、無添加無香料の国産の栗です。安心して召し上がって下さい」
「中に入ってあった教科書はどこにやった。いや、とりあえず一発殴らせろ。話はそれからだ」
「教科書ですが、今度うちに来た時に持って帰って下さって結構ですよ。あ、一応、中に挟まっていたテスト用紙は処分しました。不良の癖に100点取るなんて、一体どういうつもりなんですか」
「お前こそ、一体どういうつもりだ」
二人が出会ったバレンタインデーから、1年がとっくに過ぎていて、私たちは小学校6年生になっていた。この間、私たちは主に私の要望で、景吾さんとは行けないような競輪場や競馬場に行ったり、他校の生徒と些細なことで喧嘩してみたり、ちょっと危ない香りのする都会の裏路地なんかを徘徊した。原宿でアフリカ系の顔をした人たちに声をかけてみようと提案した時以外は、嫌々ながらも彼は私に付き合ってくれた。
しかし、相変わらず亜久津は威圧的で、私に対して嫌悪感を露にしていた。彼に睨まれる度に、何故だろう、と首を傾げてみたりするが、思い当たることが多すぎて、ついに解決したいとも思わなくなってしまった。
その年の11月の気温は温暖化の影響の為か、若干高かったが、秋風邪は冷たく、スカートをはいている私にとっては例年並みの厳しい寒さとなっていた。亜久津は首に赤いマフラーを巻いていた。亜久津の頭文字であろうか。不恰好に「A」と綴られたマフラーはどこからどうみても、市販のそれとは違っていた。
「暖かそうなマフラーですね。手編みですか?」
私が質問すると、亜久津は面倒くさそうに頷き「俺はいらねーっつったのに、ババアが勝手に」と、私から目を逸らしてポツリと呟いた。照れ隠しだ。すぐに分かった。同時に、胸の奥がズキンと痛み、信じていたものに裏切られたような感覚を、この時、私は抱いた。
そして、私は言ったのだ。
「いらないなら、燃やしましょうよ。今日は、焼き芋パーティーです」
亜久津は目を大きく見開いた。私は彼から目を逸らさずに、じっと見返した。
「いらないんでしょう?」
マフラーをぎゅっと握り、「ああ」と俯いた彼は、とても小さく見えた。私の家の庭の落ち葉を集めた。いつもより口数が少ない亜久津にも気を配らず、黙々と作業を続け、さあマフラーに火をつけようという時になって、亜久津はマフラーを私に押し付けて「人の自尊心を弄ぶなよ」と一言残して、帰った。次の日から、校門で待っていても亜久津は現れなくなった。
理科の授業中に見たテレビにエリマキトカゲが映っていた。ひだ襟を大きく広げ、走る姿が滑稽で、これを見た時、に似ていると思った。自分を大きく見せるのに長けているところがソックリだった。
と出会ってから、俺の生活はアイツを中心に回るようになった。放課後は、アイツが必ず校門で待ち構えていて、何らかの手段を取って必ず俺をつき合わせるように仕向けた。裕福な家庭で甘えられて育ったは、口調こそは丁寧だったが、本当に我侭で短気で乱暴だった。親の面を見てみたいと、何度も思ったし、見たら、子供を甘やかすな!と叫んでしまいそうなほど、の性格は悪かった。
「私といれば絶対楽しいです」と豪語しただけあって、が俺を退屈させることは無かった。少し付き合ってみれば、それなりに気が合うこともわかったし、何よりも、やりたいと思ったことを実行するだけの金と度胸がにはあった。そして、それが実の所、俺も前々から興味のあったことだったりしたから、結局はとつるむようになった。が調子に乗らないよう、不機嫌なポーズは常に保つが、3ヶ月も経つと俺はを一人の遊び相手としてくらいには認めていた。
そして、ある日、が俺に期待していることに気付き、それに応えられないことにも同時に気が付いた。
あれはにランドセルを取り上げられ、返して欲しいなら家まで来い、と言われた時のことだった。がいないであろう、平日の昼間、つまり、俺は学校をサボったわけだが、奴の家に行った。門前払いになることを覚悟して、インターフォンを押すと、顔見知りの執事が出てきた。彼は俺を見ると、困ったように眉を垂らし、「ランドセルでございますね」と言った。黒いランドセルがのメルヘンな部屋にあったことを訝しんでいたのだろう。俺が素直に頷くと、彼は俺をリビングに上げ、お茶を用意し「ただいま、お持ちいたしますので少々お待ちください」と丁寧に頭を下げてから部屋を出た。「働く」って大変なことなんだな、とガラにも無く沈んだ気持ちで思った。
