脱線







「お前は俺と結婚するんだぞ」


景吾が大きな声を出すと水槽の中にいた熱帯魚が四方八方へ散らばっていった。

体育祭が終わって4連休の初日のその日、都内にある水族館には家族連れと若いカップルたちで溢れかえっており、やや大きめだった景吾の声も雑音と一緒にかきけされた。



仁王にフラれた後、担任が保健室に来てを上機嫌で連れ出していった。赤組のMVPとして表彰台に上り、代表挨拶をしたはその後も人に囲まれていて他校の景吾が声をかける術はなく、週末恒例のデートでやっと顔を合わせすことがてきて冒頭の言葉が飛び出た。


「そうですね」

は頷いてみせながら、手に持っているパンフレットに目を走らせ、勝手に歩を進める。

「仮に、もし、万が一、奇跡的に、両想いになってたら、どうするつもりだったんだ」

「愛人として傍に置くのはどうでしょうか」



景吾の失礼な言い方に引っ掛かりを覚えながらも、は大真面目に答える。



「本気で言っているのか」

「貴方こそ、本気ですか?義務感だけで結婚して上手くやっていけるとでも?世の中、バランスが大事なんです。雅治様は理想的な人、必要な方でした」


前々から常識のないやつだと思っていたが、ここまでかと景吾は頭痛を感じて額に手をあてる。


「俺がいながら、他の奴と付き合うこと、俺に申し訳ないと思わないのか?」


「私の両親にだって互いに別のパートナーがいましたよ」

「だから、離婚したんだろ」

「あ、見てください。ペンギンが飛んでいますよ」



大きなドーム状の水槽の下を歩くと、頭上には空を羽ばたくように泳ぐペンギンの姿があった。背後には都内の高層ビルが見られ、はおおっと声をあげて感心する。景吾は大きくため息をつき、の肩に両手を置いて諭すように言う。


「俺の両親を見てみろ。あれが普通だ。模範的な夫婦だ。わかるな」


は景吾の両親を思い浮かべる。景吾の家に訪れた時、母親はいつも穏やかな笑みを浮かべ甘いお菓子を提供してくれる。父親は不遜なの態度に臆することなく、たまに窘めることはあるが基本的には優しい眼差しを向けてくる。

確かに彼らは喧嘩をしたという話はまるで聞いたことのないおしどり夫婦だった。



「景吾さんが知らないだけで、他にパートナーがいるかも知れませんよ」



「お前の父親と一緒にするな。とにかく、俺とお前が不仲だと祖父が心配する。御託並べてないで俺に従え」


景吾が威張るように言うと、お年寄りを思いやるのは良い事ですねと、は乾いた声で笑った。


「知っているか?ケープペンギンの特徴は、夫婦の絆がとても強いことだ。一生連れ添うといわれている。フラフラするな。腹をくくってくれ。」


真上で仲睦まじく体を寄せ合って泳いでいる2匹のペンギンを指さすと、マネするようにも人差し指を立てた。


「景吾さん、知ってます?マゼランペンギンは自由な恋愛を楽しむらしく、三角関係も略奪も同性愛も何でもありなんですって」

「…よし、一先ずペンギンからは離れよう」

「良いですね。これからアシカショーが始まるみたいですよ」


屋外に出る出口を探すの後ろ姿を見ながら、どうやったら納得させられるか考えるが答えは出ない。言葉は通じても話が通じないのだ。常識が、考え方が、価値観が違うから分かり合えない。説き伏せられない。


「恋をすると世界が変わる。景吾さんも、いずれ分かりますよ」


人気のない通路だからか、薄暗い館内にの小さい声が大きく響く。それは仁王が昨日言っていた言葉だった。ムッとして、良い方には変わらなかったみてーだけどなと、軽口を叩く。

黙り込んだを不思議に思って振り向くと、物憂げな表情をして、ライトアップされた水槽を見ているがいた。青い光がちらちらと彼女に反射する。

景吾はの品のある佇まい、凛とした、彼女の周囲を包む独特な雰囲気を気に入っていた。他の者と違うその特異さに気づいたのは中学に入学したばかりのころだった。

いつもの社交界で、同年代の男女の間に思春期ならではの気まずさや溝ができていて、その場がピリピリとしていた。その空気に耐えられず、1人の女子が男子の悪口を言い始め、次々に他の女子が同調し始め盛り上がってしまった。男子がそれに敵対心を燃やし、売られた喧嘩を買うべく口を開こうとした時、がパンパンと手を叩いて、それを止めた。

