脱線

18.





天と地がひっくり返り、全てが一変してしまったようだった



変化、それは、いつも突然訪れる。






**************






「部長が、熱で休みなんて初めてのことじゃないですか?」

「インフルっちゅー話やで。最近流行ってるからな」

「キラメイジャーのレッドもかかったC」



その日、部活動を終えた日吉、忍足は、部室で制服に着替えており、その横で芥川はベンチに寝そべり、リンゴをかじりながらスマホで戦隊物の動画を見ていた。エンディングソングに合わせて、「キラメコウZ!」と時折合いの手を入れる。いつもなら、そんなだらし無い姿を叱る部長はおらず、緊張感もなく各人のびのびと過ごしていた。



「まあ、喧嘩した両親の仲裁に入って怪我したっちゅう話もあるけど、インフルなら一週間は出てこれへん。不在を思いっきり満喫しようや」


ニヤニヤ笑いながら、忍足が日吉の肩に手を乗せると、日吉は眉を寄せた。


「俺は合コンなんて二度と行きませんからね」

「なんや、この前一番得したのはお前やで」

「本気ですか?俺、あのあとグランド20周したんですよ?お気に入りの靴を一足ダメにしましたよ」

「あー。さんがマリーちゃんやったって話しな。あれは俺も見破れんかった」



日吉が合コンに付き合ってくれないと分かると、興醒めするように肩を竦ませ、芥川の隣に腰掛け、足を組んだ。それから、手帳を開いて他のあてを探し始めた。



「あの人、うちに転入してきましたよね」

「昨日な」


日吉からの質問に、手帳から視線を逸らすことなく簡潔に答える。



「3年の女子に総スカン食らってイジメられているって聞いたんですけど大丈夫なんですか?」

「跡部の婚約者やで?アイツの人気考えたら、ある程度しゃーないやろ」


「部長がいない間、誰かが守ってあげないと大変なことになりますよ」

「日吉、お前、将来早めにハゲるで」



真っ直ぐで生真面目な後輩の意見を、新鮮で可愛らしいと感じた忍足は、唇を噛み締めて笑いをこらえた。日吉が、開いていた手帳の上に手を置いて遮ってきたので、忍足は緩めていた口元を引き締めて、視線を相手に戻した。



「忍足さん、同じクラスなんですよね?」

「ジローもな。」



「心強いやろ?」と、にやっと笑った後ろで、スマホを見ていた芥川が「キラメコウz!」と叫んで拳を高くあげた。







**************






「朝、妊婦さんに席を譲ろうと立ち上がったら、近くにいたサラリーマンにその席を取られたんだ」

「文句言わなかったのか?」

「そのサラリーマンも体調不良かも知れないと思ったら、言葉が出なかったよ」

「まあ、大抵のサラリーマンは常に心身共に病んでるから、そういう意味では席を譲って良かったんじゃないか?」

「うーん、でも考えてた事と違ったんだよね。俺はさ、宍戸さんみたいに、颯爽と人助けしたかったんだよ。サラリーマンより、できれば妊婦さんを助けたかった」

「何のこだわりがあるのか知らねーけど、安心しろ。今からやることは正真正銘の人助けだ」



だろ、と、三年の教室の扉に手を当て、日吉は自身より身長の高い鳳を見上げた。鳳はその日、同級生からイジメを受けている部長の婚約者を助けるという名目で放課後3年生の教室まで呼ばれていた。

受験組、内部外部推薦組と各々進路を意識しはじめてきた3年生の教室はどこも空気が張り詰めており、特別なことがない限りは下級生が足を踏み入れることはない。鳳が重い足取りで教室まで向かう一方で、日吉は意気揚々としていた。

景吾が不在の中、次期テニス部部長と言われている彼は景吾の代わりに全てを上手く回そうと、使命感に燃えていた。そして、それはテニス部に限らず、景吾のプライベートまで含まれるようだった。



「様子だけでも一度確認するぞ」



クラスの標識を目で確かめてから、一呼吸置いてドアに手をかけると、ドタンと教室の中から大きな物音がし扉が勢いよく開いた。

驚きで仰け反った日吉が、鳳にぶつかり、2人はドミノ倒しのように廊下に倒れた。


さん」


絞るように声を出したのは日吉の下敷きになっていた鳳だった。

開かれた扉の先には、彼らの目的の女子生徒がいた。赤く腫れた右頬にハンカチを宛てた彼女は、唇を噛み締め、その目にはうっすらと涙を浮かべていた。そしては、倒れ込んでいる2人を一瞥すると、そのまま廊下を走り去っていった。それに続くように、教室から何人かの女子がクスクスと笑いながら出てきた。

