脱線

14. 修正主義
政策対立


「一体、どういうことじゃ」



恋人を失ってから、女をとっかえひっかえするようになった仁王は学校きっての遊び人の称号をもらうようになるまでに至ったが、その仁王にあり得ない噂が流れた。


朝学校に行ってみると、そんなに親しくも無いクラスメイトから「よっ、色男」と肩を叩かれたり、「やるな、お前、このこのー」肘でわき腹をつつかれたりした。それから、女子たちに会うと、普段無口な奴まで軽く手を挙げて「聞いたわよ」なんて言ってくる。何より、その後に続く言葉に仁王は驚かされた。



と付き合い始めたんだってね。あの子少し抜けてる所あるけど、よろしくね」


「仁王君、おめでとう。まるで運命みたいに毎回隣の席にいたんだもん。必然だね」


「あ、仁王、お前とうとうさんと付き合うようになったんだってな、聞いたぞ」


「やっぱりね。私は、あんた達は、いつかくっつくんじゃないかって思っていたよ」





句読点含む36字で、感想を述べよ、という国語のテストの決まり文句が頭を過ぎったが、すぐに首を振って、俺はとは付きあっとらんよ、と否定した。しかし、そう言うと決まって男子は仁王に目を逸らしてその場から去り、女子はニコニコと笑みを浮かべるだけだった。
そして、まるで義務のように、仁王の顔を見た人間はと仁王がつきあっている事を祝福した。教室に入ると拍手が起こり、黒板には大きな相合傘が書かれていて、仁王との名前がある。ぎょっとして、仁王は真っ先にのことを探す。一緒に否定すれば誤解は解ける筈だ、と見渡すがいない。



は休みだよ。嫌だ、本当ラブラブじゃん!初日から見せ付けてくれるわねー」


また36字だ、宇宙人に侵略されてシステム化されてしまったようなクラスメイトたちの様子を不気味だと思いながら、幸村を探す。しかし、こういう時に頼りになるはずの幸村も今日は検査で病院に行っている為、放課後までいないのだった。




「一体何でこんなことになったんじゃ!」







*******************








一体何でこんなことになったのよ!



「触らないでよ!」

「マジかわいーね。俺たちさー、暇だからさ。少し遊んでよ」

「私は暇じゃないわよ!これから、お兄ちゃんと会う約束を」




しているんだから、と言う言葉を最後まで発することを、杏の目の前にいる男たちは許してくれなかった。口を大きな手で塞がれ、両手を拘束される。

お兄ちゃん助けて、と杏は心の中で叫んだ。

不動峰中の創立記念日であったその日、兄と一緒に映画を見に行く約束をしていた杏は、公園で部活帰りの兄と公園で待ち合わせをしていたのだった。少し早めに着いた彼女はブランコに座り文庫本を開いていたのだが、そこに4人の男が現れ、杏を見て声をかけてきたのだ。不動峰中で見かけたことのある男たちは、3年で、杏よりも背も体格も大きかった。





ブランコから立たされ、ズルズルと公園の奥にある竹林に引きずられていく。これは、もしかしなくとも、レイプされるんではないか、と思い至った杏は足をバタつかせて必死に抵抗するが、まるで歯が立たない。



「こんな美人うちの学校にもいたんだね」

「俺ら基本学校行ってねーから、そういうの分かんねーんだよな」

「やっぱ、学校に行くって、大事だよな」

「ああ、義務教育は大事だよな」



和やかに交わされる会話を聞きながら、杏は目で逃げ道を探した。隙があればいつでも走れる用意をしなければならない。しかし、そんなことは男たちもお見通しのようで「逃げようなんて考えるなよ」ニヤニヤと笑い、どこから持ってきたのか縄で杏の手を後ろで縛った。

平日、都心にあるその小さな公園に来る人は少ない。どんなに叫んでも誰も来ないかもしれない。けれど、何もせずにいられるほど、杏は大人しくはない。思いっきり首を振って、男の手がずれた所で間髪いれずに叫んだ。



