脱線

01. 人民公社





「ムスカ様みたい」



きゃっきゃっと笑う少女を前にして俺は絶句した。








これは俺が初めて父さんに対して失望した日であり、前途洋洋、順風満帆だった俺の人生に陰が差した記念すべき日の話である。








当時、小学生にも入っていない俺は、世の中の全てが自分の思い通りに動くと思っていた。父親は証券会社に努めていているただのサラリーマンだったが、俺自身は祖父が頭取を勤めている跡部財閥の跡取りとして将来は日本経済を背負っていく立場にあったし、その地位は約束されていた。敷かれたレールの上には障害物など一切なく、俺は未来に向かって苦労を強いられることもなく悠々歩んでいけるはずだったのだ。


幼稚舎に入り、他者に触れ、生活を共にし、改めて自分が選ばれた人間なのだと確信した。同じクラスで、俺より言葉を上手く操れた人間はいなかったし、俺より足が速い奴もいなかった。他人から賞賛され、崇拝され、羨望と嫉妬の視線を浴びる日常の中で、俺は自信と自尊心を身に付けた。誰よりも優位に立ち、上にいる。自分が人を動かしたり、人をひざまつかせたりすることが得意だということも、共同生活の中で自覚した。所謂、カリスマ性というものを生まれながらにして備えていたのだと、祖父に認められた時は胸が躍った。




俺には比類なき才能というものがあった。それでも、地位を維持するため、努力だってすることもある。別に悪いことをしていたわけではないのだ。

ただ、他のものよりも優れていた。それだけだった。

なのに、だ。


ある日、突然俺の人生に影が落ちた。





一体、俺が何をしたというのだろうか。
父親の愛車であるBMWにオレンジジュースを零したのが、いけなかったのか。それとも、母親のお気に入りのボッテガヴェネタの財布の金具の部分を引っ張って壊してしまったのがいけなかったのか。それとも、自分の机の中にある万年筆が、祖父が探しているものだということがばれてしまったのだろうか。今はもう何も分からない。



それは、俺が6歳の誕生日を迎えた日だった。


跡部財閥の跡取りとだけ会って誕生日パーティーは盛大に振舞われ、俺は多くの大人たちから贈り物をもらった。流行のゲームや輸入物の雑貨、珍しい食い物と、どれも俺の興味を誘う物で満足のいく誕生日だった。夕方になると重役以外の人間はいなくなった。

誕生日パーティーの後はいつも家族だけでディナーを食べるのが習慣だったので、俺たち一家は六本木にある洒落たレストランに移動した。父親の自慢のBMWは豪快な音を出し国道線を軽快に走り抜ける。車内では母親が好きなボブディランの曲が流れ、車がトンネルの中に入るとオレンジ色の蛍光灯の光がチラチラと窓からさす。そこまではいつもと変わらないことだった。

ただ、祖父が一度も顔を見せなかった。


運転席にいる父さんとその隣に座る母さんの横顔は、いつになく真剣みを帯びていたし、緊張していて口を開こうか迷ったが、疑問に思っていることをいつまでも腹の中に収めておくような人間でもないので、俺は正直に祖父はどうしたのかを聞いた。俺の言葉を聞くなり、母さんは涙を零して嗚咽を漏らした。父さんはそんな彼女を横目で見て渋い顔をしたが、嗜める事も宥める事もせず、「景吾の将来のためだ」とただぽつりと呟いた。



トンネルから抜けた窓の外の景色は、繁華街のネオンの色彩豊かな光と溢れかえる人びとで、空なんか見えなかった。俺は目的地に着くまでにプレゼントにもらったゲームのラスボスをクリアした。相変わらず俺は天才だった。





六本木にある一番高いビルの最上階にあるそのフレンチレストランは、祖父が一番気に入っている店で、特別な日には必ずそこの個室を使っていた。シェフもオーナーも顔見知りで彼らは俺の名前を覚えている。

そんな馴染み深いレストランのドアの前で、父さんは立ち止まり息を整え、俺を見据えた。その姿はまるで戦場に兵士を送る司令官のような威厳さがあって、その隣に立つ母さんはレースのあしらわれた吸水性の悪そうなハンカチで目元を押さえ、まるで前線に兵士を見送るような悲壮さがあった。


これは、なんか、おかしいぞ。なんか、あるぞ。
と、さすがの俺も気付いた。


父さんがかがんで俺の肩をさすった。




「景吾、お前は私の自慢の息子だ。私は次男だったし、兄さんが死んだ時も跡部家の跡取りとしては不十分だと父親に言われて、今の証券会社に入った。お前は将来跡部財閥を、日本経済を牽引する器のある人間だ。あの人が跡取りとして認めた、選ばれた人間なんだ」



普段無口な父さんが饒舌になり、普段無関心を突き通している彼が俺を賞賛している状況に、いよいよ嫌な予感を抱いた。母さんは唇をかんで、何かに耐えているようだった。



「チャンスを逃さないで欲しい」



父さんの男性にしては細い手が頭を撫でた。











レストランの奥にある夜景が一望できる個室に入ると、そこには今日初めて顔を合わせる祖父と父さんと同じくらいの年の男がテーブルについて、食前酒を飲んでいる所だった。男はテレビで見たことがある顔だったが、なんの番組に出ていたのか思い出せなかった。頭にはお情け程度の髪が生えていたが、教師の職についていたら後ろ指を指されるくらいに寒々しかった。高そうな灰色のスーツを着ているが腹が少し出ているため、不恰好にも思えた。

