再開2周年企画

ざ・ちぇんじ(氷帝入学後のお話)



「貴方とはお付き合いできません」

大音量のBGMと共に、不愉快なセリフを吐くゲーム機を叩いて止める。天井からは複雑な網目模様の白いレースが敷かれ、ベッドの周囲を囲んでいる。雑多なものが並ぶ、全ての壁がピンクで支配された部屋で、景吾は目が覚めた。

の部屋だった。

カーテンの隙間からは、日差しが伸びていて、彼女の部屋で寝てしまったことに気づくが、そこに至るまでの記憶がない。中学に上がってからは、テスト勉強のため、彼女を跡部家に泊めることはあっても、景吾が家に泊まったことはなかった。少なくとも同室で一夜を明かすなんて、あってはいけない状況だった。

辺りを見回してもの姿はなく、ずきずきと痛み出した下腹部を抱え、トイレに向かう。

そこで俺は、自分の身に起きた悲劇を知ることとなった。




***************




「ねー、聞いて!また彼氏が浮気したんだけど、やっぱりあれがいけなかったのかな?」

「それより、あのインスタ見た?あそこで撮った写真超ウケてたよね」

仲の良い双子が、昼休みになると机を付けてきて、弁当を広げると矢継ぎ早に話しかけてきた。女子って言うのは指示語が多い上に、話が良く飛ぶからついていけない。しかも、こちらが返事をする前に他の話題に移ってるので、会話をするタイミングが掴めない。

「元気ないなー。例の乙女ゲーム、またクリアできなかったの?」

でも、問題はそこじゃなかった。

「ねえ、?」

そう。俺がになったこと、そこが問題だった。

「生理でしょ。プールも休んでたもんねー」

ついでに、人生初めて生理を経験していることも、だ。

トイレでズボンを脱いだ時、本来あるべきものが付いてなくて下着が血だらけだった為、あれが取れたんだと本気で思った。が、そっちの方がまだマシだったんじゃないかと思える事態が待ちうけていた。

上げた悲鳴が、声が、のもので、駆け寄ってきた使用人たちが「お嬢様」と俺のことを呼び、鏡を確認すると驚いた顔をした「」が映っていた。

着替えは使用人に頼み無事登校できたが、転校して間もないにもかかわらず、教室に着くまで、やたらいろんな人から声をかけられるので対応が大変だった。交友関係が広いのは知っていたが、氷帝にずっといた俺が、話したこともなく、名前さえ知らない人間も多くいたので驚く。

普段の彼女の様に表情を変えず、敬語を使ってやり過ごした。多少可笑しくても、本人かどうか疑う奴はいなかった。当たり前だ。どこからどう見ても俺はだった。


「ってか、今日の跡部様、やばくない?」

双子の視線の先、窓の外へ向ける。そこには、サッカーグラウンドを走っている俺の姿があった。ちょうどゴールを決めたようで、メンバーからハイタッチを受け、見物していた女子たちに手を振ると、3階のこちらの教室にまで、黄色い声が届く。

問題はもう一つあった。跡部景吾が普通に存在し行動していることだ。

入れ替わっているなら、だろうが、それならば朝一で相談してくるはずだ。けれど、俺たちは、まだ言葉を交わしていなかった。つまり、あの跡部景吾は、第三者に乗っ取られている可能性が高い。もしくは、第2の俺か、いや、この場合、俺が第2なのか?はどうなってるんだ? 何もわからなかった。


「見てみて、おもしろいよー」

指さされた方に目を向けると、相手チームにいる豪と、グランドの隣、テニスコートでフェンスにへばりついた忍足が、恨めしそうな顔をしていた。よく分からない状況だが、良くない状況だということは、よく分かる。


「部長、朝からおかしいんですよね」

何処から降って湧いてきたのか、隣の席に座った鳳が、総菜パンの袋を開けながら言うと、双子の1人が「出たな」と眉を潜めた。ここは3年の教室で、下級生が気軽に足を踏み入れる事ができる場所ではない。俺はいつも食堂で食べるので気にしたことがなかったが、鳳が、と昼食を度々一緒にしていることに動揺する。俺の前では委縮し、申し訳なさそうな素振りを見せていたが、本当は虎視眈々とを狙っているんじゃないかと疑ってしまいそうになる。

「でも、一番おかしいのは、さんですよね?」

パンを噛みちぎった鳳に、鋭い眼光を向けられ、息を飲む。

「まるで、別人みたいです」

なんで、分かるんだ?
恋の力か?