「誰か、助けて!!」



静かにしましょーね、と言って、男の一人によって薄汚れたハンカチを口に押し込まれると再び口がきけなくなったが、杏は泣きながらも体を動かして音を立てる。短いスカートから覗く足を見て男たちは、ごくりと唾を飲む。とりあえず、彼女の兄が現場にいたら、足を動かすな、と適切な注意をくれたことだろう。


「あーあ、泣いちゃったよ」

「でも、そっちの方が、そそられるね」

「あ、分かる、それ。でもそれはAVの見すぎなんだって。こないだ、姉ちゃんが言ってた」



ケタケタ笑いながら、杏の様子を見ていた男たちだが、やがて一人の男が杏のYシャツに手をかけた。嫌な汗が全身から噴出す。




誰でも良いから助けて!!!

そう、願った時だった。




「うるせー」



草むらの影から真っ白い制服を着た男が現れた。銀髪を立てた、目つきの悪い、どちらかといえば、杏の目の前にいる男たちよりも数倍柄の悪そうな人物だった。期待した分、絶望は大きい。杏は涙を零した。





「あ、亜久津さん。お久しぶりです」



しかも、彼らは知り合いらしい。最悪だ。




「てめーらは、女一人犯すのに一体どんだけかかるんだ。人の睡眠を妨害しやがって」


「ほ、本当すみません。いや、この女が暴れるもんですから」




亜久津と呼ばれた銀髪男は、ちらりと杏を見ると眉を寄せた。そこで杏は自分を逃がしてくれるのではないかと、淡い希望を抱いた。




「お前、橘の妹か」



そう言って、銀髪男は杏の口から乱暴にハンカチを取り出した。お兄ちゃんの知り合い、やった助かった、そう杏が思ったのも束の間、男は彼女のYシャツの一番上のボタンを爪で弾き飛ばした。
飛んだボタンが杏の頬に当たって、地面に転がり落ちる。



「俺も混ざるぜ。あの男が悔しがる姿、見てみてーし」



サーと、血の気が一気に引いていくのが分かった。お兄ちゃんの馬鹿!なんで、こんな奴と知り合いなのよ!と叫びたくなるが、口が自由になったのにもかかわらず、目の前の男が怖くて杏は口を開けない。足をガクガクと震わせて、怯えるしかない。涙が頬を伝って落ち、Yシャツを濡らす。



降参したような杏を見て、ニヤリと亜久津は笑うと第二ボタンを弾いた。その瞬間、公園の方から眩しい光が差し「ピッ、ピカチュウ」と機械音が響いた。



その場にいた全員が驚いて音の発信源に目を向けると、そこには等身大のピカチュウを背負ったブレザー姿の女の子がいた。新品の制服で、パリッと糊の利いたYシャツに、左右同じ高さに止められた真っ白のハイソックスを身に付けたその少女は、大人しそうで清楚なお嬢様を連想させた。セミロングの黒髪はよく手入れされている為か艶があった。





「逃げて!!」



こっちにくれば、彼らの餌食になるのは必至。そう思って杏は咄嗟に叫んだ。逃げて助けを呼んでほしい、そう願いを込めて。しかし、少女は彼女の意を無視して、落ち葉を、音を立てるように踏みつけて、ズンズンとこちらに向かって歩いてきた。そして、背負っていたぬいぐるみを、抱き変えるとそれの耳をぎゅっと握った。「ピッ、ピカチュウ」と先ほどと同じ音がし、ぬいぐるみの頬が赤く光る。



「貴方のお友達ですか?」



杏は絶望した。少女が亜久津の知り合いだったからだ。


「まあな」

「通りで、ガラも頭も悪そうです」


少女が亜久津の後ろにいる4人の男を見て、そう言うと4人の男たちはムッとしたように口を曲げた。何も言わないのは、きっと亜久津の知人であるからだろう。少女は地面に転がされている杏を見ると、しゃがみ込み顔を覗きこんだ。




「迷子の迷子の子猫ちゃん、貴方のおうちは、どこですか?」



一瞬、目をしばたたせ戸惑ったが、彼女がじっと見てくるので杏は素直に自分の住所を言った。すると、少女は満足げに頷き、「パパの選挙区ですね。次の選挙ではに清き一票を」と言って立ち上がった。手に持っていたぬいぐるみを亜久津に押し付けると、少女は指と肩をコキコキと鳴らし、4人の男を見据えた。






