脱線

10. 言論統制
神の見えざる手




「嫌です」



朝、いつものように起きて、ロードワークをした後、スカイプに繋げたは景吾に放課後、自分の家に来るように言われ、眉を顰めた。



「神奈川と東京は貴方が思っているよりも、ずっと遠くて移動時間がかかるんですよ」



普段から放課後は亜久津と遊ぶ為、もっぱら東京にいる癖に、いけしゃあしゃあと、そんなことを言う。



「風邪引いた」

「へえ」

「看病しろ」

「はあ」



でも、今日は委員会で帰りが遅くなりますし・・・と、言葉を濁した所で、電話越しから辛そうな吐息が聞こえ、は頬を軽くかいた。

辛いなら、スカイプに出なければ良いし、私に連絡取るなら使用人を使えば良いのに、どこまでも完璧を目指す人間だな。これからも変わらず、彼は理想を追求し続けるのだろう。それはとても大変なことなのに、妥協を知らず前進することしかできない。意外とマゾヒストなのかもしれない。



「夜になっても良いですか?」

「ああ、絶対来いよ」

「できるだけ早めに切り上げますから、大人しく寝ていて下さいね」

「そんなこと言って来ないつもりだろ。寝ている間に看病していた、とか言って誤魔化すつもりだ」

「・・・何故分かったんですか」

「毎回、同じ事をされれば馬鹿でも気づくんだよ!」

「馬鹿でも気づくんですか」

「とにかく、絶対来いよ。来なきゃ、習い事増やすからな!」




ぶちっと言う音と共に通信が切れる。お見舞いの品に、ムカデでも持っていこうかな、と考えながら、は制服に着替える。小2の時、昆虫採集にハマッていたが、虫かごの代わりに景吾のランドセルを使用して以来、彼は節足動物が嫌いになっていた。




「ベッドの上に、ばら撒いてやるのも良いかもしれない」




そうすれば、しばらくは大人しくなるだろう。

















******************
















授業が終わり、ホームルームが始まる前の教室は騒がしく、幸村は自分がいる場所が病院でなく学校であることを改めて実感する。普通の生活が送れること、テニスを続けられる喜びを素直に感じることができた。もう二度と病院には戻りたくない、そう思いながら数学の授業で使ったノートを片付け、太陽の光が差す窓へ目を向ける。


今日、何度目になるか分からないが、窓側の席に座っていると目が合った。普段、彼女と自分の間にいる仁王が今日は病欠でいないため、その距離は酷く近く感じられた。
黒い艶のある髪が、逆光によって更に黒く映える。

誰もが好意をもつ人柄で、容姿も良く、全国で常勝している立海大付属のテニス部を牽引している幸村は、女子から絶対的な人気があった。だからと言って、全ての女子が自分を好きである、という勘違いをするような人間ではなかった。しかし、この日、彼は、彼女が自分を好きなのではないかと推測した。幸村にとって、は自分のファンや好意を寄せる他の女子とは違い、特殊で、例外な人間だった。



何故なら、彼自身が手を出した人間だったからだ。彼女が自分の兄に紹介したように、軽いキスじゃなく、濃厚なやつをかましたことは記憶に新しい。キスした後、彼女は「少し早めの退院祝いですか」と、笑いも怒りもせずに俺の顔をじっと見て言った。二人とも、成功するかも分からない手術を受ける前だった。




先日、自分が探していた「」という少年が、実は女であり、彼女であったことを知って心の底から驚いた幸村だったが、同時に、どこか運命的なものを感じていた。手術を後押しした彼女の言葉、成功を願った彼女の言葉、一つ一つがパズルのように組み合わさって、美化されていく。授業中や教室の移動中、気付けば、幸村はを目で追うようになっていた。あの時のことを彼女は何も言ってこないが、実際の所はどう思っているのだろう、と気にもなっていたからだ、と幸村は自身に言い聞かせ、を観察することに正当性を与えた。


そして、幸村は今日も、を目で追っていた。いつもと違ったのは、彼女と何度も目が合ったことだった。何か言いたそうにしていたが、彼女が口を開くことは遂に無かった。そこで、幸村は彼女の挙動不審な行為、告白を躊躇っている為、だと判断した。



どう返事をしようか、と幸村が考えているうちに、ホームルームは始まり、担任が連絡事項を生徒たちに伝えていた。担任が話し始めようと中3のクラスは騒がしい。上履きを投げる奴もいれば、それをバットで打ち返す奴もいるし、手紙を交換する女子たちは内容を見ては囁きだす。囁きも募れば、騒音となる。しかし、







「誰か、仁王にプリント持っていってくれる奴いないかー?」



担任がこう言うと、クラスがしんと静まった。嵐の前の静けさ、とはこの事を言うのだろうか。幸村は一層騒がしくなるクラスを予想して苦笑した。地味な子から快活な子まで幅広い層から、もてはやされる幸村に対して、仁王は派手な女子から好かれる傾向があった。
このクラスにも仁王に好意を抱く女子は結構おり、それは皆、自己主張が激しいタイプの女子だった。これから繰り広げられるであろうプリントの争奪戦を思い、口端を持ち上げる。






