「来週、ドイツに行くことになった」
の朝は早い。4時に起きて2時間のロードワークに行って、スカイプで景吾と話しながら15分で着替えとブローを済ませる。しかし、父親が家にいる時は、朝起きてもロードワークにはいかず、1時間かけて学校の準備を済ませ、父親と朝食を取ることにしていた。そして、その日、の父親は久しぶりに家に帰ってきていた。
「どのくらいですか?」
「トンボ帰りかも知れねーし、1ヶ月かも知れねー。一応、景吾君には伝えてある」
「景吾さんとお話ししたんですか」
「まあな。前々から思ってたんだけど、アイツ俺のこと嫌ってるのか?」
「さあ」
「すっげー不機嫌そうな声で返事を返されたんだが」
「嫌われると困るんですか?」
「義理息子に嫌われて喜ぶ奴はいねーよ」
約5メートルあるテーブルの端と端に座り、机に並べられた色とりどりの皿に手を付けていく。壁に貼り付けられたテレビからは、どこか遠い国で起きている地震の被害のことや、反捕鯨団体の映像など、様々なニュースが流れているが、自分とは関係のない切り離された世界のように思える。それよりも、早く芸能記事に移ってくれ、とは願う。
「帰国したら、3人で一緒に飯を食いにいこう。美味いグリンピースを置いてある店があるんだ」
「グリンピース?」
「お前好きだろ?」
「良い名前ですよね。緑と平和」
「食いもんの話だよ。怖い物知らずの危なっかしい環境保護団体の話なんかしてねぇ。」
「危ない?ああ、捕鯨船に瓶を投げ込んだらしいですね」
「日本は何もしないがな。フランスは核実験反対運動をするアイツらの船を爆破したんだぜ?良い事だろうが悪いことだろうが、国に楯突く奴らは普通消されるんだよ」
「単純明快なルールですね」
「それでも、守ろうとしない奴らが出てくる。そうして、国家がいかに残酷で冷酷非道なものか、知らない若者は犠牲になるんだ。本当見てられねーよな。誰か止めてやれよって、たまに思う」
「ええ、教えて差し上げなければなりませんよね」
「いや、思うだけに留めておけ。大事なのは気持ちだ。気持ち」
は目の前にあるスクランブルエッグに塩と胡椒をふり、フォークを差し入れる。そして、口に含むと満面の笑みを浮かべた。
「法を破ったものには罰を、秩序を乱すものには制裁を、裏切り者には死刑を」
一難去ってまた一難、という諺がある。ご存知の通り、一度災難や困難な状況から抜け出しても、すぐに次の災難がやってくるたとえである。それは悲惨な状況を思い浮かばせるが、今のにとって、それは限りなく甘く安っぽい諺のように思えた。何故なら、彼女には一難去ってもいないうちに、更に一難が舞い降りてきたからである。しかも、それは途轍もない災難であった。
「雅治様に?まさか、笑えない冗談はよして下さい」
幸村と仁王と共に補習を受けていた一週間、は一日一回、必ず幸村から嫌味を言われた。相手の目的が何なのか全く理解できなかっただが、売られた喧嘩は買う主義の彼女は、水面下で幸村を貶めようと、名づけて「テニスが一生できない体にしちゃお★大作戦」の準備を進めていた。彼にとって一番大事なものはテニスらしいので、それを取り上げちゃおうという、なんとも安直な作戦だった。
試行錯誤、創意工夫を重ねてできあがった計画は、どこから見ても完璧で穴が無く、は勝利を確信した。事故に見せかけて怪我を負わせる、という単純で稚拙な計画であったが、完全犯罪をもくろむ彼女は、時間、場所、状況などを綿密に計算して、代打案も50ほど用意していた。決して自分に疑いの目が向かないようにアリバイ工作もして、共犯相手にも負担が掛からないように役割分担をさせて、罪悪感を出来るだけ軽減できるよう取り計らった。
しかし、現実は厳しかった。