「さて、彼女に代わって、私があなた方のお相手しましょう」













*******************
















部内で彼女をつくったは良いものの、短期間で恋人を失った仁王は傷心を癒す為に、言い寄る女と片っ端から付き合うようになった。ぽっかりと空いた心の隙間を埋めるに持ってこいの条件を皆提示したので、仁王は空しさを覚えながらも、楽な方向に身を任せた。


「さようなら、不器用で一途だった子供の俺。こんにちは、狡猾で駆け引き上手な大人の俺」



そう、自棄になったのではない。大人になったのだ。ガラリと変わった仁王の交友関係に驚いた者は多かったが、仁王に好意がある他校の女子は喜んだ。何故なら、仁王は校内でのいざこざを起こさないよう、他校の女子生徒にしか手を出さなかったからだ。

これは、しかし、校内の女子を敵に回すことになった。仁王の豹変振りも素行の悪さも許せる。少しワイルドな方が男っぷりがよくて格好良い。しかし、自分たちには見向きもせずに他校の女子に手を出すのはいかがなものか、と立海の女子による女子の為の女子の会議が開かれることになった。勿論、そんなくだらない会議を開催する者は一人しかいない。だった。

そして、全会一致で「キャッチ&リリース大作戦」が採択された。つまり、が仁王をキャッチして離さずにいれば、他校の何処の馬の骨かも分からない女に取られる心配が必要ないということだ。そして、は最近雪解けムードがありながらも基本的には仁王に嫌われている為、彼が手を出すことはない。つまり結局はフリーの状態でいるということなのだ。いずれはが手放さざるを得ない時がやってくる。仁王が『校内』の誰かを愛した時、仁王はリリースされ、誰かのものとなる。そういう決まりを作った。つまり、は仁王を預ける一時的な保管場所、銀行のような役割を担うことになったのだ。そして、この計画には非常に多くの生徒が参加したのだった。





「ジャッカル先輩、仁王先輩の新しい彼女のこと聞きました?」



放課後になり、生徒たちが下校し始める時間、切原赤也とジャッカル桑原はテニスコートにネットを張っていた。フェンス越しには既に何人かの女子生徒が集まってワイワイ騒いでいる。馬鹿みたいにうるさいのは幸村のファン、異常に静かなのは仁王のファン、そう相場が決まっていた。前者は幸村自身が女子に紳士的で優しく、決して怒らない人物であるからファンが付け上がり、後者はによる恐怖政治が敷かれている為だと切原は思っていた。



「とうとうって感じっすよね」



テニスコートの中央でネットを引っ張りながら、いつも以上にハイテンションで切原はジャッカルに話しかける。


「ああ、仁王が可哀想だ」

「でも、教えてやらないのは、周りも結構楽しんでるからなんすよね。残念無念また来週―って」

「俺は、あんまさんの事好きじゃないから、賛同できない」

「あ、それ、丸井先輩も言ってました。1年の時に名前を馬鹿にされたからとか言ってたけど。確かに『ブン太』って正直キツイっすよね。社会人になって名刺交換するときに大変っすよ。きっと」



さんの父親、国会議員でさ、移民政策に消極的なんだよ。現状維持で良いって軽く見てるっつーか。日本はもっと受け入れを拡大すべきだと思わないか?」


「ん?いみん、って何っすか?」

「・・・赤也、お前テニスやってないで勉強しろよ」

「え」

「青学の越前と試合した時に思ったんだけどさ、お前、英語できなさすぎ」

「ええ?」

「あれじゃ、お前は名刺交換以前に、まず社会人になれないぞ」



マジっすか!と、両手を頬に当ててショックを受ける切原に対し、冷たいまなざしでジャッカルは答えた。その時、フェンスの外から「キャー」と黄色い悲鳴が聞こえ、二人は同時に振り返った。視界にコートに入ってくる幸村の姿を捕らえると、切原は「幸村部長!」と声をあげて駆け寄り「今日もよろしくお願いします」と体育会系らしく頭を下げる。