周囲の視線を一身に受けながら、はなんのことはない、婚約者である俺にプレゼントされたドレスと装飾品、最近手に入れたブランドバッグについて自慢し始めた。それから、俺が模試で満点を取ったこと、兄が当選したことなど、延々と脈絡のないことを話し始めた。

内容は完全にあれだ。今時のマウント女子が話そうな内容だった。

不愉快に思った奴らの何人かが男女問わず、の陰口を叩き始めた所で、はその日のダンス相手を募集した。さも、自分と踊れることが光栄であるかのように。がしかし、挙手する男子はおらず、強制的に手を取ろうとがわざとらしく周りを見渡すと、男子たちは慌てて近くの女子の手を取った。

女子たちは恥ずかしそうにしながらも、選ばれた事にまんざらではなさそうだった。

こうして、それまでの張り詰めた空気を一瞬にして和やかなものに変えてった。

昔から、奇妙な存在感があり空気をつくるのが上手かった。


無意識で人を惹きつける、俺のような努力や観察力で作った紛い物ではなく、生まれ持った才能に近いものだった。





「私、学校には行きませんからね」


から突然放たれた言葉に、昔の記憶に思いを馳せていた景吾は、現実に意識を戻された。


「あーん?氷帝にこれないっていうのか」


大嫌いなの父親に頭を下げてまでして、転校させたのだ。白紙に戻されては叶わない。嫌な汗をかく。


「今月いっぱいは立海の生徒です。ですが、今朝、いつも通り起きてジョギングをしようと思ったけど、体が怠くてできませんでした」

「ただの筋肉痛だろ」

「連休という理由で出された膨大な量の宿題にも手がつかず」

「いつものことだろ」


「あのですね、雅治様は隣の席なんですよ。気まずいんですよ!」

「元はと言えば、お前が仕組んだんだろーが!」

「知ってますよ!」



段々声が大きくなってきた二人に近くにいた警備員が声をかけてきた。いつの間にか、周りには遠足で来ている子供たちが集まってきており、足早と館内から出る。開放的な屋外エリアには大きな水槽がいつくか置かれていたが、そのほとんどを素通りしてアシカがいる水槽まで真っすぐ進んだ。ショーイベントの最中で、水槽の近くには人だかりができており、少し離れたベンチに座る。

飼育員から与えられた餌を必死に頬張っているアシカを見ては小さくため息をつく。


「バイトしてみようかな。学校ばかりに目を向けるからいけないんですよね。こう視野が狭くなってしまうんです。もっと世の中を、社会全体を意識しなければなりません。」

「中学生は働けないぞ。勉強しろ」

「厳密には新聞配達や役者としてなら働けますよ。もっと勉強して下さい」


しばし睨み合っていると、景吾の時計のアラームが鳴る。午後から生徒会の用事で学校へ行かなければならないことを思い出し、話しを終わらせる為まくしたてる。


「あと2週間程度だし、立海に行かないのは認めてやる。バイトはダメだがボランティアなら良い」


ベンチから立ち上がり、スマホでメールを打ちながら、歩き始める。


「今、車を手配した。真っすぐ帰って、できれば何もするな。目を瞑り、耳を塞ぎ、口を閉ざしていろ。お前が世界を知らなくとも、何の問題もない」


スマホの画面を見ていた為、目の前に人がいることに気付かずぶつかる。簡単に謝ってをの方を振りむくと、そこにはもう誰もいなかった。




歩きスマホは、やめよう

そう思った。






******







ゲームのバッドエンドを迎えた時ってこんな感じなのだろうか。


景吾が出した転学届には父親の判子もしっかり押されていて正式に受理されていた。自分の婚約者の根回しと行動力にはた驚かされる。

の転校の噂が広がると多くの生徒がの傍に集まり声をかけてきた。純粋に悲しんでくれるのが4割、今までの借りを清算しろと訴えてきたのが5割、その他が1割ぐらいだろうか。