クラスメイトに話を持ちかけると、大半の女子が腕を組んで眉を顰め、男子たちも困ったような顔をした。いつも教育実習生や転校生のイジメに積極的な女子まで非協力的な発言をしてきたので、は唖然としてしまった。幸村はが思っていたよりも、ずっと人望があったのだ。
しかし、だからと言って、簡単に諦めるような人間でもないは、学校でも陰険で乱暴な生徒たちを集め、体育館裏で話し合った。が、幸村の名前を出すと、彼らは急にやる気をなくし、を非難しだしたのだ。
「退院したばっかりだし、骨折るとか、マジかわいそうじゃん」
「かわいそう?」
「そうだよ。お前、人間として最低だよ。幸村は学校のヒーローだぜ?何考えてんだよ」
「私が最低?」
「それに神の子って呼ばれてる奴に手出したら、罰当たりそうでこえーし。つーか、俺クリスチャンだし、マジ無理」
「クリスチャン?」
「お前さ、人の痛みが分からないのか?」
「・・・。」
人は往々にして「偽善者」を悪く言うが、良い奴なのに悪い振りをしている奴は始末が悪いし迷惑だ、と、立海大付属中学校の「不良」と呼ばれる人間たちと話し合ったは思った。
物理的に相手を傷つける方法がなかなか難しいと知ると、心理的に相手を傷つける方法を模索した。しかし、それには、あまりにもは幸村のことを知らなすぎた。
一方、毎日を観察していた幸村は彼女のことをよく知っていた。何が好きで何が嫌いなのか、例え数週間でも、ちゃんと相手を知りたいと思って観察すれば、ある程度のことは理解できるものなのだ。
「俺の苦手なもの?」
放課後になると、掃除当番も委員会の仕事も特に無かった幸村は真っ直ぐ部室に向かった。1番乗りだと思いきや、遅刻の常連魔である切原がユニフォーム姿で待機していたので、自分の頬をつねって驚いてみせた。そんな先輩の様子に切原は「そりゃないっすよ。俺だってたまには早く来るんですよ」と軽口を叩いたが、明らかに目が泳いでいて何かを隠しているようだった。しばらく他愛の無い話をしていると、切原は急に口ごもり、それから、幸村の苦手なものを聞いてきた。
この時、幸村は思った。
こいつ、馬鹿だ、と。
「他人の陰口とかは苦手だけど」
「あ、そういうんじゃなくて、なんつーか、過去に経験したトラウマからこれが嫌いになった、とか、これをすると精神的苦痛を味わうとか、そういう感じのって無いっすか?」
誰かの言葉をそのまま口にしているような切原のしゃべり方に、幸村はすぐ黒幕の存在を嗅ぎ取った。最近周囲が騒がしく、何かに付けて「気をつけろよ」と注意を促される幸村はの行動を把握していた。幸村に声をかける人間は、彼女の名前を出さないが、それでも裏で彼女が動いていることくらいは彼にも分かった。その他に、恨みを飼うようなことをした相手に覚えが無いからだ。
「何で買収されたの」
明らかな人選ミスだ。切原は確かに口で言いくるめやすいタイプだが、俺の保護下にある。どう考えたって寝返るだろう。
「え、来学期分の昼飯とおやつ、それから遅刻した奴に課せられる風紀委員の罰則の揉み消し・・・あ」
切原は顔を真っ青にして、「嫌、違っ。そういうんじゃなくって」と、しきりに手を振ってみせるが、幸村が一歩踏み出し、彼の顔に自分の顔をぐっと近づけて「誰に頼まれた?赤也、来学期、毎日腹筋1000回したかったりする?」と聞き出すとすぐに口を割った。
「風紀委員のさんに頼まれました!」
「うん。良い子だね。今から腹筋と背筋500回で許してあげるよ」
「えー!俺素直に答えたのに」
「俺を裏切ろうとしたんだよね?」
そう、目を弧にして言葉を返すと、切原は全身に鳥肌を立たせ、丁度、部室に入ろうとしていた柳の横を通り逃げるようにして外に出ていった。驚いた様子の柳を見て、幸村はクスクスと小さく笑う。
