「ちゃん?」
「あ、優希さん」
バーゲンセールと言えば、女たちの戦場である。参戦する女性たちは往々にして、荷物もちと呼ばれる男を率いて戦場に赴き、彼らを後方に置き去りにして、前線に立つ勇敢な戦士となる。彼女たちは安くて質の良い物を買い求める傾向があるため、陣地を確保する為、体を押し合い、同じ品を巡って争い、奪い合い、傷つけあう。言ってみれば、そこは完全なる無法地帯と化する。
男たちはそこで女たちの執念と醜い生き様を目の当たりにして、恐れおののき、女性とは怖いものである、と認識するのだ。それは、結婚して1年目に分かる女の素顔であり、その時期に男性は愛妻家という恐妻家に生まれ変わる。ルソーの言う「第二の誕生」とはこのことを指す、との父親は言う。
「ちゃん、一人で来てるの?」
「いえ、景吾さんと、あ、婚約者と来てます。優希さんは亜久津と?」
「うん、階段の所にいると思う」
その日、は銀座のバーゲンセールに足を運んでいた。金に困っていない彼女が、どうしてそんなことをしているのかというと、まあ、たいした理由ではない。「、お前は金銭感覚が狂っている。見舞いの品にあんな高価なものを普通は持っていかない」と柳に教えられた為だった。いや、実際にはその後に続いた「仁王はドン引きした」という言葉に過剰反応したとも言える。
幼い頃からプライベートではほとんど景吾に付き合ってきたは、金銭感覚が一般のそれとは大分ずれていた。自身が金持ちであることを自覚はしていたが、共に遊ぶ人間が億単位の金を銀行に預けている景吾や他人から奪い取っては自分のものにしている亜久津であったため、それを実感することは無かったし、気にも留めなかった。しかし、仁王という自分の思い人が引いてしまうほどの感覚であれば直さなければならないと思い至り、天気の良い、日曜の朝早くに景吾を呼び出して銀座に向かったのであった。庶民を魅了して止まないバーゲンセールというものが一体どういうものなのか、普通の金銭感覚とはどういうものか徹底的に調査しようと思ったのだ。
「先日はわざわざ学園祭にいらして下さったのに、ご挨拶もできず、すみませんでした」
「全然気にしないで。ちゃんの婚約者、えっと跡部君ともお話できたし」
「え?ああ、亜久津と一緒にいらしてたんですよね。彼、失礼なこと言いませんでしたか?」
「ううん、とても良い子だったわ。格好良いし、スポーツをやってれば沢山のファンが出来ちゃうそうな感じ」
「残念ながら、彼は漫画研究部に所属していて、体育の補修を受けなければいけないくらい悲惨な運動神経をしているのです」
「あら、漫画書くの?人は見かけに寄らないのね」
「ライバルは手塚だそうですよ」
「手塚・・・って、あの?」
「ええ、あの漫画界の頂点に立つ手塚です。『鉄腕アトム』とか『ブラックジャック』とか描いた偉大な漫画家です」
同じ籠を何人もの女性が囲んで、手を突っ込んでは無造作にかき回し、値札を見てはまた中に放り込む様子を見て、最初こそ呆気に取られていただが、バーゲンセール会場の中央に歩いていくうちに周囲と同じような動作をするようになった。そして、かわいらしい桜色のカーデガンに目を付け、手に取ろうとした所で優希に声をかけられたのであった。
あまりにも想像とかけ離れていた跡部の夢と趣味に、目をしばたたかせて、驚いた表情をした優希だったが、かろうじて「将来が楽しみね」と言葉をかえす。
「デリカシーがありませんまら、漫画家にはむいていないと思います。今朝なんか、テレビに出ていたモデルを見て、ダイエットしろって私に言ってきたんですよ」
「あらら」
「勿論、Dietはパパが頑張っているって言い返しましたけどね」
「Diet・・・あ、えっと、英語で国会って意味だったかしら?仁君から聞いてるわ。お父さんの話」
「スキャンダルが多い政治家で、そのうちギネスブックに登録されるんではないかと噂されている有名人です」
「官房長官でしょ?」
「今の総理大臣が死ねば首相です」
そんな物騒なことを言うに優希はのんびりした様子で「偉いものね」と言う。
