脱線

単純明快

帰宅すると、いつもと少し様子が違った。いつもなら、玄関で個性を排除したような同じ服装を着た使用人たちがをぐるりと囲み全員で出迎えてくれるのだが、その日は、いつもの半分以下の人数しかいなかった。

が怪訝に思って一番長く家に勤めている執事に何があったか問いかけると、「景吾様がお嬢様のお部屋で待っておられるので、お茶の準備をさせて頂いております」と丁寧に言葉を返してきた。

それから、言いにくそうに「景吾様は、少しばかり虫の居所が悪そうでございました」と、続けた。誰か力のある者を一応部屋の前で控えさせましょうか」は心遣いだけで十分だと執事に言い自室に向かった。

しかし、扉を開けて、回転式の椅子をくるりと回してと目を合わせた景吾の鬼のような形相を見ると、誰か近くにいてもらった方が良かったかな、と後悔した。


「俺が何で、今日、ここに来たか。分かるか?」

「想像もつきません」

「実はな、今朝、お前が男と付き合ってるってメールが来たんだ」「私が女と付き合う筈ないでしょう?」

「御託を並べるのは止せ。ネタは上がってるんだ。この尻軽女」

「一年中、女のケツ追っかけまわしてる貴方に言われたくありませんね。このナンパ野郎」

「あーん?俺が何時どこで何時何分地球が何回まわった日にナンパしたんだよ?」

「ああ、とぼけるんですね。そうですか。でもね、景吾さん裏は取れてるんですよ。目撃者もいます」

「一体何のことだ?さては、お前、話を逸らそうとしてるな」

「それは、貴方です」

「良く聞け、問題はな、単純明快で一つだけなんだよ。お前が立海テニス部の男と付き合ってることだ。俺という婚約者がいるのにも関わらずに、だ!俺の顔に泥を塗った!」

「お肌に良いかもしれない。最近流行りの泥パック」

そういうと、同時に景吾は椅子から立ち上がって、のもとまで歩き出した。

「俺様のどこがあの男より劣ってる?」

「貴方は道端に転がっている石とダイヤを比較しますか?優劣を付けるのも馬鹿らしい」

「それは俺が石ころで、アイツがダイヤモンドだって言いたいのか?アーン?こっちが下手に出てれば、調子に乗りやがって」「それを本気で言っているなら『下手に出る』って言葉の意味を一度辞書で調べ直すことをお勧めしますね」

「黙れ!お前は俺の女なんだぞ!」

「それは誤解です」

「んだと?もう一辺言ってみろ」


がもう一度同じことを繰り返そうと口を開くと同時に景吾の平手が彼女の頬を叩いた。パシンと小気味良い音が部屋に響く。少し熱を帯びた頬をは右手で触れる。小さい痺れを感じる。景吾は、自分の行動に驚いたように、自身の手のひらとの顔を交互に見てすぐに「悪い」と口にしたが、は「『こっちが下手に出てれば調子に乗りやがって』」と、景吾がさっき発した言葉を復唱し、彼の腹部に蹴りを入れた。反射的に急所を避けた景吾だったが、うっと呻き声を上げ、腹部に手を当てキッとを睨みつけた。「俺は謝っただろ。謝れよ」は目を細めて先ほどの景吾の言葉をもう一度復唱した。「悪い」それで、景吾が許すはずも無く。


それから二人は髪の引っ張り合い、服の引っつかみ合いで、久しぶりにボロボロになるまで喧嘩した。途中で、景吾が近くにあった雑誌をに投げつけると、はステンドランプを投げつけ、景吾は頬を薄く切った。カーと頭に血が登り、を突き飛ばして床に叩きつけ、その上に馬乗りになり平手で顔をパシンと叩いた。


鼻元に温かみを感じ、鼻血が出たと悟ると、はギロリと景吾の顔を睨み付けた。対格差の所為で、起き上がることすらできないことが苛立ちを覚えさせる。伸ばした手も景吾の髪には届かない。は舌打ちをしたいのを抑えて、「景吾さん、所詮噂じゃないですか。本気に受け止めないで下さいよ」と景吾を油断させるように力なく言ってみせる。