「最近、やけに機嫌が良いな」
「そうだね。テニスができるようになれたから、気分が良くて」
「そうじゃないだろ」
「ん、なんのこと?」
「俺が知ってる限りで5人だ」
の機嫌を損ねて転校していった生徒の数だ、と柳は小さい声で付け足した。
「データマンのお前が『知ってる限り』って使うのは珍しいね」
「彼女が仁王のファンクラブの会長なのは知っていたか?」
「へえ、それは知らなかったな。でも、それを聞いて色々納得したよ」
「それでいて立海テニス部全体のファンクラブ会長でもある。コート外での応援のマナーやチアガールの指導を行っている。うちの学校の生徒が試合会場でマナーが良いと評判なのは彼女のおかげでもある」
「テニスコートの近くで彼女の姿を見たことは無いけど」
「テニス自体には興味が無いらしい。全ては仁王の為だろう」
「仁王が聞いたら泣いて喜びそうな話だね」
「言うなよ。ショックで学校に来なくなるかもしれない」
「それに、6人目の転校生になるかもしれない?」
「そういうことだ。とにかく敵に回すと面倒なんだ。遊び半分で手を出すな」
「柳、独裁者は必ず倒されるんだよ」
幸村は、ふふ、と穏やかな笑みを浮かべ、カバンをロッカーの中に入れ鍵を閉める。
「1987年、パリ市民によって起こされたフランス革命で、ルイ16世は処刑された。マリーアントワネットもギロチンにかけられ、王国は共和国になったんだ。独裁は長く続かない」
「その後出てきたロベスピエールが恐怖政治を行ったのは知ってるか?」
「彼もまた農民と市民によって倒された。そして、の暴走の終止符は俺が付ける」
「何の為に?」
「明るい未来のために」
ふふと天使のようにどこか神秘的な美しさを秘めた笑みを浮かべた幸村は、バサリと音を立てて、ジャージの上着を肩にかけると部室を後にした。
フランス革命に終止符を打ったのはナポレオン・ボナパルトである。市民革命は皮肉にもヨーロッパ中を震撼させる独裁者を生んだのだ。
権力の差こそあれ、歴史上には常に独裁者が存在する。国王、天皇、法王、主席、首相、大統領、総書記、名前が変わろうと、彼らには変わらぬ共通点がある。人心を掌握できる人物であるということだ。彼らは、時に神に例えられ、時に神と同等の力を有することになる。彼らには、信頼の代わりに、多くの人の生死を左右し、運命を変えられる力が与えられる。
「勝利を手にするは、神の子か。それとも、政治家の子か」
「貴方、一体何をしたんですか?」
昼休みに屋上にある生徒が立ち入り禁止になっている給水タンクが置いてある場所で仮眠をとっていると、腹部に重みを感じ、目を薄く開けると、そこにがいた。ハタハタと短いスカートが音を立てて、動く。自然と目が太ももの先に行くが、そこで腹部に激痛が走る。
「もう一度聞きます。一体何をしたんですか?」
上半身を起き上がらせて、わき腹に手を当てると、くっきり上履きの足跡がついていた。信じられなかった。
「俺も聞いて良い?女子トイレ行った上履きで俺のこと蹴ったの?」
「男子トイレに行くわけないでしょう?ああ、そういえば、貴方は人の性別も分からないんでしたね。これは失礼」
人を恐怖によって支配するのやり方には、限界があり綻びが出ていた。それに俺は気付いた。他にも気付いている奴はいるようだったが、に面と向かって逆らおうという奴はいなかったのだろう。その辺がの手腕だった。現状に不満を抱いている奴がいれば、交換条件を必ず提案し、自分に逆らわないようにさせる。
「さて、私の質問に答えて頂きましょうか?」
「何の話だい?」
「雅治様が・・・、仁王さんが何故テニス部のマネージャーと付き合い始めた件です」
「雅治様って呼んでるんだ・・・」