「誰か、暇な奴いないかー?」



静まった教室の前で教師が少し眉を垂らして、困ったように言う。

クラス中の女子が、息を呑むのが分かった。視界に入る女子たちは、今にも手を上げて立ち上がりそうだった。しかし、幸村の予想は大きく外れることになる。





「先生、私が責任を持ってプリントを仁王さんにお届けします」



すぐ横から声が聞こえてきて、幸村は耳を疑った。



「お、本当か」

「ええ、席も隣ですし」



なんで、お前が手を挙げるんだよ。




「私が適任かと思います」





手を挙げているを見て、幸村は大きく目を見開いた。そして、周囲を見渡して、異様な雰囲気を感じ取る。ほとんどの女子たちが俯いて、視線を机や床に向けている。複数の女子はチラチラ互いに目で何か合図しているようだった。




「あれ、でも、お前、確か風紀委員だったよな」

「ええ、これでも副委員長です」

「今日、委員会あるぞ」

「先生から、は早退したと、真田さんに伝えて下さい」

「俺が、あの真田に?俺、あの子、苦手なんだけど」

「安心して下さい。得意な人はいません」


「いや、お前得意じゃん。真田に叱られるのとか、叩かれるのとか、睨まれるのとか。俺は無理だよ」


「先生、ファイトッ」


「俺、この間、間違えて『先生』って呼んじゃったんだよ。なんで、アイツあんなに老けてるの」


「さあ」


「とにかく、お前はちゃんと委員会に参加しろよ」


「じゃあ、どなたが、プリントを仁王さんのお宅まで届けるんですか?」






しんと静まり返る教室の中、見舞いに行くついでだし、と言う理由で俺が手を挙げようとすると、がものすごい目つきで俺を睨んできた。視線で握りつぶすような迫力だった。怖気づいたわけでは無いが、俺は反射的に挙げかけていた手をスッと下ろした。少し屈辱的だったことは間違いなかった。


そして、何がなんだか、分からないうちにホームルームは終わり、日直が号令をかけるとはさっさと教室から出て行った。そして、気付けば、俺は、その後を追いかけていた。












**************












と幸村が見舞いに来るとは、・・・縁起が悪いのう」




この間まで入院していた二人が家に訪れたことをさしていた。家を訪れたと幸村を迎えたのは、仁王の母親だった。彼女は、二人を仁王の部屋まで案内すると、お茶を用意するために台所に向かった。

幸村がノックをしてドアを開けると、仁王は眠気眼で幸村を見たが、の顔を見ると病気で青い顔を更に青くさせた。



「何で、おんしがここにいるんじゃ」

「プリントをお持ちしました」

「プリッ」

「ええ、プリントです」




今のは口癖だよ、とツッコミを入れそうになった幸村だったが、なんとか耐える。口では感謝の言葉を述べているが、仁王はに帰って欲しい様子で、幸村は敏感にそれを感じ取った。本当に嫌いなんだな、と改めて感じる。は、そんな仁王の様子を全く気にせず、話しかける。




「あ、これお見舞いの品です」



反射的に「いらん」と言いそうになった仁王だったが、さすがにそれは失礼だろうと考え直し、大きな四角の箱を受け取る。が、目を見張る大きさに加えて、重さも相当あるそれを開ける気にはならない。






「中身は何じゃ」



仁王は恐る恐るに聞く。明らかに普通の見舞いの品でないことが分かった。





「松坂牛です。焼肉が好きだと聞きましたので」

「ぴよっ」

「早く元気になってくださいね」





の返事に、ぽかんと口を開けた後、身じろぎ怪しむようにを見た仁王に、幸村は小さく溜息をついた。仁王の家に来る前に、駅ビルの地下で「見舞いの品」として、がこれを買った時は、幸村も自分の目を疑ったものだ。値段が一桁違うし、それ以上に、ただのクラスメイトに送るような代物でもなかったからだ。しかも、仁王はのことを嫌悪し、何故か敵視している。当然、幸村は彼女を止めようとした。しかし、彼女は首を横に振って幸村の言うことに耳を貸さなかった。そしてこう言ったのだ。





「私は医者ではありませんので、彼の具合を診ることも、ましてや病気を治すことなど、できません。でも、同様に、指を加えて、ただ見ていることもできないんです」



いや、でも限度ってものが。この値段見たら引くよ、と言いそうになった幸村の言葉はの言葉によって遮られる。



「大事なのは気持ちです。気持ちは見えないものだから、見えるようにしなければならないんですよ」



嬉々として店員にブラックカードを渡すを見て、幸村は目をしばたたき、無意識のうちに手を左胸に当てた。胸が、心が、ちくりと痛む。




「私は彼に元気になってもらいたいんです。それが伝われば良いんです」




重い荷物を抱きしめて、は頬を赤く染めながらも小さく笑みを浮かべた。それを幸村は眩しそうに目を細めて見た。












**************








仁王の家を出ると、既に夕日が落ちているところだった。しかし、登りの電車はラッシュとは無関係で人が少ない。と幸村は隣に並んで座った。何を話すわけでもなく、電車に揺られる。無機質な車輪の音だけが響いていた。静かでゆったりとした時間が流れる。