骨の髄まで搾り取ろうとする借金取りのような奴らもいて、最終日までに色々揉めて、ほとほと疲れていた。たまに思いやりのある女子たちが慰めてくれたが、途中から各々が自分の彼氏の愚痴を言い始め、理想の彼氏象を延々と語り、話し終わるとスッキリした顔をして自分の席に戻っていった。また、日ごろ男子と接することを避けているような女子たちは、のもとに訪れると、社会学者のようなジェンダー論を唱え、失恋が不幸ではないことを説いてくれた。

彼女たちに別れを惜しむ気配は一切感じられなかったが、とりあえず、立海での生活はとても充実していたし、友人もたくさんできて楽しかったなー、と思う事とした。





そして、この日は立海に通う最後の日だった。



段ボールに教材や図工の作品などを詰め終え窓の外の夕焼けを見る。放課後から一時間経った教室は静かだった。転校最終日ということで、朝からつい先ほどまでに多くの友人がの席に来て、別れの挨拶を告げてきていた。永遠の別れというわけでもないのに、委員会や複数のグループからは仰々しい寄せ書きまでもらい、想像以上に寂しく名残惜しい気持ちになる。


慣れ親しんだ教室を一周見渡してから、隣の席に目を止める。いつの間にか仁王の席に座っていた幸村を捉え、ため息をつく。



さんでも最終日にはそんな顔になるんだね」

「傷心の私に塩を塗りに来たのですか?」

「体育祭の翌週、普通に登校してきて、何食わぬ顔で仁王と話していた奴が何言ってるの。君の鋼のメンタルには驚いたよ」

「雅治様に負担をかけないよう振る舞った行動をそのように言われるのは心外ですね。私だって、あの直後は辛かったんですよ。週末は全身が悲鳴をあげて動けませんでしたし」

「ああ、筋肉痛ね」

「連休という理由で出された膨大な量の宿題にも手がつかず」

「それ、だけまだ提出していないって、先生が怒ってたよ」

「週明け、いざ、登校したら自分をフッた相手が隣の席にいるではないですか」

「はいはい、因果応報、自業自得、身から出たさび。色々学べてよかったね」

「さっきから、なんなんですか。こっちは幸村さんと交わす別れの挨拶なんて持ち合わせてないですよ」

「俺も別れの挨拶をしにきたお覚えはないよ。ただ、真田の代わりに荷物運びを手伝いに来ただけだ。俺は傷が開くとまずいから荷物持ちは赤也だけど」


景吾とも似たような会話を交わしたことを思い出しながら、は再び苛立ちを感じ、次第に声も大きくなっていった。幸村は落ち着かせるように両手を上げてみせ、軽く笑うと机にあったガムテープを取り段ボールに封をし、後ろにいた切原に持つようトンと段ボールをたたく。なんで俺が、とブツブツ言いながら持ち上げると、がその上に体操着袋と鞄を置き更に重さが増す。
手ぶらになったは、ぶっきらぼうに窓の外にある正門を指さす。



「正門に車を止めてあるので、そこまでお願いします」

「そんなんだから、フラれんだよ」



切原が小さく呟くと、はその背中にすかさず蹴りを入れ、小さい呻き声が教室に響いた。



「風紀委員がこんなんで良いのかよ」

「私、もう風紀委員じゃないので」



最初、転校準備で忙しいだろうと手伝いを買って出たのは同じ風紀委員の真田だったが、副委員のが抜けると引継ぎなどで忙しくなって大変だろうと、その役を幸村は強引に引き受けた。

次の副委員は真田が推薦した2年生の大人しくて従順な女子生徒だった。
跡部は仁王の好みを真田から知ったと聞いたらしいし、もしかしたら、真田の思いやりと思っていた行動や提案も、全ては言う事を聞かない副委員を交代させたいがための行動だったと勘繰ってしまう。

ふたを開けてみれば、一番得をしたのは他でもなく彼だった。


「忘れ物した時の為に、連絡先教えてくれる?」


仁王と離して金輪際会わせないという目的は達したが、転校してしまうと接点がなくなるので、次の布石を打っておかなければならない。


「基本捨ててもらって構いません。個人情報系なら、先日電話した時の着信履歴から番号ひろってかけてきて下さい」


取り付く島もないとはこういうことを言うのか。警戒されすぎて普通の会話すらままならない。謝罪したとしても到底受け入れてはくれそうにない。不機嫌なにどう声をかけようか、考えている間に既に下駄箱の前に来ていた。