「生理が辛いんですよね。分かります」

なんで、分かるんだ?
お前も女になったことがあるのか?




***************



さん、提出物は期限内に出してって、何度言えば分かるの?あと、宍戸さんと一緒に作った作品は、話し合って持ち帰りなさい。くれぐれも押し付けあわないのよ」

なんで俺が叱られなきゃいけないんだ。美術教員に持たされた段ボール箱を睨むと、大量のペットボトルのキャップに埋もれた銀色のジャガーの目とかちあう。

「返事は?」

「はい」

屈辱的だったが、続いて「だから、甘やかされて育った金持ちって困るのよね。常識がないんだから」と吐き捨てられると、に関しては全くその通りなので何も言い返せなかった。

廊下に出て行く教員とすれ違った男子に気づき、腕を掴んで美術室に引き摺り込む。朝から話してみたいとずっと機会を待っていたが、ちょうどよかった。中央で分けられた艶のある色素の薄い髪、特徴的な泣き黒子を携えた顔が、驚いた表情をする。そう、捕まえたのは、跡部景吾で、目の前に段ボールから取り出した鉄屑を見せつけ、反応を伺う。


「これなんだと思います?」

「ジャガー」

そいつは、簡潔に答えた。乱暴に扱われて、質問に素直に答えるなど、全く俺らしくない。

「そう。これは貴方のお父さんが大切にしていた車のエンブレムです。ボンネットが壊されたのは、私の転校が決まった翌日。勿論、知ってますよね?」

の喋り方を真似て、相手を問い詰める。

「ああ」

「では、愛車を傷つけられた貴方のお父さんが、その夜、自室で静かに泣いていたことを覚えてますか?」

「次は国産車を買うべきだな。安くて、しかも頑丈だ」

「・・・では、これを見て、どう思います?」

ジャガーを段ボールの中に落としてみせる。じゃらじゃらと、ペットボトルのキャップが安っぽい音を立てて四方に散らばった。

「ナショナリズムの象徴」

「お前、だろ」

「あ、ばれちゃいました?」

舌を出して笑ったので、その舌を思いっきり掴んで引っ張る。美術室に入ろうとして、偶然目撃した下級生が、大袈裟に走って出ていったが、気にしないことにした。

「痛いですね。これ、明日には口内炎になりますよ」

「連絡か、合図くらい寄越せよ。常識だろ」

「私たち入れ替わりましたかー?って?非常識ですよ。だから、甘やかされて育った金持ちって困るんですよ」

「…いつからいた?」

「貴方が美術室に入るところから」

常識についてと議論することを諦め、スマホを取り出し連絡先を見ながら、次に話を進めることに決める。

「よし。入れ替わったことも分かったし、専門家に相談するぞ。脳外科医当たりに聞けば、なんらかの糸口が見つかるだろ」

「病院には行きませんよ」

「・・・なんでだよ」

普通、こういう時は入れ替わった二人が協力して、元に戻るんじゃないのか?それで、人間的に成長したり、恋愛感情が芽生えたり、ドラマが生まれるんじゃないのか?

むしろ、将来的に結ばれる俺らに必要なプロセスだったんじゃないかって、ポジティブに受け止め始めていた俺の考えを、どうして否定する。

「予定より先に『跡部』の姓になりましたが、何事も遅いより良いでしょう」

お前もその気でいてくれてたんだな、と感動してから、すぐ冷静になる。
いやいや、違う。俺は、こんな形を望んでいたわけじゃない。

「景吾さんは嫌なんですか?」

「好きとか嫌いとか、そういう問題じゃないだろ」

「難しく考えるからいけないんです。要は、この状況を受け入れられるかどうかなんです」

「到底、受け入れられない」

「今日は、生理二日目で辛いかもしれませんが、そのうち慣れますよ」

「あのな、生理は問題じゃないんだ。こんなもん、俺の子供を産むためだと思えば耐えられるだろ」

事の重大性を説明してもは、気にする様子もなく、自画像を描くために壁にかけられている姿鏡を見ながら、髪の分け目を変えたり、ウィンクしたり、色々な動きをして感嘆する。