人は、選択肢を与えられると、それが限定されていて例え理不尽なものだとしても従ってしまうものだ。例えば、投票したいと思う政党が無かったとしても、投票権を持っていると、それに対して文句を言わずに限られた選択肢の中から選ぼうとする。そうやって流されるのだ。
「テニス部の部員とマネージャーがつきあうのは代々禁止されているはずです」
「堅苦しいこと言うのは止めたんだよ。恋愛は個人の自由だ」
一番の理由は自信が無いこととだ。自分が代わりになることも、代打案を用意することも出来ないことを良く知っているからだ。
「それでも彼女が仁王さんとつきあうなんてありえません」
「君の圧力がかかっているから?」
しかし、中には俺のような例外も出てくる。のやり方に反感を持ち、かつ、自分に自信がある奴は必ずいる。それを俺は探していたのだ。そして、その人物は意外にも近くにいた。
「彼女は自ら告白をするような女性ではないからです」
「だから、仁王が告白した」
「恋愛禁止とされていた部内で、彼が自ら進んで恋人を作ろうと思う筈がありません」
「俺が焚き付けない限り?」
は屈み、座っている俺の鼻に自分の鼻をくっつけるかのように顔を寄せる。長い睫が今にも当たりそうで、チクチクしそうだなと考えたが、目が離せない。
「幸村さん」
「・・・さん、確かに俺は仁王にマネージャーが彼に気があることを伝えたし、マネージャーにも仁王の気持ちを伝えた。でもさ、それって悪いことじゃないよね。二人はもともと愛し合っていて、君がいなければ、当の昔に恋人同士になっていた」
「愛し合う?」
「ああ、1年の時から、二人は仲が良かったんだ」
「1年の時から?」
「そして、仁王はずっと彼女のことが好きだった」
「ずっと?」
「君が邪魔をしていたんだ。仁王のことを本当に好きなら祝福してあげるべきじゃないかな」
は何かを言いかけたが、小さく溜息をついて、俺から目を逸らした。それから、その場に座り込み、ぎゅっと目を瞑り白くなるまで唇をかみしめ、そして、顔を両手で覆った。
「さん」
「幸村さん・・・私、本当は気付いていたんです。仁王さんが彼女のこと好きだって」
驚いて、彼女の顔を覗けば、目蓋と鼻をほのかに赤くし目を潤ませていた。
「でも、じゃあ、私はどうすれば良かったんですか?」
「え?」
「美人でもない。頭も大して良くない。抜きん出た才能もない上に、性格も悪い。そんな私が、正当な手段で才色兼備の彼女に適うわけないじゃないですか」
性格は直せば良いんじゃないかな、と思いつつも、幸村は「そんなことないよ」と無難な言葉を返す。
「さんにはさんの魅力があるよ。ただ、分かりにくいだけで、俺は」
好きだよ、と言いそうになって口元を手で押さえる。
「すみません。こんな愚痴みたいなこと言って。私、教室に戻りますね」
普段であれば、告白されて断って女子が泣いた時など、腫れぼったい顔を冷やさせてから教室に戻らせるのに、この時、俺は動けなかった。自分の気持ちに手一杯で、何もいえなかった。パタパタと女子らしい走り方で去っていくを見ながら、高鳴る胸を、鳴り響く鼓動を聞き取り、口にしようとしていた言葉を胃の奥に引っ込めた。
「冗談だよな」
代わりに出たのは陳腐な台詞だった。
翌日、は普段どおり俺に接してきた。昨日のことなど無かったかのように、だ。そして、彼女は俺にした非礼を謝罪した。それから、二人を祝福するのは難しいこと、仁王に好意を寄せていたのは自分だけではないから、仁王の恋人をイジメから守ってやって欲しいことを伝えてきた。
根は良い奴なのだろう。それが、きっと恋心によって歪められたに違いない。