気を紛らわせようと紅茶に手を伸ばした時、突然、廊下から大きな物音が聞こえ、それから小さな悲鳴のような女の声が聞こえた。驚いた俺はティーカップをソーサー置き、声を追って廊下に出た。 しばらくして、音の出所を探すうちに女の悲鳴が、「悲鳴」でないことに気付き、喘ぎ声であることを知ったが、その時には俺は部屋の前にいた。ドアは小さく開いており、俺は昼真っから見たくもないものを見た。
抱き合っている男女の女の方が、家政婦であることは地面に落ちている衣服からすぐに分かったが、相手の方は高そうなスーツを着ていて、使用人には思えなかった。の父親だろうか、と思い至った所で、背後に人の気配がして後ろを振り返った。真っ赤なルージュを付けた女が冷めた目で、腕を組んで中を見ていた。ずいぶん美人だったが、瞳の奥でギラギラと燃えるような眼差しがと似ていて、俺は彼女がアイツの母親だと確信した。
女は俺をチラリと見て、しかし、何も言わず、ふんと鼻を鳴らすと、そのままドアを開けた。
「失礼するわよ」
メイドの小さな悲鳴が響いた。
「そのまま、その運動は続けていても良いから、よく聞いて。離婚届けを持ってきたわ。慰謝料については弁護士に全部任せてあるから、後は適当によろしく」
女の発言に俺は、ただただ、驚くばかりだった。夫婦というものは、こんなにも淡白で、こんなにも荒み廃れたものだったのか。物心つくころには、既に父親がいなかった俺には理解に苦しむ所があった。呆然としている間に、メイドは制服を拾い集めて部屋から出、俺の横を通って長い廊下を逃げるように走っていった。
「タイミング、わりーな」と、男はタバコに火を付け、女を見た。
「慰謝料って何なんだ?お前が勝手に若い男作って、離婚するって言い出したんだろ」
「それでも、お金は必要だわ。彼、ニートだし」
「どうして、そんな奴とくっついた」
「貴方より顔が良くて若いから」
男の方が悪いかと思えば、女の方も意外と最低だった。なるほど、こういう親に育てられるみたいな人間ができあがるんだな、と、どこか納得してしまう。とりあえず、俺がここにいることを気にすべきじゃないだろうか。二人とも、俺をいないように扱って話を進めた。
「は貴方が引き取ってね」
「あれは今、母親が恋しい時期じゃないのか?」
「彼、子供嫌いなのよ」
「それでも母親か?」
「DNA鑑定でもしてみる?」
「・・・離婚するなら裁判沙汰になるぞ」
「望む所よ。貴方の負けは見えている」
「どうだろうな」
「あんまり騒ぐと次の選挙で落ちるわよ」
それじゃ、私これからデートだから、と言い捨てると女は踵を返し、勢い良くドアを閉めた。閉まったドアを、唖然とした様子で見ている俺の横を通りすぎ、女は底の高いヒールをコツコツとならしてその場を立ち去った。女の、その腹立たしいほど優雅で高圧的な態度は、どことなくに似ていた。
ドアの向こう側で、罵声と共にガラスが割れるような音がしたが、今度は中を覗かず、今日ここに来た目的のランドセルを取りに、リビングに向かった。
帰路につきながら、なんとも言えない空しさを覚えた。
俺は、正直、同情した。人に同情されることはあっても、俺は人を同情することは無かったから、酷く狼狽した。
同情を抱いたと同時に罪悪感も抱いた。そういう風に思われることの屈辱感を、俺は人一倍知っていたからだ。その罪悪感から逃れようと、 その後、俺はの我侭にもつきあうようになった。危ない橋を渡りそうになると止めてやり、まるで保護者のように付き添った。そのうち、コイツには俺が付いていないとダメなんじゃないか、と思うようになり、 気付けば、出会ってから1年以上の時が過ぎていた。罪悪感は無くなり、同情は次第に薄れていった。代わりに芽生えたのは、世間一般で言う「友情」だった。
マフラーの話をしなければ良かったと思う。
少なくとも、母親の話を持ち出さなければ良かった。
けれど、まさか、燃やすと言い出すとは思わなかった。
そこで、俺はが持つ残忍性や孤独感は決して共有できない代物だと気付いたのだ。
だから、アイツとは距離を置いた。
「亜久津、俺らと遊ぶの久しぶりじゃん。最近、他校の女と派手に遊んでるって聞いてたけど?」
「金持ってたから適当につきあってただけだ」