根気よく説得を続けながらも、本当に医者に相談することが最善なのか、と言う疑問が浮上する。守秘義務があろうとも、跡部家と家の子供たちが、おかしくなったという噂が立たないとは言い切れない。看護師、薬剤師、病院の患者、記録から、情報が漏洩すれば、今まで築いてきたものを簡単に失う。

特に祖父はそういう話に敏感で、跡取りの話も取り消される恐れがある。

原因が分からず、戻れもしないなら、いくら非現実的な事でも、の言う通り、まず現状を受け入れる方が、無難かもしれない。判断し行動を移すにも、情報不足なことは否めなかった。

「そうですよ。景吾さん、急がば回れです」

俺の思考を読み取ったかのように、が鏡越しに俺を見る。

「ああ、そうだな。、ルールを決めるぞ。お互いがいつ戻っても良いように、少なくとも1週間は、俺らしく振る舞え」

本当は期間を5年くらい設けたいが、たった1日で鳳に別人と言われてしまうくらいだ。押さえつけるのも1週間が限界だろう。時間稼ぎだが、その一週間で今後のこと決める。

「断ります」

「なんでだよ」

「私は私がやりたい事をやります。それがアイデンティティなんです」

腹だけでなく、頭まで痛み出す。生理のせいじゃないことだけは確かだった。

「・・・従えないなら、お前の部屋にある漫画、ぬいぐるみ、それからゲーム機を全て捨てる。特にあの無駄にキラキラした男たちに言い寄られる類のソフトは絶対にだ」

「『王子様とトキメキワンナイトラブ』だけは、ダメですよ。まだ敵国のイケメン指揮官と、友好国のダンディ宰相を攻略できてないんですから」

ワンナイトに3年も費やすな。自国の王子はどうした。あまりにくだらない内容にツッコミも心の中に留める。

「それに、貴方がそういうつもりなら、ベッド下のエロビを捨てます。」

全く覚えがないし、今時ベッド下にエロビデオを隠す奴はいない。そういう類はダウンロードする時代だけれど、実情を話せばパソコンを荒らされるのは必至なため、黙っておく。

「今朝、部屋を物色して見つけましたよ。団地妻シーズン1から、団地妻ファイナルシーズンの全6シーズン。…って、貴方、どんだけ庶民好きなんですか。金持ちの嗜みですか。道楽ですか。セオリーですか。本当にうんざりします」

しゃべりながら機嫌を損ね、顔を赤くして怒り出す自分の顔を見ながら、先日忍足が置いていったものだと思い出す。

「別に捨てて良い」

「実は、既に捨てました」

じゃあ、なんで引き合いに出したんだと、喉元までにでかかった言葉を飲み込んで話を戻す。彼女に常識を問わないことを決めたばかりだったことを思い出したのだ。

「とにかく、ソフトを捨てられたくないなら俺の条件を飲め」

「一週間なら飲みましょう」

「それで良い。とりあえず、今日は放課後、塾の統一模試があるから、まずそれに出ろ」

「ああ、任意受験のやつですね。私のとこにも案内は来てました」

「だろうな。俺の記憶が正しければ同じ塾に通っている筈だからな」

「私の記憶が正しければ、受講料は払ってる筈です」

「・・・とにかく、必ず1番を取れ」

「鉛筆転がすのは得意なんです。任せてください」

とりあえず、今日一日で塾の教師と職員一同の信頼を失う。あと一週間のうち、俺はどれだけのものを失うのだろう。漠然としていた不安が、急に現実味を帯びて襲ってくる。

「因みに、私にも放課後予定があります」

「言ってみろ。俺は完璧にこなしてやる」

「完璧も何も、幸村さんの妹の誕プレ選びに付き合ってあげるだけですよ。これを渡せば済むでしょう」

そう言いながら、が段ボールを指さしたので唖然とした。

「人の妹を何だと思ってんだ」




***************





・・・と、偉そうにツッコミを入れたことを後悔している。

の言う通り、幸村に段ボールを押し付けて早々に帰れば良かった。


放課後、彼の妹へのプレゼントを選んでやり、流れで喫茶店に行くことになったのだが、そこで延々と紡がれる仁王のネガティブキャンペーンに、景吾は辟易していた。仁王にちょっかいを出されたくがないための牽制なのかもしれないが、くどく、しつこく、つまらない。最終的には、最近の自分の活躍を語り出したので、主旨がずれてるぞと指摘してやりたくなった。