辛そうな表情で懇願してきた彼女に目を奪われた。こんな表情もできるんだな、と思ったと同時に征服欲が満たされるのを感じた。彼女が俺に従った。屈した。そう思うだけで身の毛がよだつ程の快感を抱いた。そして、この彼女だけに抱く感情を、なんと呼ぶのかも、これがどういうことなのかも、理解した。
意識しだすと、もう認めるしかなかった。と目が合うたびに胸を高鳴らせた俺は自分の思いをしっかりと自覚させられた。彼女が好きなんだと。
そもそも、何故、が敷く恐怖政治に幕を降ろそうと思ったのか。今考えてみると、仁王に好意をよせているの行動が気に障ったのが原因だったのだ。しかし、自分がまさか、小学校低学年のガキのように、好きな子をイジメて楽しんでいたと考えると羞恥心でいっぱいになった。
仁王とその彼女が付き合ってから、一週間経ち、放課後、に話があると理科室に呼び出された幸村は、どこか浮かれた気分で廊下を歩いていた。その日の天気は快晴で、窓の外には雲一つ無い綺麗な青い空が広がっていた。下校時刻は当に過ぎていたが、委員会が終わった時間なので玄関には多くの生徒たちがまだ屯していた。その横を通って、理科室がある校舎に向かう。
「調子に乗ってんじゃねーよ!!ブス!」
「つーか、超ムカツクし!マジありえない!」
渡り廊下一体に甲高い声が響いて、反射的に顔が歪む。典型的なイジメ文句だ。マニュアルでもあるかのように、イジメを行う人間は同じ台詞を言う。幸村はたまに自分以外の人間は密かに台本が配られていて、それを皆棒読みしてるんじゃないかと疑う時がある。
声の主を辿ると下駄箱の裏から、女子の叫び声と、泣き声が聞こえてきて眉を顰める。一応、幸村は自分が人気であることを自覚していたので、自分の登場によって、虐められている人間の負担にならないかと考えはしたが、しかし、だからと言って助けないという選択肢も選べるはずも無く、持っていた教科書で下駄箱の角をたたいた。ダン、と意外にも大きい音が廊下に響いた。
「何してるの?」
あまり相手を挑発しないように、ゆっくりと歩を進める。
「・・・幸村」
「なんで・・・」
3人の髪の毛を赤、白、黄色に染めた3人の女子がそこに立っていて、一瞬巨大なチューリップかと思ったが、全員可憐な花には程遠い怖い顔をしていた。3人は、幸村を見ると舌打ちをしてその場を後にした。幸村は、追いかけて、説教するようなマネはせず、ただ、彼女たちが去るのを待ってから、床にうずくまっている女子に声をかけた。
「大丈夫かい?」
掃除し終わった水が入ったバケツを投げられたのだろうか。全身がびしょ濡れで、しかも異臭を放っている。保健室に連れて行かなければならないと、腕を掴んだ所で、相手が顔見知りだということに気付いた。
「・・・君」
「ごめん。ありがとう。幸村君、このこと、雅治には言わないで」
つい最近、仁王の彼女になったテニス部のマネージャーだった。
涙をボロボロ流しながら、顔を歪ませている彼女を見た瞬間、頭が真っ白になった。
「まさか、が?」
「え?」
「アイツが、指示したのか?」
核心を突いた言葉だと思ったが、彼女は驚いたように幸村を見て、勢い良く首を振った。
「は、こんなことしないわ」
「君、騙されているよ。彼女はこういうことを平気でする人間なんだ」
そうだ、恋心を抱くような相手ではない。と、自分を叱咤するように、彼女の肩に手をかける。
「幸村君、分かってない」
「君こそ分かってない」
共に目を覚まそう、彼女は危険なんだ。
「彼女は、こんな分かりやすいイジメしないわ」
「何言ってるんだ、彼女は・・・って、え?」
「が私を貶めようと思ったら、もっと間接的な方法で分かりにくく上手にやるわ」
「は?」
「それにさっきの子達は、と敵対しているグループの子達だし」
なんだ、じゃあ、さっきの子達は、言うなれば俺の仲間だったってわけか?反勢力だったのか?