品の良い笑い方では決してなかった。


「イジメは本当のようだな」



その様子をみて、どこか納得した日吉は、勘が当たった事がよほど嬉しかったのか、勝ち誇ったように満足げに頷いた。


「長太郎」


廊下を歩いていた宍戸が転がってる2人に気づいて声をかけると、鳳は日吉を押し退けて兵隊のようにピシッと立ち敬礼でもしそうな勢いで挨拶をした。



見なかったか?」



戸惑いがちに鳳が窓の外に目を向けると、その視線に合わせて 宍戸も同じ方向を見た。そして、門に向かって一目散に走っていく彼女の後ろ姿を確認すると顔を顰めた。



「あの女」


「何かあったんですか?」


日吉が聞くと、宍戸は顎を使って2人に教室に入るよう指示し、適当な机に持っていた箱を置き蓋を開けて見せた。銀色の動物が様々な色をしたペットボトルのキャップに埋もれていた。


「チーター?」

「ジャガーだ」


宍戸は鳳の質問に間髪入れずに答えた。


「今回、美術の課題がやっかいで、とペアを組んだんだ」


氷帝では芸術や体育などの一部の授業は選択制なので、別の組の人間と一緒に行うことがある。ただ、ペアを組む場合はだいたい同じ組の人間でなおかつ同性が相手になる。

まれに恋人同士や、男女でも仲の良い二人組がペアを組むことがあるが、囃し立てられるから、メンタルが強いか鈍感でない限りは組まない。


「ペアが各自持ち寄ったもので、作品をつくるのがテーマだったんだ。確かに俺はキャップしか持ってこなかったけど、あいつはこの鉄屑一体だぜ。作るも何もないだろ」


イジメられている彼女を助けるために彼女とのペア役を買って出たのではないだろうかと、推測した日吉は鳳に何故か小声で耳打ちした。悪口でないなら、普通に話せば良いが、照れ屋な宍戸が否定するのは目に見えているからなのだろう。


「それでな、が箱の中に適当にジャガーとキャップ詰め込んで完成って豪語したんだ。そのあとは、前の学校の宿題がまだ終わってないとか言って、ずっと数学やってて、先生が見回りに来たときに、『ナショナリズムを表現しました』って見せて納得させたんだぜ」

「えーと、外車のエンブレムをキャップ(ゴミ)で埋めたからですかね」


いつものように宍戸のことを尊敬の眼差しで眺め、呆けていた鳳だったが、要領を得ない日吉が首を傾げ、腕を組み、最終的には貧乏ゆすりをし始めたので、宍戸の説明にフォローを入れた。


「よく分かったな。それから、アメリカ優位の外交をどうにかしないといけないって、授業が終わるまでずっと先生へ熱弁してた」


ジャガーはイギリスの車だし、彼女の父親はこの間アメリカ大統領と握手して米軍思いやり予算を5倍にすると言いマスコミに叩かれていた。その後、兵役制度導入や戦争行った人間の弔い、事後ケアを外人がやってくれるって考えれば安いもんだろ、と夜の街で豪語していたと雑誌に取り上げられ、ネットで炎上していたことを、鳳は思い出す。


「結局、後になって俺だけ呼びだされて再提出ってことになったんだ」


宍戸は改めて作品をじっと見ると、「なしだな」と言って、箱ごと近くのごみ箱に捨てた。


「激ダサだぜ」




火曜日、日吉はがイジメにあっていることを景吾に報告した。






**************





人が降ってきた。


かの有名なララピュタ城ではなく、飛行船からでもなく、屋上入口の階段を伝って、ふわっとではなく、ゴロゴロゴロドシンと嫌な音を出して、その肢体はコンクリートに打ち付けられた。


地面に横たわっていたのは、シータではなくさんだった。それは、まるで殺人現場のようだった。






引き続き、報告を続けなければいけないと、自身に課した任務を全うしようと息巻いていた日吉は、水曜日となったこの日、再び鳳を巻き込み、を探して放課後の学校を走り回っていた。