仁王の悪口も聞きたくないが、幸村の自画自賛はもっと聞きたくない。

さっさと店を出ようと、勝手に頼まれたチョコパフェを味わうことなく口に放りこんでると、苛立ちを察した彼に「あの日なのに、連れ回してごめんね」と言われる。女兄妹がいるところは、恥じらいもなく生理について話すことができ、しかも理解があるのかと驚きを通り越して感心した。

しかし、次の瞬間、幸村が「クリーム付いてるよ」と俺の口元を親指でなぞり、そのまま自分の口へ持っていったので背筋が凍る。

「ふっ!!」

ふざけんな!と、怒りで口から飛び出しそうになった言葉を両手で抑えると、幸村は楽しそう笑ったので、怒りで紅潮したこちらの顔を、照れてると受け取ったのかもしれない。

その様子すら腹立たしくて、震える拳を抑え「ちょっと洗面所へ」と言い残し、席を立ち店奥の厨房から外に出て、置いてあった業務用のゴミ箱を蹴り倒して、その場に座り込む。

さすがに店内で暴力事件はまずい。ネタが尽きた三流週刊誌あたりに「官房長官の娘、同級生を殴る」と取り上げる恐れがあった。

あの状況で、はどんな反応をするのだろう。

いや、彼女の場合、ナショナリズムの象徴という段ボールを、押し付けて帰ってしまうから、そもそも喫茶店にくることもなく、こんなハプニングが起こることもないのか。彼女の役を完璧にこなすと言っておきながら、最初の判断とその後取った行動が、彼女らしくなかったことを思い知る。


「こいつが、か?」

頭を抱えていると急に地面に影が落ち、野太い声が降ってきた。両腕に入れ墨を入れた大柄の男が、ルドルフの制服を着た男子たちに訪ね、彼らが頷く。

「俺の仲間を、ボコって入院させちゃったんだって?」

なんのことか分からずにいると、突然襟首を掴んできて持ち上げられた。息ができず、つま先が地面から浮かんだと思ったら、近くの塀に向かって投げ飛ばされ、制服に入っていたものが勢いよく散らばる。有名ブランドのロゴが入った櫛、リップ、ハンカチ、それから財布を見た男が、驚いた表情をし、唇を綻ばせた。

「良いもん持ってんなぁ。制服も売れそうだな」

大股で近づいてくると、ブレザーの襟元を撫でる。傷んだ背中と生理で重い腹部のせいで動けず、されるがままだ。

「体はどうかな?」

ボタンにかけられた手を押しのけると、顔を叩かれた。目の前が暗くなり、右頬がカッと熱くなる。馬乗りになってスカートのファスナーを探る男を見て、血の気がひいていく。の体だぞ。

「やめっ!!」

声を上げた瞬間、男が、真っ白な制服を着た男に、蹴り飛ばされて、吹っ飛んだ。

軽自動車にぶつかってもびくともしなさそうな、大柄の男がだ。宙を舞い、鈍く低い音を立てて、電柱にぶつかる。

蹴り飛ばした男は、勝利の余韻に浸ることもなく、他のルドルフ男子たちも次々と薙ぎ倒していった。それが、亜久津だと気づくまで時間はかからなかった。

圧倒的な力を見せつけて、ものの数分で男たちが地面に伏していく様子を、呆気に取られていたが、「らしくねぇな」と声をかけられて意識を戻す。

タバコに火をつけたところを見ると、手を貸すつもりはないようだった。膝に手をついて立ち上がろうとしたが、足元がふらつき、亜久津に支えられる。亜久津は舌打ちした後、「月末か」と呟き、「飲んでねーのか」とロキソニンの錠剤を差し出してきたので目を疑う。


お前は俺と同じ一人っ子な筈だ。
なんだこの神対応は。母親との二人三脚の人生で培われたのか?