そんなことを思いつつ、ブレザーを脱いで彼女の肩にかける。彼女は小さく「ありがと」と呟くと濡れた髪を耳にかけて、くしゅんと、小さくくしゃみをした。
「いつから、こんなことに?」
保健室には誰もおらず、とりあえず、置いてあったタオルを彼女に渡し、タクシーの手配をする。部室にシャワールームもあるが、利用すれば仁王にイジメのことがばれる。
「雅治と付き合った日から」
なるほど、だったら、は白だ。彼女はその日、学校をサボって縁結びの神社にお参りしてきたらしいから。ご利益は無かったようだったが。
「こういう時、皆さ、に相談するじゃない?『貸しですからね』とか言いながら、絶対助けてくれるし」
でも、今回は私がの好きな人奪っちゃったからさ、そう言って、力なく笑った彼女は、それから、また泣き出し、受けたイジメがどんなに陰湿で、どんなに酷いものかを、タクシーがくるまで延々と語った。そして、帰り際、今後も相談に乗ってくれないかと頼まれると、俺は快く引き受けた。彼女を今の状況に追い込んだ責任の一端・・・、いや、ほとんどは俺にあったからだ。
彼女を家まで送った後、部活に出た俺は、翌日に怒られた。彼女はずっと理科室いたらしい。埋め合わせとして、が先生から与えられた罰則を受けることになった。
「一体何をしたら、音楽室の掃除を任されるんだよ。生徒が掃除する場所じゃないだろ。ここ」
文句を言うと、は俺を黙らせるかのようにシンバルをバンバンと数回叩いた。普段、防音のために閉められている窓を全開にし、並べられた楽器を乾いた布で丁寧に拭いていく。横ではがバケツいっぱいに入れられた水に、モップとビシャビシャと付けていた。それがたまに太鼓などに跳ねるが、きっと怒られるのは彼女だけであろうと思い、注意はしなかった。
バケツの水が黒ずみ始めた頃、バシンと音が鳴った。俺とは目を合わせ、目を瞬かせると、音の出所である窓を見た。3階にある音楽室から見える景色は美しかった。
夕日により赤く染められた空が延々と広がっていて、鳥が列をなして飛んでいる。そのまま、窓辺に吸い寄せられるように近づくと、穏やかな風を感じた。いつの間に隣に来ていたから、ふわりとシャンプーとも香水ともつかない香りを捉え、耳が不自然に熱くなるのを覚え、息を呑む。夕日によって赤く染められた彼女は、その時、とても綺麗に見えた。
実は、君のことが好きなんだ。
そう言ったら、彼女はどんな反応をするだろう。昨日、恋心を抱くような相手ではない、と思ったばかりだというのに、そんなことを考えた。そして、俺はそれを口にしようとした。
「さん、俺、実は、君のことが」と、言った所で、それまで身動きしなかったが急にバケツを持ち上げ、勢い良く窓の外に放り投げた。
「なっ!?」
放物線を描いて、落ちていくバケツを見ながら、俺は必死にそれを掴もうと、窓から外に身を乗り出す。下に何人かの女子たちがいて、危険を知らせようと思いっきり叫んだ。
「君たち!!」
が、声が届く頃には、下にいた女子はずぶ濡れで、俺をキツク睨みあげていた。おいおい、落としたのは俺じゃないよ、と思い元凶であるを見ようと振り返ると、彼女の姿はもう無かった。
アイツ。
「何これ、超臭いし、超最悪!!」
「幸村!お前昨日から、正義感丸出しでマジうぜーんだよ!」
「部外者なんだから、ちょっとは引っ込んでてよね!」
どこかで聞いたことがあるような声だと窓の下に目を向けると、昨日のチューリップ3人組みがそこにいた。そして、その先にはマネージャーが驚いた様子で立っていた。彼女は濡れていないようだ。とりあえず、その場を治める為に「やられたくない事を人にやるなよ」と言って、俺は音楽室から出た。ドアのすぐ傍にいたは俺が文句を言う前に、「すみません。私、あの人たち嫌いなんですよ」と謝った。