教師の榊が誰かと口論している彼女を屋上で見かけたと聞き、屋上に向かっていたが、階段を上がろうとした所で彼女が転がり落ちてきたので、日吉は咄嗟に体を引いて避けてしまった。


あ、と間抜けな声が思ったより大きく響く。


地面に伏しているを横目に、誰にも聞かれたないよな、と周囲を見回した日吉は鳳と目があうと気まずそうな顔をした。


一方で、その様子を見ていた鳳は倒れているから鼻血が出ていることに気づくと、考えるより先にティッシュでよじりを作って鼻にねじ込んだ。途中、が小さく抗議の悲鳴をあげたが、聞こえていないようだった。



「嘘でしょ」

「血でてる。どうしよう」



声がした方を見ると、屋上出入口から3人の女子がこちらを覗きこみ、顔を青くしていた。知らない顔なので一年生かもしれない。突き落とした加害者のようだった。

事情を聞く前に、が苦しそうな声をあげたので、慌てた鳳は彼女を背負い保健室に向かい、ぼけっと立っていた日吉も近くにいる教師を探した。







**************






「あのさ、俺が、この試写会に当選するためにどれだけ苦労したか知っている?親戚と後輩全員にクラブ会員になってもらって、抽選に応募したわけ。それでも当選しなかったから、叔父さんの知り合いのテレビ局の偉い人に頼んでチケットを譲ってもらったの。この大して面白くもない映画のためにね」




自分の発言で周囲の人から白い目で見られていることに気づいていないのか、気づいても気にしないのか分からない様子で幸村は、延々と愚痴をこぼしていた。


都内の4D対応している映画館で行われた戦隊シリーズの映画公開試写会には、大勢の子供たちとその保護者が参加していた。中学生男子が2人で一緒にいるだけでも目立つのに、上映が終わると同時に大きな溜息をついて不満を漏らし始めた幸村には多くの人、とりわけ保護者から冷たい視線が向けられていた。


そんな中、鳳は幸村の背中をさすって辛抱強く宥めてた。


を保健室まで連れて行った鳳は、彼女の意識が薄れていく中、幸村とこの試写会に行くよう言い渡された。


会場について、女子には分からないだろうが、男子が見れば分かるお洒落着を着ていた幸村を見つけた。そんな彼に礼儀正しく挨拶をし、経緯を説明したが、その間に彼の表情がどんどん曇っていくと、鳳はなんだか申し訳ない気持ちになり、人助けって難しいんだなと思った。


七光戦隊キラメイジャーは、親の七光りを浴びた戦士(就活生)が魔物(巨大企業)から内定を集めていくという話で、圧迫面接してくる役員が親の名前を聞いた途端、ペコペコしだす水戸黄門や浅見光彦のパクリみたいなベタなストーリー展開が話題を呼んでいるらしい。



さんもすごい楽しみにしていたようですよ。俺、グッズを買うようクレジットカードまで持たされました」



在庫をすべて買い占めるよう言われたそのキーホルダーは蝶の形をしていて、握手券が付いているらしいと、そう説明すると幸村は顔を顰めた。



「ツッコミどころ満載だけど、とりあえず、握手券を取った後の大量のキーホルダーがゴミ箱に行かないことを祈るよ」

「クラスの皆に配るって言ってました」

「クラスメイトが気の毒だね。そんなんで氷帝に馴染めてるの?」


馴染むどころかイジメられていて、今日も怪我をした、そう言ったらどうするだろうか。


忍足から幸村はを転校まで追い詰めた張本人だと聞かされていたが、立海のテニス部総出で彼女の試写会のチケットを手に入れようと試みたくらいだから、実際は違うのかも知れない。悩ませるのもかわいそうだと思う。

鳳は逡巡した後、「心配するような事は何もないですよ」と笑って答えた。


水曜日、鳳は幸村がピーチレンジャーと肩を組んでピースしている写真を景吾に送った。





**************







木曜日の放課後、のクラスに行くことが、いよいよ習慣のようになってきた日吉と鳳は、疲れを顔に滲ませていた。そして、お約束のようにが不在だと知ると、深く肩を落とした。