袋に上履きを入れているに、本当に転校してしまうんだなと改めて思い、少し後悔の念が押し寄せる。

ガラス張りのドアから赤い夕陽が差し込み、影が長く伸びる。

上履き袋を切原の持っている段ボールの上に重ねるように置くと、は困り顔の幸村をじっと見て、それから表情を崩しブッと吹いて笑った。


「私、怒ってませんよ。雅治様との結果は残念ですが、私の負けです。未練なんて残さず、潔く敗退しますよ」


笑う要素がどこか分からず、戸惑う幸村だったが、転校後もよろしければ仲良くしてくださいと、スマホをが差し出すと、飛び上がって喜びSNSのID交換に応えた。


その様子を詰まらなそうに見ていた切原は、部長が邪魔しなくても結果は変わらなかったと思いますけどねーと、横からちゃちゃを入れる。

靴に履き替えた所で、校内放送で幸村に対する呼び出しがあり、幸村は名残惜しそうに去っていった。その場に残され2人は互いを睨みあう。



「切原さん、明日から氷帝に通わなくてはならないので、転校準備で忙しいんですけど、今日じゃないとダメですか?」

「障害物競争の時の仕込み、あれメチャクチャ頑張ったんすよ。もう風紀じゃないんすから、結局遅刻も見逃してもらえないし、借りは今日返してください」

「もう16時ですよ。こんな時間からどんなボランティアがあるっていうんですか・・・」

「詳しくは従姉に聞いてください」



その日、は切原には彼の従姉のボランティア活動のサポートをお願いされていた。2人一組で行うものらしく、友達のいない従姉が困っていたのでちょうど同い年のが声をかけられたのだった。頼れば、快くとはいかないものの引き受けてくれるだろうと踏んでいたのだろう。



校舎を出て、校門にポツンと立っている女子を見つける。ルドルフの制服で長い黒髪を携えたちょっと美人なその女子は通り過ぎる人々の注目の的だった。切原はその女子に声をかけると、を簡単に紹介し、脇に止まっていた車の中に荷物を置いた。



「俺はこれから部活なんで、後はよろしくお願いしますね」



走っていく切原の後ろ姿を見ながら、腰に手を当てて軽くため息をつくが、その女子が不安そうにこちらを伺ってきたので慌てて取り繕うように笑顔を向けた。


鞄以外の荷物は運転手に運ぶように任せ、その女子、切原の従姉と駅まで向かう。特急で4つほど先の駅で降りると目的地まで彼女に連れられるがまま付いていった。

詳しい活動内容を聞いても、彼女自身知らないらしく、不安が募り、動機を聞いてみた所、恋人からの紹介ということを知る。話し始めると止まらないようで、道中、ずっとその恋人の話をしていた。


「彼ね、私の初めての人なの」


適当に相槌を打っていただが、唐突な告白に咳込む。


「好きだったし、痛みすら愛おしくて、した後はもっと好きになったの。もう彼のことしか考えられなくなった。彼は他に好きな人がいるみたいだけど、私サードでも良いの」

セカンドでもないのか、と思いつつ衝撃的な内容に頭が上手く回らず、はあ、と曖昧な返事する。


さんは、恋人は?したことある?」

「いないです。えっと、したこともないです」

初対面で交わす会話じゃないと思いながら、がしどろもどろになりながら答えると、切原の従姉は複雑な表情を浮かべた。




商店街アーケードをくぐって、奥に向かうと歓楽街で有名な場所に着く。明らかに怪しいと思って足を止めるが、この辺なんだけどな、と携帯で位置情報を確認していた切原の従姉は近くに立っていたキャッチらしき男に声をかけて道を聞き、そのまま男についていこうとするので、さすがに危険だと思い腕を掴んだ。


振り返った彼女は口をギュッと結んで、の腕を強く掴み返した。


「彼のためなの。協力して」


腹を括ったような口調と意志の強い眼差しに、は背筋が凍るのを感じた。


「着いたぞ」


男の方に目を向けると背後には「JKリフレ」と書かれた看板があった。








威勢の良い啖呵を切った切原の従姉だったが、リフレを掲げた店舗に入ると真っ青な顔をして無言になった。同年代か少し歳上の女子が何人か待合室におり、たちが席に着く間に品定めをするように視線を向けてきた。机にはコテやプチプラコスメ、開いたスナック菓子の袋、飲みかけのペットボトルなどが転がっている。