数日後、俺は部室でマネージャーの愚痴を聞いていた。ここ数日で習慣となってしまっていた。チューリップ3人組みは相変わらず陰湿なイジメを続けているらしく、手の施しようがないらしい。仁王に相談した方が良いんじゃないか、と何度か話を持ちかけてみても、迷惑をかけたくないから、という理由で反対された。俺も迷惑なんだけど、と言いたくても、そもそもの原因を作った俺がそんなことを言えるはずもなく、大して同意も出来ない話に愛想笑いを浮かべ相槌を打ち続ける。
「酷いと思わない?」
「うん、そうだね。酷いね」
「上履きに画鋲が入ってた時は、もう本当どうしようかと思った」
「あれだね。漫画の影響だよね」
「体育着も破られたし」
「男のロマンだね」
「机と椅子に油性ペンで落書きされて、落とすの大変だったんだから」
「水性だとスカートとかノートが汚れると思ったんじゃない?」
「幸村君!」
雑誌を読みながら、適当に話しにあわせていたら、叫び声を急に立ち上がったので、なんだなんだと思って彼女に目を向ける。
「雅治が私のことを好きだって、言ってくれた時うれしかったの。だから、きっと私も好きなんだって思った」
「え?あ、うん」
「でも、私、気付いたの」
「何に?」
「いつも、私を影で支えていた人、私のことを見ていてくれた人、それは雅治じゃないって事に」
彼女が、そこまで言うと一歩近づいたので、反射的に俺は慌てて立ち上がり後ずさった。瞳を潤ませて、目尻がほんのり赤くなっている。こういうとき、決まって女子は、ある言葉を口にする。
「私、幸村君が好きなの」
早まるな、と俺が口にする前に、彼女の口が開いた。
そして、同時に部室のドアが開いた。
体を強張らせる。
思考が止まる。
俺は深い絶望感に浸されていくのが分かった。
「どういうことじゃ?」
目を血走らせた仁王が、そこに立っていた。
「仁王、これは違うんだ」
「違わないわ!」
お前は黙ってろ、と怒鳴りたくのを必死に耐え、仁王に状況を説明しようと彼女から離れ「お前は誤解している」と自分と彼を落ち着かせようと、声を低くして言う。しかし、仁王は俺に疑いと軽蔑の眼差しを向けた。裏切り者と罵るような気迫さえあった。
「雅治、私、幸村君のことが好きなの。だから、貴方とはこれ以上付き合えない」
ごめんなさい、そう言って彼女は両手で顔を覆い泣き出してしまった。
え、何で、そこで泣くの。
むしろ、泣きたいのはこっちだ。
この状況作ったまま、それはないだろ。
唖然としながらも、仁王に目を向けると、彼は俯き、拳を強く握り締め鼻をすすっていた。どちらに付けば良いのか迷った末、仁王の傍によって声をかけた。
「仁王、よく聞いてくれ。彼女はイジメを受けていたんだ。俺は、その相談に乗っていただけなんだよ」
「俺には相談もしてくれんかった」
「それはお前に迷惑をかけまいと」
「そんなの嘘じゃ」
言うと思ったよ。だから、俺だって、彼女にお前に相談しろって何度も言ったんだ。
「幸村、もうええ」
「いや、よくない」
何を諦めようとしてるんだ。逃げないよう仁王の肩を掴んで、説得を続けようとした。ふわりと、香水の匂いが鼻を擽る。の匂いだ、そう思った瞬間、仁王は俺の手を払い、それから俺の顔面に向けて拳を振り下ろした。
ガッと鈍い音が響き、ついでマネージャーの悲鳴が上がる。
目の前が真っ暗になり、そこで俺は意識を失った。
翌日学校に言ってみると、新聞部と写真部の合同制作とでもいうように、ポスターやビラ、そして新聞が校内中に張り巡らされ、校舎の掲示板のいたるところに、俺と仁王の彼女のツーショットが張られていた。