「仁王見なかった?」



普段、挨拶と労いの言葉を真っ先に言う幸村が用件だけ言うのは珍しく、ジャッカルは頭を傾げたが、切原は特に気にせず話を進める。


「幸村部長、聞いてないんすか。あの噂」

「聞いてるから、仁王を探してるんだろ」


わざわざ言わせるなよ、とでも言うように、睨まれて、切原はぎょっとして一歩後ずさった。ジャッカルも不穏な気配を嗅ぎ取って、警戒する。フェンスで騒いでいた女子たちは「幸村君、なんか不機嫌じゃない?」「少し怖いね」「明日また出直そうか」「そうしよ。駅の近くにおいしいケーキ屋さんできたから、そこ行こうよ」などと話し合って、地面に置いてあったバックを拾いぞろぞろと帰っていく。

お前らは良いよな、気楽で。会社員の夫が専業主婦の妻に言うような台詞を切原は心の中で吐き捨てた。



「次から次へと問題起こして、アイツ」


チッと舌打ちして、線が細く綺麗だと女子たちから言われている髪を、乱暴に掻き毟り、地面を蹴る幸村を見て、ジャッカルと切原は顔を真っ青にした。


「部長、えっと、仁王先輩はその悪くないんすよ」

「テニスに支障をきたしている訳でもないし、そんな怒らなくても・・・」

「仁王は関係ない」

「え、だって」

だよ。問題の種をばら撒いておきながら、アイツは何で欠席してるんだ!」



そう聞いて、驚いたジャッカルと切原は互いの顔を見合わせた。あの温厚で穏やかな幸村がテニス部員以外に対して、しかも女子に対して、こんなにも激昂し怒りを露にしたことがあっただろうか。いや、ない(反語)



「ギャンギャン吠えて騒いでいる輩がいると思えば、幸村君、まさか貴方がそんなみっともない姿を晒すとは思いもしませんでしたよ」

「柳生」

「部長ともあろう人間が、テニスコートに私情を持ち込まないで下さい」




ジャッカルは幸村のすぐ後ろにいた柳生を見て、いつの間に、と驚いたが、すぐに我に返り、切原の背中を押して「俺たち準備運動済ませてくるから」とその場から逃げるようにしてコートを出た。幸村の事はたいてい柳生に任せておけば万事上手くいくからだ。



「柳から聞きましたよ」

のこと?それなら、仁王以外の全生徒が知ってる」

「先日の『部内で起こった三角関係事件』の件です。まんまと嵌められたそうじゃないですか」

「本当最悪だよ。皆グルなんだから太刀打ち用がない。あのチューリップ三人組も裏でと組んでたし、今では、あのマネージャーすら疑わしい」

「問題は彼女だけじゃありません。貴方もです」

「どういうこと?」

「好いているのしょう?」

「何の話?」

さんのことを」

「イイカゲンなこといわないでくれる?」

「だから、容易に罠にかけられて、今もまだ苦戦している。違いますか?」



柳生はくいと中指でメガネを押し上げる。ガラスの中の瞳は誰にも見えない。幸村は諦めたように長い溜息をつくと、柳生を見て「隠すつもりは無かったんだ。ただ、相手が相手だから言いづらくて」と言い訳を始めた。


「私から一つ提案があります」

「提案?」

「貴方にとっては面白くない話かもしれませんが、ただ、確実に彼女を仁王から離すことができます。場合によっては貴方が知りたい情報も得られるかもしれません」



訝しげに柳生の顔を覗いた幸村だったが、厚いメガネによってやはり表情は読み取れない。しかし、しばらく考えた後、彼は提案を受け入れることを選択して頷いた。


ある問題に対して何もしないでいることは最も悪しきことだと、彼は思っていたからだ。

















*******************
























「あーいうの止めてくれませんか」

「だったら、お前もあーいうの止めろ」




喫茶店のテーブルに置かれた一つしかないメニューを二人で見ながら、と亜久津は各々自分の主張だけを通す。


相手が喧嘩慣れしていなかった為、中学生4人を難なく倒したは、その後、杏に酷く感謝され、しかし同時に叱られもした。逃げて欲しかった、かすり傷だけで済んだのは奇跡だ、と何度も言われた。あの状況で人の心配まで出来るとは相当のお人よしだな、と思いながら、相槌を打っていると、彼女の兄が現れ、地面に転がっている男たちを見て、何か察したらしく、亜久津に頭を下げて感謝の言葉を述べていた。