「うわー、こえー!小学生が口にする言葉だとは思えねー」
「てめぇ、2年しかちげーのに先輩面すんな。ドタマかちわんぞ」
「そ、そう、マジに受け取るなよ。悪かったから」
同級生とつるむ気などサラサラない。中学生に混じって、コンビニの前でタバコをふかしながら、どうでも良い、くだらない話をする。退屈で滑稽な日々がまた始まる、と思い、自然と溜息が出た。灰皿にタバコの灰を落としながら、初めてタバコを吸った日のことを思い出す。が父親の書斎から持ってきたタバコをチラつかせ、「レッツ、トライ」と言って、俺と自分の口に一本ずつ加えさせ、自分のタバコにライターで火を付けてから、そのタバコの先を俺のに、くっつけた。胸が高鳴ったことを覚えている。タバコという初めての味を知ること、それが違法であること、そして、が作ったムードが全身に緊張感を与え、俺はそれに酔いしいれた。アイツは良い奴じゃないが、人の感情の動かし方を知っているようだった。
「まあ、でも、お前に捨てられたとは言え、あの子にとっても良かったんじゃないかな。お前に恨み持っているヤバイ奴らに、襲われても困るだろうしな」
「ヤバイ奴ら?」
面倒くさそうに目を向けると、ソイツは俺が興味を抱いたことに気を良くしたのか、機嫌良さそうに要領の得ない話をし始めた。
「お前がいつも亜久津とつるんでる奴だな」
赤いマフラーは、きっと落ち葉と一緒に燃やしてもおいしい焼き芋はできない。
だから、やっぱり彼に返そうと思った。そうして、1ヶ月、放課後になると私は一向に現れない彼を、校門の前で待っていた。そして、今日、亜久津じゃない男が現れた。どう見ても、小学生じゃない、眉毛の濃いガタイの良い人だった。
「悪いようにはしねー。亜久津を誘き出すの餌になってもらうだけだ」
「彼、来ますかね?喧嘩中なんですけど」
「・・・喧嘩中なのか」
「はい」
「まあ、とりあえず、大人しくついて来い」
彼の意図する所と私の意図することが同じだったので、大人しくついていった。狭い裏路地を歩きながら、首もとのマフラーを指でいじる。
大きい網目もあれば、小さいのもある。
市販品のように綺麗ではない、それを、自分の首に巻いてみる。
とても暖かい。けれど、この温もりは、私のためではなく、亜久津のために用意されたものだ。
正直、亜久津には幻滅した。勝手だと知りつつも期待していた分、とても悲しくなった。
彼はもっと孤独で、欠けていて、だから、私と一緒にいれば満たされると思った。私も欠けているから、お互いに補えられると思った。けれど、実際のところ、彼は欠けてなんかいなかった。
「お前、名前は?」
「です」
マフラーに描かれた「A」のアルファベットを眺めながら、指で網の目を大きくする。線が寄って、逆から見れば、勝利の「V」になった。
「、お前にはここで亜久津が来るまでいてもらう」
案内されたのは山吹中の体育館だった。私を連れてきた男以外に、2人の男子学生がそこにはいた。私を囲み、痛くないよう気を付けて縄を縛っていく。本当に悪いようにはしないようだった。真っ白い制服を着ている。汚れが目立ちそうだな、と思った。
「どうして?」
「中学生が3人も集まって、小学生をいたぶるってのは悪いかもしれないが、俺の弟が亜久津に殴られて入院したんだ。黙っていたら男が廃る。そう、思わないか?」
どうして、亜久津のお母さんは、何で亜久津を愛するんだろう。亜久津は『悪い子』なのに。
ずっと、景吾さんの隣にいた私は、大人たちがどんな子供を好んで、どんな子供を褒めるのか見てきたつもりだ。景吾さんのように、礼儀正しく、頭も良く、命令されたことを確実にこなし、しかも大人を立てることを知っている子供だ。景吾さんは何処に行っても、大人たちから賞賛されていた。誰もが、景吾さんの両親に羨望の目を向けた。
しかし、景吾さんを羨ましいと思ったこともなければ、ずるいと思ったことも無い。彼が特別選ばれた人間でないことを私は知っていたからだ。彼は周囲から好かれる為、それだけの努力をしてきた。周囲の期待に答えるため、それ相応の犠牲を払ってきた。睡眠時間を削って馬鹿みたいに勉強することもあれば、食事もまともに取らずに委員会や学校行事の仕事の時間に費やすこともあった。それだけの事をやれば、それは両親から愛されて当然だし、周囲の大人たちの目を引くことも分かる。
だが、亜久津はどうだ?