「3年前くらいかな、街頭演説を聞いたことがあったけどオーラっていうの?そんなのが見えたわ。いつもなら、素通りしちゃうんだけど、彼の声を聞いた時、地面に足がくっついたかのように動かなくなって、ああ、この人はいつか日本のトップに立つ人だなって、何となく思ったのよ」
「パパ、自分が首相になったら公約無視しても税金上げるって言ってましたよ」
鏡の前でワンピースを合わせながら、バッグを見ている優希に言う。
「仕方ないわよ。公約に『税金上げる』なんて書いたら票が集まらないもの」
優希が、そう言い切ったのでは持っていた洋服とカゴを地面に落とした。近くにいた店員の視線がつきささって慌てて拾う。
「公約を破ることは褒められたことじゃないけれど、税金を上げないと、財政赤字が膨らんで結局、仁君やちゃんたちに皺寄せが行くのよ。だったら、今私たちが少しでも払っておいた方が良いじゃない。税金の無駄遣いは悪いことだけれども、税金を上げることは悪いことじゃないわ」
幸い今は景気が良いし、実は今勤めている会社から正社員にならないかって声をかけてもらったの、子育ても一段落したしね。
エナメル加工をされた煌びやかなクラッチバックを手にとって、満足げに笑う。明るい髪がライトに照らされて、バックをぶらさげ鏡に映った彼女はとても綺麗に見えた。
「ちゃんのお父さんって、結構マスコミからバッシングされてるけど、言っていることは筋が通ってるし、私、好きよ」
にこにこと、笑みを浮かべた彼女にも自然と笑顔を向けた。
「優希さん、私のママになってくれませんか?」
「ちゃんの?」
「はい」
「・・・それって、つまりちゃんが、仁君の、その、あれになるってこと?」
こんなこと突然言われても迷惑かもしれませんが、と目を伏せたところで、優希は慌てたようにぶんぶんと首を横に振り、の手を握りしめた。
「とっても、うれしいわ」
「優希さん」
「ちゃん」
戦場では必ずドラマが生まれる。
「何でてめぇが、ここにいんだ」
見事な金髪を携え、目元に色気を漂わすような黒子を付けた男が三人用のベンチに、どっかり座っているのを見て亜久津は舌打ちをした。バーゲンセール会場に荷物持ちとして、かり出された亜久津は人ごみから少し離れた休憩所にいた。そこは、買い物をしている女たちを、待つ男たちで溢れ返っており、そのほとんどが、やつれた顔をしている。時計を頻りに見ている者もいれば、本を読んだり、携帯をいじったり、うろうろ歩き回りながら時間を潰す人間もいる。
そんな中、ひときわ目立つ金髪の男がいた。男は亜久津を見ると、驚いたように一瞬目を大きくしたが、すぐに目を細め薄く笑った。
「立海の学園祭の時の、不良じゃねーか」
亜久津は目の前の男に見覚えがあったが、どこで見たのか思い出せず苛立ちを感じていた。
「あの後、思い出したんだぜ。山吹の怪物、亜久津仁だってな」
「俺と会ったことあんのか?」
「ねーよ。ただ、写真つきのデータくらいはあんだよ。俺様を誰だと思ってる。アーン?」
偉そうな笑みを浮かべて自分を見据える男に、亜久津は面倒臭いと思いながらも言葉を返す。
「誰だ」
「・・・。跡部景吾だ。テニス部に所属していたなら、俺の名前くらいは覚えておけ」
「跡部景吾?聞いたことねー名前だな」
「まあ、良い。青学のルーキーに負けて尻尾巻いて逃げた野郎に用はねぇ」
「さっきから喧嘩売ってんのか?なんなら今からてめぇとやりあっても良いんだぜ?」
「スポーツを、か?それとも、け」
「喧嘩もスポーツだ」
それはが亜久津に対して昔言った台詞であり、その時、亜久津は「喧嘩とスポーツを一緒にするな」と反論していたが、ちょっと格好良い台詞だと思ったので口に出した。すると、その台詞を聞いた景吾は眉を思いっきり顰め、伺うように亜久津を見た。
「それって、『常識』なのか?」
そんなわけ無いだろ、と、ツッコミたい気持ちを抑えて、済ました顔でタバコに火を付ける。
「で、やるのか?」
「いや、なんかどうでもよくなった」
肩を落とし、大きくため息をつくと景吾は休憩室から出ていった。その後姿を見ながら、の言葉は人を不愉快にするだけでなく脱力もさせるのか、と亜久津は感心するように紫煙を吐いた。
「あ、仁君!いたいた!」
「君付けするな、ババァ」