ポスターには「女を巡る男の熱い戦い−神の子、堕落する−」「テニス部で起きた悲劇!!―最低な部長、部員の女を取る−」「学園のヒーローの裏の顔−地に落ちた幸村の人望−」というタイトルが書かれ、写真は俺が仁王に殴られているところだった。まさにベストショットという一枚だ。柳の話だと、YouTubeに、昨日の出来事の一部始終が動画にアップされているらしい。
最悪だ。
周囲からの非難の視線が痛くて仕方が無い。教室の自分の席で項垂れていると、が声をかけてきた。
「平気ですか?」
窓を後ろにして立っている彼女の顔は逆光で見えなかった。
「さん・・・、こんな事言っても信じてもらえないかもしれないけど、俺と彼女は本当になんでもないんだ」
縋るような目で、今にも泣きそうな声で、彼女に訴える。例え、全生徒が俺のことをそういう目で見ようと、彼女さえ、俺を信じてくれるならば、それで救われるような気がした。認めたくなくとも、彼女は俺の想い人だった。
「勿論、分かっていますよ」
は薄く笑い、俺の肩を優しくなでた。彼女に触れられた部分が熱を発するように熱くなり、冷えきっていた心にじんわりと温もりが広がる。
「どんなことがあろうとも、私は幸村さんの味方です」
鼻先と目頭が熱くなった。
その3日後、マネージャーは学校を辞めた。もともと彼女は転校する予定があったらしい。「もっと幸村君と一緒にいたかったな」と軽やかに言って学校を去っていった。
「ドイツはいかがでしたか?」
「楽しかったぞ。ソーセージにビール、最高の国だ」
「お友達もできました?」
「ああ、できたさ。50代の元軍人で、デッカイ図体してたが、チェスも強かった」
「へえ、ドイツ人もチェスやるんですね」
「ああ、アイツらは何だってできるんだ。すっげー意気投合してな。別れ際には『今度はイタリア人抜きでやろうな』って言われたんだぜ」
それは、チェスのことと戦争のこと、どちらを指しているだろうか、と思いながらも質問せず、景吾は並べられた皿を見て腕を組み、眉間に皴を寄せていた。の父親から「グリンピースのおいしい店がある」と言われて、指示されたレストランに来てみたが、どこから見ても中華料理屋で、中央にはローラーつきの丸いテーブルがクルクル回っている。
「おい、グリンピースはどうしたんだ?ここはそれが有名なんだろ?」
これから、出てくるかも知れないと思いつつも、我慢しきれずシュウマイに醤油を付けているに聞いてみる。
「何言ってるんですか?グリンピースで有名な所なんて聞いたことありませんよ」
「はあ?だって、お前の父親が・・・」
「それよりデザートにブラックベリーは、いかがですか?」
「話が、ちげーじゃねーか」
「そうです。話が違うのが世の中なんです。市民革命が起きようと独裁は続くし、人権宣言がなされようとも闇市で子供は売られ、女性と黒人は差別を受け、未だに旧植民地は旧宗主国から経済的に独立できていない。平和条約が結ばれている地域で戦争は起き、核保有国だけが攻撃を受けずに安全でいられる。実際には、緑と平和は無く、暗く深い闇だけが存在するのです。ベリーブラックなんです」
意味の分からない話をし出したを無視して、景吾は適当なデザートを店員に頼んだ。最後に出てきた赤いクコの実が中央に飾られた杏仁豆腐を見て、の父親は目を輝かせ「日本の国旗だな」と感心したように言った。いつものことだが、この親子と食事を取ると食欲が失せるな、と思いつつ、スプーンを杏仁豆腐に差し込む。
「あ、そうだ。景吾さん、私、YouTubeの動画作ってみたんですよ。ノンフィクションメロドラマ『神の子と呼ばれた男の転落』。自信作です。取材に2週間もかけて、徹夜で編集した汗と涙と努力の集大成なんです。後でURL送るんで、帰ったら見てみてくださいね」
満面の笑みでそう言った彼女は、とても機嫌が良かった。
そして、その夜、俺は深い闇を見た。
立海テニス部に対して、申し訳ない気持ちでいっぱいになった日