あ、ソイツ、貴方の妹を犯そうとしていた人間ですよ、とも言えず、杏の説教を聞き流しながら、は黙ってその様子を見ていた。杏は、に一通り言いたいことを言い終えると、そこで初めて兄の存在に気付いたようで、「お兄ちゃん、遅い!!」と背中を叩いた。貴方も気付くの遅いですよ、と水をさすことを、はしなかった。

杏の兄は美人でモテて仕方の無い妹が心配らしく、彼女がいかに男たちから絡まれるかを愚痴を零すように説明し、途中彼が「妹は氷帝の跡部にもナンパされたことがあるんだ。テニスの試合で勝ったら、杏とデートさせろってな」と言うと、亜久津は「しょーもねーな、アイツ」と眉を寄せ、はぬいぐるみの耳を引っ張った。

「ピッ、ピカチュウ」と間の抜けた音が空に響いた。





立ち話をした後、彼らは当初の目的であった映画館に行き、と亜久津は駅の近くにある喫茶店に入った。等身大ピカチュウの席が空いてないため、は自分の膝に置くしかなく、傍から見れば、亜久津とピカチュウがお茶をしているように見えなくも無い。




「息子が性犯罪者になったら、お母さんが泣きますよ」

「娘がレイプの被害者になったら親父が泣くぜ」



そして、ピカチュウと亜久津の間で交わされる会話は、店内で一番物騒なものだった。


「正義のヒーロー気取りで、しゃしゃり出んじゃねー」

「パパの選挙区の人は大事にしないといけませんし、仕方ありません」

「相手がいつも雑魚とは限らねーんだ」

「貴方だって、あんなことしてれば、いつか性病に苦しむことになりますよ」

「コンドームくらい持ってる」

「言っておきますけど、財布にある奴は、昨日シャーペンで穴開けましたからね」



亜久津はにそう言われると、すかさず尻ポケットにある黒い財布をバッと取り出し、すぐさま中を確認した。



「嘘ですよ。そんなビビらないで下さい」

ビビッてねーよ、と言いながらも、小さく安堵の溜息をついて、ゆっくり財布を閉じる。


「亜久津、あーいうことは、もう止めて下さい。私、嫌です」

「お前が、あーいう時は必ず逃げるって約束するなら良いぜ」

「敵前逃亡ですか?恥ですよ。恥」

「据え膳食わぬは男の恥だ」



そこまで言って、と亜久津は睨み合う。最初に目を逸らしたのはで、彼女は不満げに眉を寄せると、「分かりました。約束です」と言ってメニューを持っていた亜久津の手を掴み、その小指に自分の小指を絡めた。


「約束破ったら、針千本飲んでもらいます」

「ああ。約束だ」



ぎゅっと、白くなるまで絡められた小指を見ながら、亜久津はに気になっていたことを聞く。



「なあ、お前の親父の選挙区って、確か岩手の方だよな?」






「ピッ、ピカチュウ」と間の抜けた機械音が店内に響いた。










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「今日から教育実習生が来るらしいで」

「ああ、らしいな」

「なんや、宍戸、反応悪いやん。美人な先生がおるかも知れんのに」

「要領悪いし、教え方下手だし、イジメる奴らがいるし、何かと面倒だから嫌なんだよな」

「虐める奴がいれば、庇ってやりぃ。それが男っちゅーもんや」


朝、登校すると下駄箱で忍足に声をかけられた宍戸は、そんなくだらない話をしながら階段を上っていた。二人が自分のクラスに向かう為、別れようとして手を挙げたとき、前方のクラスから「西園寺さーん!」と野太い悲鳴が聞こえてきて二人は同時に声がしたクラスに目を向けた。