父さんが挨拶した後に、俺も追ってお辞儀をすると、男は俺のことを舐めるように下から上に見て、それから、ニヤリと笑った。背筋に悪寒が走った。



「君が景吾君かな?」

「そうです。はじめまして、跡部景吾と申します」

「良い目をしている。俺の若い頃とソックリだ」




嘘だろ。と、言いたかったが、父親の無言の圧力を隣から感じ「そ、そうですか」と言葉を濁した。父さんと母さんが椅子につくのを見て、残る二つの空席の一つに俺は座った。祖父の隣の席だった。祖父は俺の顎を人差し指で持ち上げると、「景吾、今日はお前に飛びっきりの誕生日プレゼントを用意してやったぞ」と言った。



「頑丈で強固なレールだ。お前はその上を走るだけで、日本の頂点に立てる」

「日本一安全で、安心、しかも確実な機能性の良い商品になっております」



真面目な顔をして祖父が俺の肩を軽く叩くと、隣にいた男はゴマをするような仕草をして商人のような言葉を使い、それから豪快にがははと笑った。父さんも母さんも眉を寄せて、彼の粗忽さを非難していたが、祖父は満足げに口を弧に描いたまま食前酒をあおった。綺麗に揃えられている白髪が今日は恐ろしく感じられて、俺は不躾ながらも二人に「何を頂けるんですか」と質問をした。











「総理大臣の孫娘だよ」


祖父が静かにそう言うと、男がちゃかすように「将来の総理大臣の娘でもある」と続けて言った。その時、目の前の男が国会議員だということを思い出した。若い美人秘書を何人も雇っているというので注目を浴びていた気がする。男の視線が扉に向けられ、俺もそれに習って顔をそちらに向けた。





「景吾君。あれが俺の娘だ。君にやろう」


トイレから戻ってきたのだろうか、ハンカチで手を拭きながら、「それ」は個室に入ってきた。






顔を上げた少女を見て、俺は目を疑った。


俺は今まで本当に恵まれていて、いつも満足するものを与えられていた。今日だって、たくさんのプレゼントを見ず知らずの人間からもらい、それは全て俺を喜ばせるものだったし、クラスの皆が羨むものであった。

けれども、目の前の人間は俺が隣に添えるのに相応しい人間だとは思わなかった。もしも、物であったら、俺は家に帰ってゴミ箱に捨てていただろう。

彼女は美人じゃなかった。可愛くもなかった。彼女の容姿は普通だったし、コレといった特徴があるわけでもなかった。友人に自慢できるとは到底思えなかった。






「景吾、彼女がお前の婚約者だ」



祖父の声が耳から脳へ届くのはそう時間はかからなかったが、現実を受け止めるのには時間がかかった。彼女は俺の隣の空席に座ると、俺の両親に行儀よく挨拶した。それから、俺をちらりと見て、男に目を向けた。



「パパ、この子なの?」

「ああ、そうだ」

「綺麗なお人形さん」




俺を見る彼女の目は、母さんがボッテガヴェネタの新作のバッグが出るたびに向けるものと似ていた。両親の目があって、尊敬する祖父の目の前だったから怒りを抑えなくてはいけなかった・・・が、甘えられて育った俺は我慢を知らなかった。
テーブルの上にあったコップをとって彼女の顔にぶっかけた。




「俺様がお前と結婚するわけないだろ!身の程を知れ!」




室内の温度が2℃下がったように感じられたが、少女は驚きも怒りもせずに上着を脱ぎ、スカートのポケットからハンカチを取り出して濡れた髪を拭いた。それから、俺を指差して皆に向かってこう言ったのだ。



「ムスカ様みたい」



どっと笑いが起きた。今まで固い表情をしていた母さんも父さんも口を緩めて小さく笑った。それから何事もなかったように和気藹々とした雰囲気で食事が始まった。意味が分からなかった。




メインディッシュのローストビーフが運ばれてくるころ「ムスカって誰だよ」と彼女に聞くと、彼女は「ラピュタの王様」と答え、腰にぶらさげていたバックからDVDを取り出し、俺にくれた。「天空の城ラピュタ」と表記されているパッケージをしげしげと見ていた俺に「安心しろ。色男だ」と彼女の父親はゲラゲラと笑った。





家に帰った俺は早速DVDプレイヤーに押し込んだ。
サングラスをかけた良い年したおじさんが「あっはっは、見ろ人がゴミのようだ!!」と笑ったところで、俺は登場人物名を確認し、それから『バルス』という呪文によってラピュタ城が崩れ、男が「目がー目がー」と叫びだした所で、最新薄型テレビを叩き壊した。


それから、父さんに婚約を解消して欲しいと頼み込んだ。こんなにも必死に懇願したことはなかった。父さんは読んでいる新聞から目を離さず、「世の中には代えの聞かない人間もいるんだ。大人になれ」と言った。言わせてもらうが、当時俺は6歳だった。
腹が立った俺は予め教えられていた彼女の家に電話した。家政婦が出た後に彼女の間抜けた声が聞こえてきた。


「こんばんは」

「おい、ふざけるなよ!あの惨めな男のどこが、俺に似ているっていうんだ!」

「早速、見てくれたんだ」

「人の話を聞け!俺はお前なんか認めないぞ。俺の横にいるべきなのは、普通で平凡な女じゃねー。教養があって美人で才色兼備の誰もが羨む女だ!俺が18になるまでに、そういう女に育ってなければ結婚しねーからな。絶対にだ。分かったか?お前は俺様に相応しい女になるよう必死に努力しろ!」




「ガンバルス・・・























俺の偉大な王国が大きな音を立てて崩れ始めた日。
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