「はいはい、仁、待っててくれてありがとうね」
タバコが切れて、もう一本吸おうとポケットに手を突っ込んだ所で、優希が休憩室に入ってきた。暢気な声で呼ぶものだから、軽口を叩いて言葉を返したが、優希の隣にがいるのを見ると亜久津は目を瞬いた。
「親孝行とは、亜久津も大人になりましたね」
「何でてめぇが、ここにいんだ」
景吾に言った台詞をもう一度言う。
「一般的な金銭感覚を養うために来ました」
「既に手遅れだ。潔く諦めろ」
亜久津が優希の買い物袋を手に取り、のも持とうとした所で、は首を横に振った。
「景吾さんが来てるんで」
「ああ、例の婚約者か。こういう所にも来るんだな」
「かなり渋りましたけどね」
それでも、最終的にの我侭につきあってやるということは、良い奴なんだろう、と亜久津は顔も知らないの婚約者に思いを馳せる。を相手に日常を送らなければならない苦労人という共有意識が芽生えているのだ。
「跡部君、休憩室にはいないみたいね」
キョロキョロと周りを見ながら、優希がそう言うと、亜久津は首を軽く捻った。それから、を上から下まで見て、確かめるようにゆっくりと言葉をつむいだ。
「お前の婚約者って、『跡部景吾』なのか?」
「ええ、『跡部景吾』です。なんですか、今更。学園祭で会ったんでしょう?それに、いつも彼の愚痴を零しているのを聞いていたじゃないですか」
呆れたようにが言うと、亜久津は眉間に深い皺を寄せた。そうか、どこかで見たことがあると思えば、昔の家に行った時に写真で見たことがあったのだ。
「てめぇの長話なんぞ最後まで聞いてねーよ。だいたい、跡部って苗字は初耳だ。それに氷帝テニス部の部長だってのも」
「へえ?」
「何がマンケンだよ。お前、全部知ってたろ?」
は不思議そうに小首を傾げてみせる。それから、口端を歪ませた。
「綺麗な人だったでしょ?」
「はっ、目元にでっかいシミがあったぜ」
「あの黒子は、そのうち口元に移植するので安心して下さい。いずれは、髪の毛も伸ばして銀髪にするんです。今より、ぐっと素敵になりますよ」
お前が好きで携帯の待ち受けにもしてる男に学園祭で会ったが、お前とは絶対くっつかねーぞ、と言おうとしたところで、が爪先立ちをして亜久津の耳元に口を近づけた。
「亜久津、朗報です。私たち上手くいけば、あれになります」
「何だよ。指示語じゃ全然わかんねえよ」
「兄弟になります」
「は?」
「優希さんが、パパと再婚するかもしれないのです」
「・・・冗談だろ」
亜久津は額に嫌な汗をかいて、耳元に口を寄せていたの顔を離し、正面からじっと見た。も真っ直ぐ亜久津を見返す。
「大マジです」
それだけはやめてくれ。頼むから。
そう願わずにはいられなかった。
妹に連れてこられた銀座のデパートは、どこか厳かで高級感溢れており、神奈川県にある百貨店とは内装も外装も全く違った代物だった。人気女優がバーゲンセールの広告塔になったためか、会場はかなり混んでいて、幸村は妹の買い物が済むまで地下の喫茶店で本を読むことにしたのだ。と、言っても、一人ではない。幸村の体調を気遣って付いてきた真田がいたし、後から仁王が合流することになっていた。
「幸村、俺はインフルエンザで休んでいたから詳しくは知らんが、俺が休んでいた間に部内で揉め事があったそうじゃないか。たるんどる!」
「真田もインフルエンザにかかるなんて、たるんでるんじゃない?」
「ぐっ」
あの事件で幸村と仁王の関係は、先日の事件で最悪のものとなり、修復不可能になったように思えた。しかし、友人と恋人の両方に裏切られ、傷つき落ち込んでいた仁王をが慰め励まし、幸村との仲を取り持ったことによって二人は元の関係に戻れたのであった。誤解は解け、友情は元の鞘に収まる。幸村はに心の底から感謝した。
始めのうちは。
「新聞を見たが、お前が横恋慕をするとは到底信じられん。俺はお前の口からはっきり事の顛末を聞きたい」
「イジメに合っていたマネージャーを助けた。そして、そのマネージャーが仁王の恋人であるにも関わらず俺に恋をした。それだけだよ」
マネージャーが転校し、再び平穏な学校生活が訪れると、俺は冷静になって状況を分析してみた。そして、小さな違和感を抱いた。何かがおかしいと本能が言う。けれど、何がおかしいのか分からない。そんな悶々とした日々が続いた。