「私を信じてください」ごめんなさい、反省してます、とでも言うように声を小さくする。

「火が無い所からは煙が出ねーんだよ。何て言われて付き合い始めたんだ?優しくされたのか?あーん?」

「そうですね。少なくとも彼はこんなことしません」

「はっ、勘違いするな。アイツは誰にでも紳士なんだよ」

「ええ、貴方と違って」

「どっか、おかしいとは思ってたんだ。お前があんな面倒な委員会に居座り続けるなんて」

「委員会は関係ないじゃないですか」

「関係ないわけ無いだろ。そこでお前らは愛を育んだわけなんだから」

「一体どうやって?」

「共通の話題とかあるだろ」

「委員会で?彼は無所属なのに?」


景吾とはお互いの顔を見合わせて同じ方向に首を傾げた。
お前は一体誰の話をしているんだ、という表情で眉を寄せる。

口を先に開いたのは景吾だった。

「お前は柳生と付き合ってんだろ?」

「柳生?」初めて発音するかのように言うと、景吾は眉を顰めた。

「柳生比呂士のことだ」

「柳生比呂士?あの眼鏡の同級生に敬語で話しかける気取った男のことですか?『紳士』とか呼ばれて、ダブルスのペアだからという理由で雅治さ・・・仁王さんにベタベタまとわりつき、その上、身分不相応にも仁王さんの容姿に成り代わる重罪を現在進行形で犯している男のことですか?」


勢い良く早口で話すの言葉をなかなか聞き取れず、

「えっと、そうだな。確か、柳生は仁王と組んでたな」呆気に取られながらも言葉を返す。


「仁王さんをいつまでもダブルスにしておく気はさらさらありませんよ」

「お前にそんな権限ねーだろ。そもそも柳生はそんなに悪い奴じゃないし、お前が言うよりもきっと格好良い」

「何言ってるんですか。貴方の方が断然素敵じゃないですか」

「まあ、それは否定しないが」

「ええ、そうです。貴方の方が格好良い。」

「ああ、当然だよな」

「比べるまでもありませんよ。道端に転がっている石とダイヤみたいに」

「それ、良い例えだな」

「でしょう?」

「・・・なんだ、勘違いか」

「ええ、勘違いです」

「そうか」


景吾は馬乗りになっていたからゆっくり立ち上がり、悪かったな、と言ってを立たせる為,手を差し出した。はそれをぎゅっと掴むとそのまま体重をかけて立ち上がり、バランスを崩して転びそうになっている景吾の頭部に、両手を握った拳を思いっきり振り下ろした。ガッという音が響いて、景吾が倒れると、はポケットからハンカチを取り出して、丁寧に鼻血を拭い、先程痛めた腰を軽くさする。

胸ポケットにしまってあった携帯を取り出し、校内で一体どうなっているのか真相を聞き出すために新聞部の部長に電話をかけるが、繋がらない。小さく溜息をつくと、は真実に一番近そうな人間のアドレスを引っ張り、通話ボタンを押した。すると、がかけた電話の相手は5回目の呼び出し音で電話に出た。

『・・・はい』

「ごきげんよう、幸村さん」

『・・・その声は』

です」

『・・・君に携帯の番号を教えた覚えはないんだけど』

「世の中、お金で買えないものは無いんですよ」

『じゃあ、君には是非「社会規範」を買ってもらいたい』

「検討しておきましょう」

『政治家の「検討する」って言葉は一般人の「知るか、そんなこと」っていう意味なんだよね。こないだ雑誌にそう書いてあった』

「貴方、プレイボーイに書いてあることを真に受けてはいけませんよ。パパが、美人秘書との不倫疑惑と熱愛報道、それから献金問題で、どんな大変な目にあったことか。中途半端なジャーナリズムは国家を潰す諸悪の根源です。根拠も無いまま嘘ばっか書き上げるんですから」

『わざとだと思うけど、一応俺の名誉の為に言っておくよ。俺が読んだ雑誌はプレイボーイじゃない』

「パパはメイドと浮気していたし、献金はもっと額が多かったんです。それをイイカゲンな調査をして、我が家を混乱の渦に陥れたのです。マスメディアなんて消えてしまえばいいのに」