整理整頓されているとは言えない、薄汚いその部屋で待っていると、セーラー服に着替えるよう指示され、店のサービスについて男から説明を受けた。

ノルマは2人合わせて6万。コースによって値段が違うが、金額が高ければ高いほどサービスが過激でこちらの代償が大きいようだった。

説明をする男よりもガラの悪い、両腕に派手な刺青をいれたヤクザのような人間がが出口に待機していて、逃げることは難しそうだ。

財布の中に2万くらいは入っていたが、立海の学生証や制服も含め所持品は全て回収された。たぶん戻っては来ないだろう。没収される前にトイレに行って亜久津にメールを一本打ったが、果たして来るかどうか、想定外の事態に不安が募る。


「百年の恋も冷めましたか?」


説明を聞き終わってから泣き出した従姉に嫌味のつもりで尋ねたがが、彼女は首を振った。

彼女の様子から、恋人には友達を連れていくよう言われただけで、それがどういう所かまでは知らなかったのだろう。ただ、やましいところであるというのは、想像はできていた。だから、赤の他人の他校の私を引っ張ってきたのだ。



「こういった斡旋は犯罪です。犯罪者が恋人とはスリリングですが、あまりお勧めできませんね」


「さっき教えたけど彼は私の初めての人なの。付き合ったのも、キスも、その先も全部が。全部よ!」

「で、ここで初めて以外は他の男に捧げますか?従弟が泣きますよ」

「男を知らない貴方には分からない。だから簡単に別れろって言う」



ボロボロと大粒の涙が彼女の頬を伝って落ちる。泣き崩れる彼女を冷めた目で見る。

恋をすれば世界が変わる。

その人で心が満たされる。

触れて関われば、長く時間を過ごせば過ごすほど、後には戻れなくなる。もがけばもがく分だけそこから抜け出せなくなる。

特に一方通行の恋は、底無し沼のようだ。






窓の外を見る。2階に位置するその店からは並んでいる客の顔がよく見えた。平日の夕方にも関わらず既に列ができており、その人気が伺える。20代から50代までの幅広い年齢から需要があるようだ。

開店を待ちわびている男たちは花束、有名なブランドのロゴが入った紙袋や銀行名が記載された封筒をそれぞれ手に持っている。ほとんどが常連なのだろう。その中に、高そうなスーツを着た外国人がおり、酔っ払っているのか顔を真っ赤にして、ワーオ!ジャパニーズハイスクールガールズと叫んで、周囲の目を引いていた。

その隣には、慌てた様子で列から離れようと説得しているサラリーマンがいた。接待中なのだろうか、その2人だけが場違いだった。

最初そのサラリーマンの男は後ろ姿で顔が見えなかったが、振り向くとよく知る人物で、は指を鳴らして口端をあげた。


そして、切原の従姉の肩にそっと手を置いて耳元に優しくささやく。



「…その男と手を切るなら、私が2人分のノルマをこなしましょう」


俯いて泣きながらも彼女は再度首を横にふったので、は彼女の頭を掴んで強制的に首を縦に動かし頷かせた。











*******














「なんで来ないんですか」




普段、亜久津が使っている彼の知人の事務所は、この日も煙草の煙と女子の香水の匂いが充満していた。道端で声をかけてきた女を連れ込み、ソファでお楽しみの最中だった亜久津は突然の訪問者に驚きを隠せずにいた。




「私、連絡しましたよね。緊急事態だから迎えに来てほしいって!何してんですか」

「みりゃわかるだろ」



時計は22時を回っており、いつも18時には帰宅してしまうがこの時間に顔を出すのは初めてのことだった。戸惑いをにじませる亜久津をみた女は状況を察し、そそくさとシャワー室に向かった。亜久津も舌打ちしてズボンをはいた。



「こっちは大変な目に合っていたのに、良いご身分じゃないですか」

「テメーのせいで女が逃げただろ。責任取れ」




こういった場面に出くわしても、普段なら気にせず宿題をしたりラジオを聞いてその場をしらけさせるだったが、今日は語気を荒げて怒りを爆発させていた。相当機嫌が悪いのだろう。