「たるんどる」
「俺は悪くないだろ?」
「女子に好意を持たれたのは、お前の責任だ」
「それ、冗談だよね?」
「責任は取るべきだ」
「・・・取らされたよ。十分すぎるほどね」
ある日、仁王に話しかけているの姿があった。うれしそうな表情を浮かべて、共に日直の仕事をこなしている。目尻を赤く染めて黒い目がキラキラと光らせて、可愛いなと素直に思った。あんな醜聞を学校中に広められた自分をそういう目で見てくれることは一生無いだろうと思いつつも、から目が離せなかった。そして、彼女を邪険に扱う仁王を疎ましく思った。
しかし、視線を仁王に向けた時、俺は唖然とした。笑顔を彼女に向けていたからだ。体に雷が落ちてきたかのような衝撃を受けた。
今まで止っていた思考回路がフル稼働し、情報を伝達しあう。
そして、ひとつの結論に辿り着いた。
によって、全て仕組まれたことだったのではないか、と。
「真田、はとんでもない奴なんだ」
「いきなり何の話だ」
「彼女は天使のような悪魔なんだ」
「は人間だぞ」
まさか、とは思った。
自分が考えていることが、根拠も無く、あまりにも飛躍しすぎていたので、一度は頭を振って気持ちを落ち着かせた。「どんなことがあろうとも、私は幸村さんの味方です」という言葉が頭を過ぎった。
「俺は騙されていたんだ」
彼女が味方になる筈が無い。
俺は彼女と仁王を引き離そうとしていた邪魔者なんだから。
今回、一番得をした奴は誰か。
俺と仁王の彼女が消えて喜ぶのは誰か。
そう考えて、全身に悪寒が走った。彼女のやったことに対してではない。気付かなかった自分自身に対してだ。恋は盲目と言うが、これはあんまりな失態だ。
「は皆も騙している」
証拠は無かったが、俺なら論理的に皆を説得できると思った。
まず、仁王に全てを話そうと思ったが、まだ疑惑の眼差しを持って俺に接する彼が俺の言うことを信じてくれるとは思えなかったので、柳に話すことにした。すると彼は「手を出すなと忠告した筈だ」と呆れたような目つきで見てきた。クラスメイトに話してみると「あー、やりそうだよね」で終わり。それで良いのか。おい。とツッコミを入れる余地すら無かった。新聞部、写真部のマスメディア系の部活も全てグルだったと思い至った俺はすぐさま文句を言いに彼らの部室を訪れたが、白を切られた。新聞部とは「表現の自由」「知る権利」そして「プライバシーの権利」で討論になった。
「ああ。アイツには皆騙されるんだ」
「え?」
「アイツには清楚でおしとやかな印象を持つからな。俺も小6で同じ委員会に入るまで騙されていた」
「いや、そういうことを言っているんじゃなくて・・・」
「敬語を使うが言葉遣いは荒く、時に下品な発言をする。この間奴の筆箱を借りて委員会の報告書を書いたのだが、消しゴムに仁王の名前が書いてあった。自分の名前もまともに書けないのか、とあの時は心底驚いた」
「俺も、お前のその発想に今驚いている」
「ただ、悪い奴じゃない」
「いや、絶対悪い奴だ」
仁王みたいなことを言うな、と言いながら、真田は店員にコーヒーのお代わりを頼んだ。そして、その店員のすぐ横に見知った顔がいて、幸村は反射的に背中を背もたれにべったりと付けた。
「・・・さん」
「ごきげんよう。真田幸村さん」
「それ、ギャグ?」
「冗談です。マイケル・ジョーダン」
いつもより、上機嫌でテンションの高いに幸村は、真実を問い詰める気も、文句を言う気も失せ、目の前にあるオレンジジュースのストローに口を付ける。それに、彼女に何を言っても誤魔化されるのは目に見えていた。謝罪などするタイプでもないし、幸村も謝罪されて許すほど甘くも無い。淡い恋心と怒りの炎が火花を散らして、心の中で燻っている。一方、私服姿の彼女に胸が高鳴っていることをこの時幸村は確かに感じ取り、苦虫を潰したような顔をした。
「休日の銀座、喫茶店に入る二人の男子中学生。一方は線の細い文学少年で、もう一方は体格の良い大らかな青年。二人は」
「ちょっと、変なナレーション入れるのやめてくれないかな。周りの視線が痛くなるんだけど」