『それは同感だ。新聞部や写真部も消えれば良いし、ついでにYouTubeも無くなれば良い。俺も大変な目にあったから、よく分かるよ』

「そう、被害者だからこそ、その恐ろしさに気付くことができるのです。良かったですね。貴方は私に感謝すべきです」

『感謝しているよ。被害者だからこそ、加害者のやり口を学べたからね』

「やはり、貴方何かしましたね。こんなことをしてるより、テニスに時間を費やした方がよろしいんじゃないんですか? 不幸な事故で入院しなければいけなくなる前に」

『君の婚約者を誘き出そうと思ったんだ』

「何の為に?」

『宣戦布告のために』

「なるほど、私から大切なものを奪おうというのですね。なんて悪い奴なのでしょう

『棒読みで心が全く篭ってないのは気のせい?』

「人の心は見えないものですよ」

『確かに、君の考えと行動はあまり読めない。それで、君の婚約者は現れそうかい?』

床で伸びている景吾をチラリと見てから、は幸村に返事をした。




「病院で会えるかもしれませんね」



***************




「嫌ですね。先週、約束したじゃありませんか」もう、お忘れになったんですか、と、言って柳生は映画のチケットを机の上に置いた。目の前には今にも自分を射殺さんばかりに睨みつけているの姿があった。昼休みに入ったばかりの教室にはまだたくさんの生徒たちがおり、視線が自分たちに突き刺さっていた。


「私と貴方が二人きりで映画を?一体何の為に?」

「愛と平和の為に」

柳生が肩をすくめて言うと、は怒りを抑えるように拳を握り締め、目を伏せえて息を整えた。


柳生は中立の立場を守ることは可能だと思っていた。
戦略を立て冷静に対応していけば、激昂している相手に負ける筈がないと確信していた。彼はの行動パターンを柳のデータによって予め知っていたし、幸村と彼女の戦いを客観的に観察していたこともあり、誰の手を借りずとも彼女の出すぎた行動を止めるようなお灸を据えることができると思っていた。


「柳生さん、移動しましょう」

言葉遣いこそ丁寧だったが、自分の背後にある教室のドアに親指を向けて、顎を上げる彼女のしぐさは、チンピラ同然であった。

「そうですね。丁度これから、風紀委員の集まりもありますし、ご一緒しましょう」

眼鏡を人差し指でくいと持ち上げてから、柳生は頷いた。温かい日差しが射す長い廊下をゆっくりと進む二人だが、彼らの間には凍えるような冷たい風が吹き荒れていた。

「今朝、学校に来たら、事実無根の噂が流れていて驚きましたよ」

「貴方の計画では恋人は私ではなく仁王君でした」

横に並んで歩いてるのに横目で睨みあう二人の視線は交わる。

「学校中の生徒がグルだから、計画は完璧だった筈。それに皆も同意していたから、まさか、学校をサボっている間に事態が急変しているとは予想もつかなかった」

柳生は一息おいてから、ですよね、との頬にある今朝がた付けられた傷に人差し指でさっと触れる。

は傷に触れられた為か、柳生の放った言葉が癪に障った為か、眉を潜め、口を苦痛に歪めた。

「貴方に好意を抱いていた方々から頂戴した傷です」

「少し痛そうですね」

「だいぶ痛いです」

「かすり傷じゃありませんか」

貴方がうちの部員に付けた傷に比べれば、と冷めた目で言う。柳生は彼女が憎いわけではなかったが、快くも思っていなかった。彼女が仁王に対して邪な考えを抱いていようと(恋心とは評さない)、幸村と敵対していようと、初めは中立を保っていたのだ。しかし、幸村が彼女との戦いに敗れ、仁王との仲が悪化し、テニス部のマネージャーが学校を去ると部内でも混乱が起きた。ついで、追い討ちをかけるように彼女が仁王の恋人になったという噂が流れ、仁王も幸村も精神的に参ってしまった。ここで、何もせずにいるほど、柳生はバカではない。テニス部は自分の領域である。領土を侵略してきた不貞の輩には、相応の罰を与えなければいけないし、少なくともその神聖な領域からは追い出さなければいけない。