何で彼の母親は彼を愛するんだろう。
「、お前、亜久津の自宅の電話番号知っているか?」
「知ってますけど、彼、絶対に家にいませんよ。それに彼のお母様は働いていますから誰も電話に出れません」
「じゃあ、どうやって連絡を取るんだ」
「それは、私に聞かれても」
黙り込んでしまった男たちに、は顔を引き攣らせた。もしかしたら、彼らは何の計画もなしに、私をここまで連れてきたのかもしれない。
「あの、一応携帯持ってるんでそちらにかけてみたら、いかがですか?」
「小学生の癖に携帯持ってんのかよ」
厳密に言えば、私が持たせたものだったが、その説明は省いて電話番号のみを伝える。
そして、喜んだ4人に水を差す。
「でも、彼、来ますかね?喧嘩中なんですけど」
「「何で、喧嘩するんだよ!」」
私を連れてきた男以外の2人が同時に叫んだ。
「別に好きで喧嘩しているわけじゃないですよ」
「仲直りしろよ」
そう言って男の一人が携帯電話を押し付けてくる。
「そうしないと、此処に来ないだろ」
「喧嘩中の相手の電話に耳を傾けると思います?」
しんと静まる体育館の中、3人の男と1人の女の溜息が響いた。
それから、私を連れてきた男が、ダメ元で電話をかけてみた。何度目かの呼び出しで、相手が出たらしい。男は向こうに私がいかに痛い目にあっているかを必死に伝えていた。まるで、人質に取られたのが自分の親しい人間かのように、加害者というよりも被害者に近いような怯えた声色だった。
「無抵抗のか弱い女の子を痛めつけるのは性に合わないんだが、悪いな。お前の知り合いっていうのがいけなかった。状態?悲惨だ。額がパックリ割れている。血だらけだ」
これは決定打だった。亜久津は来ないと確信する。私が『無抵抗のか弱い女の子』に該当する人物でないことは彼が一番よくわかっている。
しかし、携帯を切った後、男が告げた言葉は予想外のものだった。
「アイツ、来るって!」
3人は両手を挙げて喜んだ。
「どうして?」
どうして、亜久津は、何で此処に来るんだろう。私は『悪い子』なのに。
不思議に思った。
その後、どうなったか。そんなの言うまでもない。攫われたお姫様を助けに来た王子様は、敵をやっつけて、物語はハッピーエンドで終わるのだ。
亜久津が現れたと同時に私は緩く結ばれていた紐を解き、亜久津の味方として参戦し、私たちは勝利を収めた。そして、私は少し血が付いてしまったマフラーを彼に返した。網目が崩れて「A」が、V字型になっていることに気付いた亜久津は一瞬眉を寄せたが、私からマフラーを受け取ると、自分の首に巻いた。
「暖かいですか?」
「そういうの止めろ」
「そういうの、と言うと」
「分ってる事をワザと聞くな」
「癖なんです」
「なら、直せ」
「直せないから癖なんですよ」
「・・・。お前さ、・・・一度俺に謝れ。それで全て水に流してやる」
亜久津が真剣な表情で見てきた。私は思いっきり舌打ちしたくなったが、再び名前を呼ばれると、それは小さな溜息に変わった。
「約束します。もう貴方の自尊心を傷つけるような行いはしません」
「謝れ」
「・・・」
「」
「・・・ごめん」
「・・・、知ってるか。エリマキトカゲは外敵に襲われると初めは襟巻きを広げ威嚇するんだ」
「・・・エリマキトカゲ?」
「それでも相手が怯まない場合は後脚だけで立ち2足走行をして逃げるらしい」
「はあ」
「けどな、通常は4足で歩くエリマキトカゲにとって2足走行の負担は大きい」
「へえ」
「だから、ストレスで死ぬ」
「あらら」
「お前、エリマキトカゲに似てるって言われたことないか?」
亜久津が一体何の話をしているのかは分からなかったが、とりあえず、私はマフラーで彼の首を思いっきり絞めてやった。
との勝敗は、オセロなんかじゃなく、アイツを「守ってやりたい」と思った時点で決まった。
幾度も喧嘩を重ねながらも、と俺の関係は続いた。反省を知らないは我侭の言いたい放題、好き勝手やり放題だった。親の経済力と権力を傘にして、とんでもない性悪になった。中1の時には「亜久津、銀髪って格好良いですよね」と、麻雀部屋で寝ていた俺の頭を勝手に銀髪にし、「銀髪が格好良いのではなく、雅治様が格好良かったようです」と感想を残した。中2の時には「亜久津、バイク乗ってみたくありません?」と、無理やり運転教本の勉強を強いられ、交通マナーを頭に叩き込まれた。