「何を今更。慣れたものでしょう?」
そう言っては口を弧に描いた。その意味が何を指しているのか、分かった幸村は頭に血を登らせて立ち上がり、通路に出ての胸倉を掴んだ。バサバサとが持っていた買い物袋が床に落ちる。同時に真田の叱責が飛ぶ。
「やっぱり、仕組んだんだ」
顔を近づけてメンチをきるように睨みつけるが、は穏やかな表情を向け、優しく幸村の手を握りしめた。その余裕の笑みは勝者のみが浮かべられるもので、幸村に敗北を自覚させるに十分な威力を持っていた。真田は席を立ち、幸村とを引き離すと、幸村を落ち着かせるよう席に座らせた。それから、に顔を向けた。
「こいつはお前に騙されたことをショックに思っているんだ」
「へえ」
「少しは反省しろ」
「何を?仁王さんとその恋人のことなら、私の所為じゃありませんよ」
「仁王は関係ない。一体何の話をしとる」
「・・・。一体何の話をしているんですか?」
「全く、お前と言う奴は人の話も碌に聞けんのか!」
喫茶店の通路で、ガミガミ講釈を垂れ始めた真田に、はすぐに耐え切れなくなり、先程落とした荷物を拾い集め、撤収の準備をする。「だいたい、お前はいつも口先ばかりで行動が伴わないんだ」とどんどんヒートアップし失礼なことを言ってくる真田から逃れる為、は芝居がかった声で「あ!」と叫び、袖を一瞬捲ってあたかも腕時計があるよう装い、時間を見る振りをする。そして、急がなきゃバスに乗り遅れちゃう、と言おうとしたところで、背後から聞こえてきた声に反応し、口を噤んだ。
「遅くなって、すまんかったのう」
「仁王さん」
軽く右手を挙げた仁王を見て、も反射的に右手を挙げ、真田を窓側の席に座らせると自分もその隣に座り、仁王と向かい合えるような位置についた。あたかも、自分も仲間です、と主張するように。「『あ!』って言って時計見たのは何だったの?急用があったんじゃないの?」と幸村が呟いた言葉は無視された。
「問題は青学のルーキーに赤也が負けたことだ。たるんどる!」
「アイツは勝手に暴走することがあるからのう。しっかし、俺も一度試合ってみとう」
「仁王まで負けたりしてね。1年に負けたらさすがにレギュラー落ちかな」
「そしたら、そのルーキーを二度とラケットが持てない体にしますね」
両手を胸の前に組んで、仁王を見つめて目をトロンとさせ、さらりと物騒な事を言うに幸村だけが顔を引き攣らせた。真田と仁王はテニスの話に夢中になると、基本的に部外者の発言には耳を貸さない。それでも、は特に気にする様子も無い。店員がメロンソーダーを持ってくると、ジュースの上に乗っかっている生クリームをすくい、口に含むと、ついで暇つぶしのようにアイスクリームをスプーンでつつき始めたが、たまに思い出したように会話に参加しようとする。
「マイペースだね」
そう幸村が言うと、はチラリと視線を彼の方に向け、それから、ジュースの中に漬かっていたさくらんぼをスプーンで拾い上げた。人差し指と親指で茎を摘み上げ、口の中にパクリと含む。
CMかなんかのように、とても、おいしそうに見えた。
自然と手が伸びて、彼女の手を掴むと、プチっと音がして口に茎と実が切れる。
そして、幸村はの手を取ったまま自分の口に茎を入れた。
「茎は食べるものじゃないですよ」
眉を寄せて、不可解な幸村の一連の動作を目で追っていたが口を開くと、幸村は口端を歪めた。
「『舌で茎を結べると、キスが上手い』って知ってる?」
さくらんぼの種をティッシュにとって丸めながら頷き、ストローに再び口をつける。
「試してみたくて」
口をモゴモゴさせて、輪を作り出す様子を見せる幸村をはじっと見た。
「上手いですよ」
「え?」
「キス」
幸村は大きく目を開け微動だにできなくなった。
全身が沸騰するように熱くなる。これは、何だ。
鏡を見なくても自分が顔を真っ赤にしていると分かった。はそんな幸村を、ふふんと鼻で笑う。その顔には「よくもこの前はこのネタで恥をかかせてくれたな」と書いてある。気絶して倒れたことは、の人生の中で一番の汚点だった。初心だと思われたり、舐められたりするのも、腹立たしかったので一泡噴かせてやる気満々だったのだ。なので一矢報いることが出来、清々しい表情をする。