驚きで固まっていたが、背後から、再び立ち上がって亜久津を襲いかかろうとしている大男に気付き、慌てて「うしろ!」と叫ぶ。



しかし、亜久津が振り返る前に、大男は倒れた。


「背後が、ガラアキですよ」


倒れた男に代わって、登場したのは、跡部景吾(俺)だった。つまり、だ。
こっちを一瞥し、はだけた胸元を指差してから、亜久津を見た。


「ロストバージン?」


全て言い終わる前に、他の男たち同様、亜久津に殴り飛ばされていた。



***************






「いや、俺も薄々おかしいなと気づいてはいたんだよ?カフェに入った時点で、順調過ぎるって不思議に思ってたんだ」


あの後騒ぎを聞きつけて駆けつけてきた幸村、ピアノのレッスンが休みになったからと横に立っている鳳、ソファに腰掛けタバコを吸っている亜久津、それから、「ほんと冗談通じないんですから」とぶつぶつ言いながら口元に絆創膏を貼っている俺がいる。

正確には、俺の姿をしたが、いる。

俺らは亜久津の知人の事務所にいた。

「で、入れ替わったと?」

話を切り出したのは、亜久津だった。

殴り飛ばされた跡部(俺)が受け身を取った後、血が混じった唾を地面に吐いて、再び立ち上がった残党を、笑いながら再起不能なまでに殴りつける姿が、やり方がそのもので、事務所に入ってからは、迷わず部屋奥の天袋から救急箱を取り出し、勝手に絆創膏を使い始めた所で信じざるを得なくなった。

「ああ、お前らに、言うつもりもなかったけどな。そういうことだ。な?」

半信半疑の3人を前に、自信たっぷりに言い切ってから、同意を求めてを見た。

「さあ?どうでしょう?」

亜久津が咥えていたタバコを取り上げたは軽く吸ってから、ふーと煙を俺に吹きかけた。咳き込んでる間に、「間接キスだ」と鳳が口に手を当て、幸村が「男同士だからセーフだよ」とあしらった。

どちらかと言えば、アウトだ。

ただ、の行動に3人は俺たちが入れ替わっていることに確信を持てたようだった。

「まあ、姿形が変わっても仲良くしましょうよ」

が陽気な声で笑いかけると、鳳が「誰のものにもならないって意味では、良いのかな」と呟き、ついで、幸村が「男のままで、良い訳がない」と冷たく言い捨てた。

仁王にちょっかいを出されることがなくなった時点で、幸村の立場からしてみれば、『良い』ことの筈なのに、何故かこの状況に一番否定的だった。

「跡部。さっさと元に戻れ。気持ちわりぃ」

から取り返したタバコを灰皿に押しつぶしながら、亜久津が言う。戻れるものなら、戻ってると、口に出す前に鳳が手を叩いた。

「姉から借りた少女漫画でも同じような設定があって、それでは、キスする度に入れ替わってましたよ」

こいつはキスばっかりだな。

「跡部、この子黙らせてくれない?さっきから、碌なことしゃべらないんだけど」

同じことを思った幸村が苛立ちを隠さずに言い、時計を確認したが「さて、そろそろテストの時間ですから、私はお暇しますよ」と言い立ち上がった。

、明日もそのままだったら、連絡入れろ」

靴を履いているに、亜久津が声をかけると、「女に戻ってたら、連絡してね」と幸村が続ける。鳳が2人を交互に見た後、「部長、さんのままだったら下駄箱で待ってますね」と俺におずおずと話しかけた。

そこで、幸村がとうとう鳳の頭を叩いてしまい、2人の間で口論が始まる。

「はいはい、亜久津、明日はBLごっこしましょーね」

扉が閉まった後、景吾は亜久津を睨みつけた。

「絶対に手を出すなよ」

「そっちの趣味はねぇよ」

「信用できない。中身が女で攻められたら、反応するかも知れないだろ?」

亜久津が質問に答えず、新しいタバコを加え吸い始めたので、その場に煙と不安だけが残った。



***************




ぱちり、と目が覚める。

天井がある。切れかけの蛍光灯がチカチカ光っていた。アルコールの匂いが鼻につき、学校の保健室であることが分かった。飛び上がって薬品棚のガラス窓を見る。

右頬に絆創膏が貼られているが、俺だった。口の中が、ヒリヒリする。しばらく呆然としていると、背後にいた保険医から声をかけられ、道端に倒れていた俺をが学校までタクシーで運んだと説明を受けた。