「お前、友達いないだろ」と言ったら「亜久津がいるじゃないですか」と返され、その上「私が我侭を言うのも、甘えられるのも亜久津だけですよ」と体を摺り寄せてきた。うれしそうに笑うを見て、気を良くすることもあるが、たまにの母親を思い出すと、俺はすぐさま奴から距離を取った。あの毒舌をかます口の、あの真っ赤なルージュが目に焼きついて離れない。将来、きっともああなるのだ。そう思い警戒する。
中3になる少し前、中2の冬、俺たちの関係が大きく変わる一つの転機が訪れた。冬休みにがヨーロッパ旅行に行っている間に、俺の身長が伸びて、アイツを見下ろすくらいになった。帰国していつもと同じように麻雀部屋に入ってきたは、俺を見ると顔を引き攣らせて、ベルギーの土産物を床にボトリと落とした。
「亜久津、大きくなりました?」
「ああ、183だ」
「・・・183cm」
反射的に後ずさり、壁にべったり背を付けたは警戒するように俺を見た。
「私たち、もう良い大人ですし、もう喧嘩とかするのやめましょうね」
「そりゃ、都合良すぎじゃねーか?」
「仲良くしていきましょうと言っているんです」
「お前が一方的に俺をいたぶっていたって、自覚はあるようだな」
「何のことです?」
「身長差ってデカイよな。苦労した日々、忘れねーぜ?」
「亜久津、私たち、親友じゃないですか」
「、歯食いしばれ」
「え、ちょっと、本気ですか」
戸惑いながらも、はぎゅっと奥歯を噛み締めるように口を噤み、俺を見据え、構えを取った。右手はポケットに突っ込んであるからには、刃物でも所持しているのだろう。昔から用意だけは良い奴だった。
下から見ていた時、は本当にデカク見えた。圧倒的な経済力と暴力を持って、俺を押さえ込んでいた。今、上から見るは、本当に小さくて、何でこんな奴の言いなりになっていたのか、自分でも理解できないほどだった。いや、どこかで理解はしていた。身長だって、を抜いたのは2年の始まりの方だったし、その前に体格は俺のほうが良くなっていた。筋肉のつき方も、やっぱり、女のそれとは全く違った成長を見せて、中学生になってからはいつだって逆らえることができたのだ。それをしなかったのは何故か。答えは簡単だった。
「お互いの未来の為にも、救急車でも呼んでおいた方が良いと思うんですが」
どう思います?と、冷静さを取り戻し、腹をくくったは俺と本気でやりあうつもりのようだった。『親友』とは、どの口から出たのか、呆れて物も言えない。
真剣な表情で俺と対峙するを鼻で笑い、机の引き出しから厚い封筒を取り出し、奴の顔に投げつけた。俺の行動を目で追っていたは、手でそれを受け止めると眉を顰めた。
「何ですか。これ」
「300万だ」
「喝上げにしては金額が多いように思いますが?」
「親父の金だ」
「親父狩りですか」
「ちげーよ。てめぇの親父がてめぇと『離れろ』って、寄越してきたんだよ」
「ああ、手切れ金ですか」
は大して驚く様子も無く、中身を確認して『本当に300万ですね』と感心したように言った。それから、酷くうれしそうに笑い、軽い足取りで俺の傍によって来た。そして、ぐっと顔を近くまで寄せて俺の目をじっと見た。
「いらないんですか?」
「俺は人の指図は受けねーよ。特に偉そうな大人の指図はな」
「パパ、偉そうでした?」
「てめぇと同じで、出会い頭に金をばら撒きやがった」
「お金で大概のことは解決しますからね。特に亜久津みたいな類の人間は柔軟性に富むので、お金で決着がつくと思ったんでしょう」
「益々気に食わねー」
「じゃあ、パーと遊んじゃいましょうよ」
手に持った300万の束を弧に広げて、はにやにや笑った。
「は?それは・・・」
「別に契約書にサインしたわけでもないんですから、これはパパが勝手に落としていったということにすれば良いじゃありませんか」
「300万だぞ」
「300万ぽっちで何を言ってるんですか。今日は寿司とピザの出前頼んで、麻雀で夜を明かしましょう」
嬉々として、寿司屋に電話をかけるを見て、やっぱ、コイツとはあの親父の言った通り手を切った方が良かったかもしれない。そう思ったが、それは今更過ぎた。
「亜久津、今私すっごい幸せな気分です」
満面の笑みを浮かべたを見て、頭をかく。
跡部に指摘するまで俺は気付かなかった。
彼女をつけあがらせていたのも、調子に乗せていたのも、甘やかしていたのも全て自分だったということに。
他者との接触によって人格は形成される。