しかし、の勝利の余韻を壊す声がその場に響いた。
「ここで何してんだ。アーン?」
以外の3人が仲良く一斉に声の主の方に顔を向けると、不機嫌そうに眉を寄せ、腕を組んだ景吾が、4人がついているテーブルの横通路に立っていた。怒気を露にしていて声をかけづらい雰囲気を醸し出している彼に対して、気後れしないというか、空気を読めない真田は平然と声をかける。
「なんだ、跡部、買い物か?」
景吾は喫茶店の外からの姿を見て、怒りを覚え中に入ってきたので他の人間の確認をしていなかった。だから、真田に声をかけられると、鼻の上に皺を寄せ、お前は誰だと言う表情をしそうになった。特に私服の真田は、いつも以上に老けて見えて、成人男性と言われても納得してしまうような外見をしていたので、目の前の人物を彼だと認識するまで数秒を必要とした。
「・・・真田か。田舎もんのお前が何でここにいる」
「跡部、今、お前、神奈川県民900万人を敵に回したよ」
そう幸村に言われると、跡部は驚いた表情をして真田の奥に座っている幸村と仁王に目を向けた。そして、二人の姿を確認すると気まずそうに目を逸らした。頭の中ではYoutubeで見た動画がフラッシュバックされる。頭を横に振って意識を二人に向けないよう、景吾はをきつく睨んだ。
「!!お前、ここで何してんだ!」
「あ、景吾さん」
「『あ、景吾さん』じゃねーよ!今その存在に気付きましたって顔やめろ。目の前で会話してただろ」
「きっと磁場の影響で音声が聞き取りにくくなっていたんですね。じゃなきゃ、超常現象」
「お前の存在がな。だいたい、何で携帯が繋がらねーんだよ」
「電池切れの所為です」
「昨日、あれほど充電しとけ確認しろって言ったのに、お前は言いつけを守らなかったわけだ。そういうことか?アーン?」
「停電の所為です」
「ほー、日本一土地代の高い場所に一軒家を構えている家が、一晩中停電の被害に合うとはなー?さすがの俺も気付かなかったぜ。東京電力でも訴えるか」
「止めて下さい。人の迷惑を考えて下さい」
「お前がな!俺がどんだけ探したと思ってんだ!」
「私も貴方を探していたんですよ」
飄々とそんなことを言うに景吾は拳を振るわせ、隣で話を聞いていた真田は「そんなこと聞いとらんぞ」と指摘した。
「真田さん。それは貴方が人の話を聞いていなかっただけです。深く反省しなさい」
真田が目をしばたたかせて、幸村に確認を取るように視線を移すが、幸村は肩をすくめるだけで何も言わない。彼の注意はどちらかというと景吾に注がれていた。休日に一緒に出かけていること、名前で呼び合っていること、この二つの要素が二人の関係を物語っていた。良くて幼馴染、最悪恋人同士だ。
景吾は米神に血管を浮かばせると、を睨み付けた。
「俺にはお茶をしているとしか見えなかったが?」
「いつも笑顔を絶やさない人でも、実は悩み苦しみもがいているかもしれない。貴方は上辺ばかり見ていて大事なことには何一つ気づけないのですね」
「お前、もう黙れ」
「さんと跡部って関係って?あ、俺たちはクラスメイトなんだけどさ」
幸村は国会議事堂での兄が言っていた婚約者とは、跡部のことだったのではないだろうか、と推測し質問する。景吾は突然放たれた言葉に、今まで無駄に動かしていた口をぐっと閉ざし、幸村を見て、それから、仁王にもチラリと視線を向けて片眉をピクリと上げた。
いつもであれば、景吾はのことを婚約者として即座に紹介した。どんなに出来損ないでも、どんなにマヌケでも、自慢できない代物だとしても、それは事実で隠しようがなく、むしろ隠したりすれば更に惨めな気持ちになると思ったからだ。
しかし、この時、景吾の頭の中には鮮明にによって貶められた幸村と仁王の姿があった。もしも、ここで彼女の事を自分の婚約者だと言えば、責められることは必至。景吾にとって責任転嫁や責任逃れという行為は嫌悪の対象だった。上に立つものが一番しなくてはいけないことは責任をとることだからだ。そして、景吾はいつもその立場にいた。
「こいつは俺の」
手に汗を滲ませながら、口を開いたその時、甲高い声がその場に響いた。
「お待たせ、雅治!!」