乱暴に換気扇を回し、窓を開けていく様子を見ながら、彼女の見慣れないセーラー服に目を止める。

普段彼女が着ているような服とは違って胸元が開いていてスカートの丈もずいぶん短く杜撰な造りをしている。あまりにもには不釣り合いだった。



「その恰好、どうした?」



その質問に答えず黙々と散らかっているゴミをビニール袋にいれていく。亜久津は相手にすることを諦め、テーブルに置いてあった煙草を手に取った。


丁度良く、がライターを差し出してきたので、受取ろうと掴むがが手を離さない。亜久津は怪訝な表情でを見た。

次の瞬間、口付けをされ、亜久津は目を見開いた。



「責任、取りますよ」



亜久津の肩に手をかけ再び顔を近づけてきたの口を、亜久津は咄嗟に手で塞いだ。



「仁王はどうした」

「フラれましたよ」


「ざまあねぇな。俺もお前じゃ勃たねぇ」



亜久津はすぐに、の体を押しのけて自分の体から離し、急いで床に落ちていたYシャツを羽織り第一ボタンまできっちり閉めた。

少し黙った後、何か考え付いたような表情をしたは、そのままシャワー室に向かった。女の短い悲鳴が聞こえた後、パシンと物音がし、戻ってきたの頬は赤く腫れており、ムスッとしながらテレビを付けた。


「どいつもこいつも」


ブツブツ言いながらチャンネルを回し、亜久津が座っているソファに腰かける。がシャワー室で女に何を提案したのか知らないが、たぶん女の方がまっとうな反応を示したに違いない。それだけは伺えた。机に置かれたライターで煙草に火を付け、口に挟む。



「何があったんだ?」

「雅治様にフラれて、転校する事になって、今日は、ボランティアと騙されて援交まがいのことをさせられそうになりました」

「で、それが新しい学校の制服か?どこ行くんだ?」



ペラペラのセーラー服の裾を指先でつまむ。触るとよくわかるが、かなりの粗悪品だ。が睨んできたので、転校先の制服ではないのだろう。



「氷帝です。景吾さんが勝手に決めたんですよ。あの人、私からあらゆる自由を奪い監視する気なんです。これは深刻な人権侵害と言えるでしょう」


「結局、氷帝か」



婚約者と一緒の中学は嫌だと小6の時は受験勉強に勤しんで、碌に連絡もしてこなかったことを思い出す。

の婚約者である跡部景吾は、傲慢で自信家、およそ人の話を聞き入れない人物だ。その横暴さも一部では有名だったが、女子に圧倒的な人気があることでやっかみも入っていると言われている。財力、知力もあってスポーツもできて、何といっても顔が良い。

跡部が婚約者であることを、普通の女子なら喜んで受け入れるだろう。だけど、そんな婚約者からは距離をとったのだ。



「・・・あ、これだ」


目的のチャンネルを見つけたのだろうか、は満足げな表情をしてリモコンをテーブルに置いた。テレビ画面には荒井の好きなAV女優が映っていてこれから濡れ場のシーンが始まる所だった。


「3分で勃たせてください」

「カップラーメンじゃねーんだぞ」


先程、人権問題を語っていた人間の発言とは到底思えなかった。


すかさず、突っ込みを入れるが、当の本人は携帯でアラームを設定すると近くにあった競馬雑誌を読み始めた。



「・・・仁王のことは諦めたのか?」


「彼はまさに理想的な人物でした。情に脆く告白されたら断らない性格も、別れた翌日には違う女子と付き合えるその切り替えの速さ、あの豪胆さ」


雑誌から目を少し離すと宙をあおぎ、目を潤ませ、うっとりとした表情を浮かべた。それから、ほうと小さくため息をつき、ページをめくり視線を雑誌に戻した。

「あんな理想的な人、もう出会うことはないでしょう」

亜久津はその物言いに違和感を覚えた。亜久津を友人にしたいと言ってきたときと、ほぼ同じような話だったからだ。


-理想的な人―



仁王との結末に特に驚きは感じなかった。入学前から目を付けていたらしいが、ゲーム感覚で相手を攻略しようとするやり方は誠実さも切実さも欠けていた。あれで恋愛が上手くいく筈がない。



考えてみれば、彼女は仁王だけを一途に追いかけていたわけではない。他にも気になる奴がいれば積極的に行動していたように感じた。合コンに参加する事もあれば、文通相手に想いを寄せていたこともあったどちらも失敗に終わったようだったが。