「幸村?」




ぼうとしていた幸村だったが、声をかけられて意識を戻した。手すりに捕まって自分を見下ろしている人物を見て、笑みを浮かべた。





「柳か。今、帰りか」

「ああ、お前は練習に出なかったんだな」

「俺は仁王の見舞いに行ってた。明日、検査があるから、激しい運動は控えてって言われてたんだ」



開いているか閉じているか定かでない目をした柳だが、彼がの方に顔を向けると、幸村はの紹介をしようと口を開いた。



「あ、彼女は」



、元陸上部。小学6年生の時に、陸上中距離、長距離で全国を制覇する。主席で立海大付属に入りながらも、授業態度と出席率の悪さから成績は中の下。趣味はギャンブル全般。好きな音楽はハードロック。父親は国会議員で、母親はミツバ商事の娘だが、今は離婚している」




これ以上、柳がについて語ると、プライバシーの侵害などで訴えられかねないので、幸村は柳の言葉を遮った。



、柳に悪気は無いんだ。気を悪くしないでくれ。彼は」



「テニス部で、データマンの柳蓮二さんですよね。誕生日は6月4日のふたご座。好みのタイプは計算高い女で、行きたいデートスポットは今時珍しい文学資料館。たぶん彼女できても、すぐフラれますよ。足のサイズは26センチで、視力は左右0.8。好きな色は私の今日のブラジャーの色と同じ白。お父様は会計士でいらっしゃるんですよね」


「・・・。よく知ってるね」




幸村は思いっきり顔を引き攣らせ、米神に手を当てて軽く揉んだ。



「ええ、有名ですから」

「『よく仁王さんと一緒にいますし』とは言う」

「・・・やっぱり、仁王に気があるんだ」





は目を大きくして幸村を見た。そして、彼女が「な」と言った所で、先に柳が口を開く。




「『何を言っているんですか?』とは言う」

「へえ、柳、本当にのデータも収集しているんだ」




金魚のように口をパクパクとさせるを見ながら、幸村は感心したように言う。




「校内1、持久力があり、足も速かったからな。参考までに収集していた。だから、最近のものは無い」


「陸上頑張って続ければ良かったのに。仁王の元カノって陸上部の子が多いんだよ」


「ち」

「『チア部の方が多いです』と、は言う」

「へえ、恐れ入るね。そんなことも知ってるんだ。仁王のこと本気なんだね」

「ど」

「『どうして、そんなこと言うんですか』とは言う」




もう我慢ならない、とでも言うように、は勢い良く立ち上がって柳の口を抑えた。



「ちょっと、柳さん。私が普通にしゃべれるんですから、しゃべらせて下さいよ。腹話術ですか」



の手をどかし、柳はなおも話し続ける。



「『新手のイジメですか』とは言う」

「あ、さっきのこと根に持ってるんですね?彼女にフラれるって奴。意外と傷ついたんですね?」



結局、柳はその話し方をやめず、先に疲労感を抱いたが途中の駅で降りた。閉まるドアの前で、アカンベーと、柳に向かって舌を出したが、彼は無反応だった。



電車が動き出し、小さくなっていく彼女の姿を幸村は目で追う。
その様子を見て、柳は小さく笑った。







「『なんか、目が離せないんだよね』とお前は言う」










**************















昼飯を取り薬を飲んでから、が言った通り大人しく眠っていた景吾は、寒気を帯びていた体が段々温かくなってきたことを感じた。しかし、深い眠りから意識が浮上してくる際に、次第に腹部に重みを感じ、同時に熱の発生源が自身でなく、違うものであることに気付いた。そこで目をパッチリ開けた景吾は自分を抱き枕のように抱きしめているものを見て溜息をついた。





「俺は看病しろって言ったんだぞ」

「貴方が寒そうだったから、ずっとこうして暖めてあげてたんじゃないですか。この恩知らず」


「ったく、どうせ今さっき来たんだろ。風邪、移っても知らねーぞ」


「私は貴方と違って体調管理はしっかり行っていますからね。平気です」



いつも以上に刺々しい様子のを見て、景吾は眉間に皺を寄せた。



「・・・。なんか、嫌なことでもあったのか?」

「規律を乱す者が現れたんですよ。早めに潰さなくちゃ。・・・というか、私って、そんなに分かりやすいですか?」

「何するかは全く分からないが、機嫌くらいは分かる」



伊達に10年以上付き合ってねーし、と顔を背けた景吾に、は抱きつく腕の力を強めた。景吾はそんなを慰めるように軽く抱き返した。












「『それに、俺はお前に心底惚れているからな』と跡部は言う」


「言わねーよ」

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