明るい茶髪を携えたスタイル抜群の美女が喫茶店の入り口から走ってこちらのテーブルに来ると、大きな買い物袋を持ったまま仁王に飛びつき、仁王は立ち上がって彼女をその胸に受け止める。そして、「じゃあ、俺はここで失礼するとするかのう。また学校での」と言って、女の荷物と手を取り、コーヒー代だけテーブルに置くと、店を出て行った。
はぽかんと口を開けたまま、しばらく動けなかった。何が起きたのか理解できずにいると、それに説明を加えるかのように幸村が話しかけてきた。
「知らなかったの?今の仁王の新しい彼女」
「新しい彼女?」
「そう。さんの『失恋には新しい恋ですよ』ってアドバイスのおかげ」
にやり、と意地の悪い笑みを浮かべた幸村を見て、は彼が一枚噛んでいることを知った。この狐め!と、叫びたい気持ちをぐっと堪えて、「まだ懲りていないんですか」と冷ややかな目を向ける。そして、その言葉に答えたのは真田だった。
「の言うとおりだ。たるんどる!」と、怒声を上げ、ドスンと席に着いた。それから立っている景吾にも席に着くよう指示し、店員を呼んで全員分のお代わりを頼んだ。景吾は一体何なんだ、と思いつつも、後ろめたさのせいで何も言えず、幸村とは互いに睨み合っていた。
「そもそも学校というものは恋愛などと言った浮ついたことをする場所ではない!そうだろ、」
「さあ」
胸を張り、拳を奮って、そう主張する真田に景吾は「個人の自由だろ」とツッコミを入れ、はいつも通り適当に相槌を打つ。
「部内で女を取り合うなんてもってのほかだ」
「まあ」
「私生活に悪影響を及ぼす恋愛など一切禁止すべきだ。学業の妨げになり、学力低下に繋がる」
「はあ」
「俺たち、風紀委員が先頭に立って学生指導を行っていかなきゃならない」
そう思わないか、と、3人に同意を求めた真田だったが、色よい返事をしたのは「ええ」と言っただけで、景吾は幸村に「お前のとこの副部長、大丈夫か?」と怪訝そうな目を向け、幸村は幸村で「さあ」とのマネをするように適当な言葉を返した。
「早速、来週からこの案を取り入れ、正式に風紀委員の活動内容にしよう」
「恋愛するなって、全校生徒に呼びかけんのか?お前、暇だな」
景吾は胡散臭げに真田を見て、幸村は大きくため息をついた。
「止めておいた方が良い。お前と風紀委員の評判が下がるだけだ」
真田は話が長い上に、やること成すことが極端で、一部の風紀委員からは陰口を叩かれることもある。正義は自分にあると信じて止まないような人間で頭が固いから、説得が難しく、皆の意見をまとめるよりも、つい自分の主張を後押ししてしまうのだ。悪いことではないが、しかし進行役でもある委員長がこれだと委員会は困る。
「真田さん。貴方は正しい。学力低下には歯止めをかけなければいけないと思います」
そして、副委員長には真田の推薦で就いたがいる。
暴走すれば、もう誰にも止められない。
「ゆとり教育によって日本国民が、とりわけ学生が受けた被害は大きい。あれは失策でした。学力低下は容易に国力低下に繋がります。日本のGDPは中国に下回る」
は真剣な面持ちでそう言うと、ハンドバックから、手帳とボールペンを取り出し、真田に差し出した。
「ここに『I love you』と書いてみてください」
書けといわれた内容が内容なので、真田は一瞬戸惑っての顔を覗くが、彼女は顔色一つ変えない。幸村と景吾も怪訝そうに二人の様子を伺う。
「そんなこと書けるわけなかろう」
「そうです。これがゆとり教育の結果なのです。中学3年生にもなって簡単な英語すら書けない学生が急増しているのです。日本に明日はない」
「・・・ちょっと待て」
の言っていることを理解すると真田は慌ててボールペンを走らせたが、ついで「そのあとに『チェコスロバキア』と英語で書いてください」と言われ、筆が止まる。スペルが分からない。青くなった真田の様子を見て、は彼から手帳とボールペンを取り上げてバックにしまう。
「これがゆとり教育の結果なのです」
「ああ、認めざるを得ない」
米神から顎にかけてツーと汗を流す真田を見て、景吾は顔を引き攣らせる。お前、俺とテニスで勝負した時にそんな顔見せたことなかったじゃねーか。