仁王だと都合が良かっただけで、その相手は彼でなくても良かったのではないかとも、思えた。

自分のように。



「私、初めてキスしたのが景吾さんなんですよね。デートも、誕生日プレゼントも、ぜーんぶ初めては景吾さんとなんです。だから、これは、景吾さん以外が良いなって思って」



雑誌から視線を離さずに淡々と説明するの横顔は無表情だった。シャワー室で水を浴びたセーラー服は若干濡れていて下着が透けて見え、いつもより短いスカートからは、しなやかな白い足が伸びている。煽情的な光景にほのかに体が火照るのを感じ、から視線を逸らし目を閉じる。



あの体を抱けるのか



去年の、中2の自分だったら、何も考えずに喜んで受け入れただろう。あの頃は、一番身近な女子である彼女とそういう関係になることを期待していたし、一時期は想像しながら自分で慰めていたこともあった。


だけど、他の女で童貞を捨て経験を重ねた今は、彼女とそういう関係になる事に抵抗がある。勿論、今まで培ってきた信頼は一朝一夕にしてなくなるわけではないが、男女の仲になれば、上手くいかない事もでてくる。体だけしか関係のない浅い付き合い女ですら、執着心と嫉妬心を露わにして、時々問題になるのに、ならば、どうなるだろうか。

いや、彼女は問題ないかもしれない。が、俺が跡部に対して憎しみを抱くようになることは容易に想像できる。

一度一線を越えたら、その後どうなるか。こちらが求めても都度応じてくれるとも思えない。そしたら割に合わない。

それでも、こんな機会は2度とないと思うと、後ろ髪をひかれる思いにかられる。



どんな表情をするだろう

どんな声でなくだろうか

興味がないはずはなかった。



急に大きな喘ぎ声が耳に入り、ぎょっとしてテレビ画面に目を向けると、そこでタイマーのアラーム音がなった。



「やればできるじゃないですか」


は携帯のアラームを切り、亜久津の下半身を見てせせら笑った。そして亜久津の膝の上に跨り、そのたくましい肩に細い腕を乗せ、なまめかしい眼差しを向ける。



「この世で1番美しい 奉仕 ボランティア ってなんだと思います?」




その甘い声に亜久津は喉を鳴らした。
はそのまま亜久津の胸を押し体重をかけていく。


「愛ですよ」


愛を語るに似つかわしくない冷たい声では亜久津を見下ろした。


背もたれに体を押し付けられた亜久津はの表情を見て、冷静を保とうとぎゅっと目に力を入れた。一線を越えてはいけないことは明白だった。その先がない上に、容易に切り捨てられそうだ。


器用に亜久津のシャツのボタンを外していくの髪を引っ張り、自分の体から離す。も負けじと、亜久津のシャツを引っ張り、頑なに離れようとしない。



「何考えてんのか知らねーが、ヤケを起こすな」



亜久津の諭す様な声を聞いて、は亜久津の母親を思い出した。手に入れている奴には分からない。探しても探しても見つからない。どうやっても手に入らない。持たざる者の渇望も失望も理解なんかできない。



「こんな事になるんだったら、貴方が童貞のうちにサクッと終わらせておけばよかったです」


ベッドの上で揉み合いになり、亜久津が髪を引っ張っているにもかかわらず、が気にせず動くので髪がブチブチとぬける。亜久津が根負けして手を緩めると、その隙をついて、ズボンのベルトに手をかけられ酷く狼狽する。の手を振り払いながらも、熱が一箇所に集まるのを感じ、舌打ちをする。


「好きな奴とするんじゃなかったのか。おい、さわんな」


口では否定していても体は乗り気だ。じわりと額に汗がにじむ。飛びそうになる意識を、軽口をたたいて押さえ込む。本気になれば、拒否できるのにそうしないのは迷いがあるからだった。

絶対手を出したらいけない、そう体に指示するのは、もはや理性なのか本能なのか分からない。

がしたいと思っていない事は明らかだった。常識はずれで、多少イカれてはするが、長年の付き合いだからいつもと違う事は分かる。


いつもの女たちとは真剣交際だと言うのですか?ちがいますよね、と笑いながら制服に付いている赤いスカーフを取り、手前のファスナーを開く。



「私、亜久津の事、好きですよ」



亜久津は全身の血が激って動悸が高鳴るのを感じ、から目を逸らした。そんな様子の亜久津に構うことなく、は服を脱いで露わになっていき下着だけになると、その白い体を亜久津の胸に押し付ける。