夏休みに入る一週間前になると、景吾のそう狭くも無い靴箱から色とりどりの手紙があふれ出すようになり、放課後の呼び出しも多くなる。夏休みに入ると会えないどころか見ることも叶わなくなるからだ。景吾は下駄箱を郵便受けかなんかと勘違いしているような女子を好まなかったので、その処分を樺地に任せていたし、放課後に呼び出されると、自分に指図するとは何様のつもりだと考えるような人間だったのでほとんどの女子生徒の告白を受けずに日々を過ごしていた。それでも、たまに真っ向勝負を挑んでくる人間がいる。



「跡部様、1年の時から好きでした」

「誰だ、お前」

「2組の林本です」




大勢の前で跡部にそう言える人間は、限られている。美人で成績が良く、自分に自信のある強気な女だけだ。景吾はそういう女を好ましく思った。いや、それが彼の思う理想の女だった。


「付き合ってくれませんか」




景吾の席の前で堂々とそう言った女子生徒は、自分のクラスじゃない為か多少居心地悪そうに入ってきたが、景吾の席を見つけると真っ直ぐ歩き朝のホームルームが始まる前に告白をした。男子たちの数人が泣き叫び、雄たけびをあげ、周囲は騒然とするが、女子たちは睨み付けるように景吾の前に立つ女を凝視していた。


「悪いが、俺には婚約者がいる」

「知ってます。でも同じくらい、跡部様がその方を快く思っていないことも皆が知っています」



緊迫した空気が周りを包み込み、周囲が固唾を呑んで見守る中、「つきあえば、ええやーん」「早速新しい女かよ。お盛んなことだな」「さすが、跡部の彼女、かわE」などと、テニス部員たちが廊下の窓からこちらを覗いて、各々好き勝手言い、忍足は跡部とその女子の前まで来て二人の手を取り握らせた。


「林本さん、うちの部長をよろしゅうな」

「はい。忍足さん」

「あ、俺は『様』とちゃうんや。なんやランク下がった感じやな」



満面の笑みを浮かべた彼女はとても可愛く、周囲の男子生徒たちはとろけるような視線を向け、頬を赤める。それに対して女子たちは近くにいた男子の足を踏んだり、顔をつねったりする。景吾もそれに習うように手を振り払った。



「俺は先の無い恋愛は不毛だと思っているし、祖父を幻滅させたくない」


俺は跡部財閥の跡取りで、と景吾が言い出すと、忍足は景吾の隣の席に座って頬杖をついた。こうなると、話が長いのだ。それから日本の将来を背負っていく責任と義務について事細かに説明していく景吾の様子を、女子たちは目を輝かせて聞き、男子たちは拗ねる様に口を尖らせる。途中で机の上においてある景吾の携帯が鳴ったが、熱弁している彼の耳と体には音も振動も届かない。しかし、表示が「幸村」となっていたので、忍足が代わりに携帯を開きメールを確認した。




「何よりも浮気は最低な行為だ」



お前一度したやん、と思いながら、幸村のメールを読む。



「跡部」

「アーン?」

「お優しい神の子からの吉報やで」

「何だよ。練習試合の申し込みか?」

「お前の婚約者、立海の柳生と付き合うてるらしいで」



そう言われると、ピタリと動きを止めた景吾は顔を強張らせて、忍足を見、素早く携帯を取り上げ、メールを確認する。水を打ったような静けさが教室に広がる。誰もが動かず、声を発さず周囲は無音となる。景吾は携帯を持つ手を震わし、「ぁ・・・んの」あまりの怒りに口も震える。


その時、ガラッと教室のドアが開けられ、新品のパンプスを履いた黒スーツ女が入ってきた。緊張した面持ちで沢山の資料を抱え、右足と右手を同時に出して歩く女は、教壇につくと、小さく息を吐いて周りを見回した。



「今日から2週間、教育実習生としてこのクラスにつきます。短い間だけど、よろしくお願いします」


女が頭を下げると同時に、景吾は自分の携帯を逆にパカっと折り、床に落として何度も踏みつけながら大声で叫んだ。





「馬鹿女!!人間のクズ!いっぺん死ね!」









教育実習生を登校拒否にしたこの事件は、後に 「マリーちゃん伝説」の一つとして生徒たちの間に語り継がれることになる。


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