「もっと精進せねばならない」
「そうです。学生の本分を思い出さなくてはいけません」
「俺は恋愛に現を抜かした覚えはない」
「本当に?」
「小5の時、お前に恋心を抱いていた時もあったが、小6の時に粉砕された」
真田のカミングアウトに驚いたのは景吾と幸村で、二人は同時に飲み物を噴いた。と真田は汚いものでも見るような目を二人に向けた。
「問題は、地球上にはたくさんの人たちが飢餓で苦しみ、戦争で命を失っている現状があるのに、それを見てみぬ振りをして学校生活を学生が送っていることなんです」
そう言うの両脇にはバーゲンで買い込まれたたくさんの洋服が置いてある。景吾の見立てではその半分は使われずにタンスの肥やしになるものだ。
「恋愛も部活も禁止すべきなのです」
拳をテーブルに打ちつけ、まるでその二つを禁止すれば世界に平和が訪れるかのように言い切る。
「・・・部活も?」
彼女の断固とした決断に真田は動揺し、眉を寄せる。
「学業の妨げを行っているのは部活も同じ」
「しかし、部活は体力、精神力を養い、そして礼儀や礼節を身に付ける大切な場だ。社会に出るに当たって必要なルールも生徒たちはここで学ぶんだぞ」
は「礼儀や礼節?」と言って景吾と幸村を横目で見た。
「だったら、恋愛だってそうじゃないですか。恋愛の駆け引きで精神力を養い、夜は体力を必要とする。相手のご両親に会うため、礼儀や礼節を身に付けるようになる。社会に出るに当たって必要なルールも恋愛を通じて学ぶことが出来ますよ」
が真田の説得に回っている間、景吾はくだらないと思いながら、コーヒーに生クリームを入れる。その様子を見て、幸村が話しかける。
「彼女、たまに下品なんだけど、昔からこうなの」
「俺は何度も直そうと努力した」
「『努力した』ね。結果重視の君がそんなこと言うとは驚きだよ」
やけに攻撃的だなと思い、景吾は眉間に皺を寄せた。
「跡部、君さ。彼女の婚約者、誰だか知ってる?」
不意をつかれてギクリとするが、先程までの罪悪感は和らいでいる。何故なら仁王に新しい彼女ができていて幸村との関係も改善されているのが見て取れたからだ。これならば、非難されこそはしても責任を取らされることはないだろうと、踏んだからだ。
「世間体を気にしそうな君が、休日にあえて彼女のような人間の傍にいる理由。そういうことなんだろう?」
幸村の真剣な表情を見て、景吾はため息をつき観念したようにうなづいた。すぐに、気持ちを持ち直し、だからなんだという目で見返す。
「好きで婚約したわけではなさそうだね?」
「祖父が決めたんだ。これは決まり事なんだ」
法律かなんかを語るように言う。
「で、結婚するまでは自由恋愛なわけだ?それとも結婚した後も」
怪訝そうに幸村を見る。
「恋愛なんかしねーよ。そんな非生産的なことして何になる」
はっと、笑いながらばかにするように言う景吾に幸村は安心感を抱いた。の傍にいながらも、何もわかっていない婚約者に対し恋敵にはなりえない、そう判断できたからだ。
店員が空になった景吾のカップにコーヒーを注ぐと、がメロンソーダーを頼んだので景吾は「太るぞ」と注意をした。すると、真田は「部活に参加していないから、いけないんだ」と指摘し、幸村もそれに便乗するように「そういえば、仁王の彼女はスタイル良かったよね。さんとは雲泥の差があるよね」と笑う。その言葉に景吾はムッとしたが、口を開く前にが幸村に同意した。
「ええ、ダイエットした方が良いかもしれませんね」
景吾は目を大きく開けて、を見た。今まで何度も体型について文句を言ってきただけあって、幸村の一言で意思を簡単に変えたことが信じられなかったのだ。
驚く景吾を尻目に、は痩せる方法を考える。
「ヨガ、バレエ、社交ダンスの手配と、管理栄養士の方も雇ってもらって、朝夕のロードワークの時間も倍に伸ばしましょう。それから」
「部活に入れば良い」
真田はふと閃いたように、言う。もニコニコと笑みを浮かべ、三人の顔を順に見てから頷く。
「テニス部とか良いですよね」
その場にしんと静寂が訪れる
そして、コップの中の氷がカランと小気味良い音を立てたのを合図に
それは認めない、と3人が同時に叫んだ。