「脱水症状で倒れた…?」

「軽い膀胱炎にもなってるね。レスラー志望なんだっけ?減量するにも水くらいは飲まないとだめよ」

生徒に興味がないことで知られるその保険医は、カルテを見ながら、テニス部部長で校内一有名な俺に対して、そんな忠告をしてきた。レスラー云々はが語ったことだろうが、真に受ける方もどうかしている。身に起きた症状を聞いて、トイレに行きたくなかったが水分を取らなかったことは容易に想像できた。すました顔をしていたが、あれで内心焦っていたのかもしれない。

「それから、校外で倒れた場合は、救急車呼ぶようさんに伝えといて」

大事にしたくなかったからこっちに来たんだろうとは思ったが、大人しく頷き、辺りを見回す。

「彼女、さっきまでいたけど、ジャガーがどうとか言って出てったわよ」

保健室を出て、美術室に向かう。何人かの生徒とすれ違い、俺の頬を見て驚いた顔をした。いかにも喧嘩しましたっという風貌だ。たった1日で、この有様だ。に対する文句を頭いっぱいに浮かべ、むすっとしながら、歩を進める。



階段を降りる際、いつもテニス部を敵視してるサッカー部の女子マネに声をかけられた。

廊下を歩いてると、普段話すこともない地味なグループに肩を叩かれた。プログラミング部と書道部の連中らしい。

中庭を通ると、校内で有名な不良たちに名前を呼ばれた。

避けてきたわけではないけれど、関わろうとはしなかった、そういう連中だ。たった一日、いや半日だ。たった半日で、無理やり自分の世界を押し広げられたのか、と思うと、感動よりも、畏怖に近い感情を抱く。

そうだった。これが、の力だ。




美術室の戸を開くと、長テーブルに座り、俺を待ち構えていたがいた。

「戻っちゃいましたね」

人差し指を立てて、悪戯っ子のように笑う。この表情は、俺にはできない。

良かった。戻れたんだ。

そのまま近づいて抱きしめると、も抱きしめ返してきた。久しぶりの抱擁だった。小学校の卒業式以来だろうか。彼女は、ずいぶん小さくなってしまった。いや、自分が大きくなったのか。

ずっと一緒にいたから、相手の振る舞い方は分かる。でも違うんだ。それぞれが、それぞれでいることに意味があって、それが良い。

「入れ替わってたことは黙っとけよ。あの3人にもとぼけて、しらを切れ」

「はあ」

「亜久津にもだぞ」生返事をするに釘をさす。

「で、塾に行く前に倒れたのか?」

体を離して肩に両手を置き、視線を合わせると、は乾いた笑いをもらした。

「ゲームは廃棄だな」

「えー」

「当たり前だろ」

「生理でお腹痛かったって言えば良いんじゃないですか?」

「言えるか!」

腕を組んで怒ってるポーズをとりながらも、茶化してくるに、つい笑ってしまう。彼女と交わすこの穏やかな時間が好きだ、そう身に染みて思う。


「あんなものなくても、楽しませてやるよ」

「あれは私の青春すべてです」

「お前の青春が無かったのは、立海にいたからだ。氷帝に来たからには俺がいる。これからだろ?」

唇が触れるか、触れないかのところまで顔を近づけ「お前さえ望めば、鳳の期待に応えることだってできる」と自信満々に言ってのけた。勢いでしてしまおうかとも思ったが、の瞳が大きく揺れ動いたので、思いとどまる。長い付き合いで、これからもずっといる間柄、無意味に関係をこじらせるわけにはいかない。それでも、念を押して確認する。

「戻った方が、ずっと良いだろ?」

の瞳に余裕の笑みを浮かべる俺が映る。

彼女が俺の外見を好んでいるのは知っていた。入れ替わると、俺の存在価値はそれだけか、と僻んでしまうほど、飽くことなく鏡を見ていた。仁王なんて目に入らないくらい、そのまま夢中になれば良いと思う。

彼女を受け入れる覚悟は、とうにできている。


「景吾さんのそういう所、ずるいです」


俯いたが、小さくぽつりと呟いた。




鼓動が高まり、胸がざわついた。

この感情がなんなのか分かるようになったのは、それからしばらく経ってのことだった。
そして俺はそんな自分を受け入れる覚悟がなかったことを思い知ることとなる。




替え難い存在がある。
対になって花開く、まごうことなき我らが青春。



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