「ねえ、良いでしょう?」


艶やかな黒髪が鼻をかすめると、ほのかに香水の匂いがした。

慣れ親しんでいるその匂いに誘われて、亜久津の手が無意識に伸びる。柔らかい体を抱き寄せ、その首に口づけを落とし、そのままの唇を食むように合わせた。が舌をからめて応えてくると、いよいよ吐息が漏れた。

ブラのフックを外し、きめ細かい冷たい肌と自分の肌を合わせると、互いの体温が交わって溶けるような感覚を覚える。

亜久津は感じたことのない高揚感に目がくらんだ。



手を絡めると想像より小さく握りつぶしてしまいそうで、それにすら愛しさを感じる。

そのまま腰を埋めようとするを跳ね除ける理性は残っていなかった。




その時だった。

世にも奇妙な物語の曲がながれた。





はっと我にかえった亜久津はを押しのけ飛び上がるようにして距離をとった。
息は上がっていて、全身から汗が噴き出ていた。



弾みで床に落とされたは這いつくばったまま、落ちていたスカートから携帯をとる。





「出たな、おじゃまむし」



バイキンマンのマネをしてるのか濁声で電話に出る。



「悪い事なんてしてませんよ。貴方、なまはげですか」



今までのこと嘘だったかのような普段通りの会話に、亜久津は呆気にとられながらも、背後にあった窓に背を張り付けるようにして息を整えた。

汗をぬぐおうと自分の額に手を当てると、普段立てている前髪が額にへばりついていた。
手にもぐっしょり汗をかいている。



「そちらこそ、後ろが騒がしいようですが?」


ベッドの上からは床でうつ伏せになっているの表情は見えないが、そこで初めての肩が僅かながら震えていることに気付き、 亜久津は窓ガラスに触れている背中からすうっと全身が冷えていくのを感じた。




「今の叫び声、お義母さんの声ですか?はあ、…お義父さんの背広から風俗系のお店のポイントカードが出てきたと。それは一大事ですね」


は自分の声がいつもよりワントーン高いことに気付いて、咳ばらいをする。


けいれんを起こし始めた米神を手で抑えると、は自分の指が小刻みに震えていることに気付いた。

気持ちを落ち着かせるために、小さく深呼吸する。こちらの不自然な話し方に気付いた景吾が心配そうに声をかけてきて、苛立ちを感じる。


「大丈夫です。それより、普通で模範的な夫婦の心配でもしててください。」



そういい捨て、は携帯を切った。


亜久津が既に服を着て一服しているのを見て、床から起き上がる。下着を身に着け、近くにあったブランケットを手に取ると、未開封の避妊具が転がり落ちた。

人差し指と親指でつまんで、目を細めてみた後、亜久津に向かって放り投げた。



「そっちの方がベテランなんですから、しっかりして下さいよ」



危ないですね、と文句を言いながらソファに座ると、同時に亜久津に頭を思いっきり殴られた。



頭を掻きむしってあーもーと、が叫び出すと、うるせぇ、と亜久津がクッションで上から抑え込み、その場を沈黙が支配した。





テレビからは相変わらず単調な喘ぎ声が聞こえてくる。




「顔、真っ青だぞ」




は押さえつけられていたクッションを亜久津に向け投げ返し、ブランケットを頭からかぶって、氷帝なんか行きたくない、と一言消え入るような声で呟いた。




その様子を横目で見ながら、亜久津はタバコを吸うことに意識を集中し、下半身を落ち着かせた。




その厚顔無恥で横柄な態度から忘れていたが、そうだ。こいつは昔から卑怯な臆病者だった。一皮剥けば、その辺にいる普通の女子と変わらない。

変わらないどころか、ずっと弱いのかもしれない。



「婚約者が嫌で立海に行ったわけじゃなかったんだな」



天井に向けて煙を吐くと、狭い部屋にたちまちと白い靄がかかった。


は答えることなく、ブランケットをかぶったままリモコンを取ってテレビの音量を上げた。

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