「柳生さん、貴方には幻滅しました。貴方はもっと賢い人間だと思っていたのですが、・・・非常に残念です」

そう言って口端を小さく持ち上げるの目は笑っていない。

柳生は彼女の戦意喪失を図ろうと画策した。彼女は裏で作戦を練ったり人を動かすのは得意だが、表立って何かをすることはない。つまり、真っ向勝負は苦手なのだ。

「幸村さんの二の舞になるのは目に見えています」

「彼が貴方に負けたのは、能力や知識のせいではありません」

「へえ?」

眼鏡の中にある目を覗くように、真意を探るようにこちらをみてくる彼女を真っ向から見る。

「敗因はもっと別のものです。賢さであれば、彼は貴方に引けを取らないどころか、遥か上をいく」

「そういうの負け犬の遠吠えって言うんですよ。負けは負け。敗北者に言い訳の余地はありません」

彼女は卑怯で狡猾で、フェア精神からはかけ離れている。だから、彼女は表舞台に立つときっと萎縮する、そう柳生は考えた。

「幸村さんが、貴方に泣いてすがり付いてきたんですか?」

「私は中立ですから、誰の味方と言うわけではありません」

「中立?では、何故私に対立するんです?」

「貴女はテニス部に手をかけた。迷惑です」

「人間とは迷惑をかける生き物なんです。環境を破壊したり、生態系を崩したり、ドードーを絶滅させたり、色々迷惑な奴なんです。そして、柳生さん、貴方も同様に、迷惑で困った人なんです」

「何のことです」

「私と雅治様の仲を壊した」

そう言って、彼女は銃の形を作るように親指と人差し指を立てて柳生の胸につきつける。

「死刑に値します」

ばきゅーん、と効果音を発する。言葉巧みに人を操り、自分は姿を隠して安全な場所で傍観を決め込むそういう統率者は市民の前に晒されると、急に背を丸め、おどおどした様子で辺りを見回し、肩を震わせる。それでも、偉そうに振舞おうとする。怖いくせに威張るのだ。プライドを棄てきれないから、謝ることも泣くこともできず、処刑される寸前まで強張った表情を崩さない。

「これだけは覚えておいて下さい。最後に笑うのは私だということ。最後に泣き目を見るのは私に楯突いた人間であると言うこと。そして、今回、敗北するのは、私じゃない。柳生さん、貴方です」






風紀委員の会議がある教室には、既に数人が集まっていた。その中に、委員長の真田の姿があった。真田は、と柳生が来たことに気付くと立ち上がり、すぐに二人がいる廊下に出た。そして、の目の前に立つと、に向けて拳を振りかざした。しかし、真田の行動を予測できたは瞬時に足を引いて尻餅をつき、その鉄拳は隣にいた柳生に送られた。避ける間もなく、柳生は地面に伏した。
眼鏡が宙を舞い、壁に当たって高い響きを伴なって割れた。それを合図にするかのように周囲がしんと静けかえった。


!!風紀副委員ともあろうお前が、何故このような騒ぎを起こした!」



憤慨のため怒鳴り散らす真田に対して、柳生は唖然とした。とりあえず、自分に謝るべきではないのだろうか、無様な姿で地面に寝転びながら、そう思った。
もまずは空振りを恥ずかしむべきたと思った。


「赤也から聞いたぞ!この間の幸村と仁王の醜聞の元凶もお前にあるということを!」


「どこに、そんな証拠があるんですか?」

は柳生に手を貸し起き上がらせると、壊れた眼鏡を拾い上げ本人に渡す。フレームしかない眼鏡を持たされた柳生はため息をつく。

「証拠など、無い!」

少しの沈黙の後、真田は力強くそう言う。は話にならないとでも言うように、地面に散らばった割れた眼鏡のガラス部分をハンカチで丁寧に拾っていく。


「だが、お前が好き奴は分かる!そして、そいつの為にやってきた努力も俺は知ってる!」

は、ガラス拾いをやめて真田を見上げる。180cmの身長はやけに大きく感じた。

「もうお前も3年だ。いい加減、決着を付けろ!何も進まないぞ!」

「決着?」

「好きなら、好きと告白しろ!」

ただ、それだけの事だ!
そう真田は言った。

はまぶしい物を見るような目で真田を見た。ガラスを触った手から、血が流れた。
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