彼女の机の上にあった2人宛の置手紙には、やむを得ない理由で早退する事と頼み事が書いてあった。

隣の席の男子に詳細を聞いてみると、彼女はお気に入りの万年筆を盗まれたらしくショックで早退したとのことだった。

早退ってそんな理由でできるんだと素直に驚いた鳳だったが、日吉をみるとその額に青筋を浮かべていた為、敢えて話題にすることはなかった。



港近くにある工場の跡地には、錆びた鉄骨やコンテナが無造作に置かれており、門の前には関係者以外立ち入り禁止の看板が置かれていたが、スマホを見る限り手紙で指定された場所はここで間違いないようだった。




「だれかー、助けてくれー」




気味が悪いと立ち往生していた所、男の悲鳴が聞こえると、2人は顔を見合わせ、鳳は門に手をかけ、日吉は門に背を向けた。そして、もう一度顔を見合わせた。



「いや、行かないだろ」

「え、助けてくれって、言ってるよ」

「俺はな、氷帝テニス部のレギュラーだ。しかも、次期部長を約束されている」

「うん」

「怪我はできないし、事件に巻き込まれる訳にもいかない」

「うん?」

「だから、帰る」

「助けないの?」

「お前が行きたいなら止めないけど『氷帝テニス部』の『ひ』の字も出すなよ。公式試合の出場が禁止されたら迷惑だ」



じゃーな、と言い放つと日吉はそのまま帰ってしまった。急に心細くなった鳳だったが、再び男の叫び声が聞こえてくると次は迷うことなく、門を開けて建物の中に飛び込んでいった。


声を辿って着いた場所では、3人のいかにも不良のなりをしている男達が、1人の男を囲んでいた。全員同じ山吹中の制服を着ていたが、輪の中心にいる眼鏡をかけた男の制服は泥だらけで所々破けており、その顔は原型を留めていない程腫れ、頭からは血が流れていた。

あまりにも衝撃的な場面に出くわしてしまい、言葉を失った鳳だったが、血を流している男が助けを求め、手を伸ばしてくると、すぐさま間に割って入り、リンチしている3人を睨みつけた。



「やめてください」


「誰だ、テメー」



突然現れた鳳に、驚いた様子の3人だったが、睨まれると敵と認識したのか、茶髪の男が手に持っていた血だらけのペンチを向けた。

ペンチの間には、暴行された男の歯と思われるものが挟まっており、それを見た鳳は身震いし胃液が逆流するような吐き気を催した。


「氷帝の鳳です」


恐怖で頭が真っ白になり名乗ってしまったが、その直後、日吉に言われた事を思い出し、学校名まで出してしまったことを後悔する。



「氷帝?あー、坊ちゃん学校の。言われてみれば、見るからに金持ってそうだな」


3人がニヤニヤと笑いだし、うち金髪の男が鳳の肩を強く掴むと、鳳は無意識のうちに自分の鞄を強く握りしめた。

しかし、背後から、ぜーぜーと苦しそうに呼吸する音が聞こえてくると、早く用件を済ませて怪我人を助けなければと思い至り、勇気をふりしぼって再び口を開く。



「亜久津さんいますか?」



亜久津という名前を聞くと、鳳の肩を掴んでいた男は、パッと手を離してから、埃がついていましたと言うかのように、軽く肩をパッパと叩き、それから鳳の襟を丁寧に直した。



「・・・鳳君だっけ?亜久津さんは今隣の部屋でお楽しみ中なんだ。用件は僕が代わりに聞いておくよ」

さんが、亜久津さんに謝罪したいそうなんですが、素直になれないという理由で俺が代わりに謝罪しに来ました」




という名前が出ると、3人が視線を四方に散らし、内容を全て聞き終わると、金髪の男が「自分で謝れよ」と至極まっとうな事を言った。



「あの女の知り合いだって、どーする?」

「ほっとこーぜ」

「あの女、マジやべーもんな」



金髪が質問を投げかけると、白けた様子で後の2人が答える。



「こないだ、ダチにJKビジネス誘われてさ。彼女斡旋するとマージンもらえるって聞いて、興味本位で店見学しに行ったの。したらさ、セーラー服着たが普通にいたからな。で、おっさんから20万巻き上げてたぜ。ヤバくね?」

「父ちゃんの1ヶ月分の手取りだよ。それ。俺はさ、アイツが外車のボンネットをバッドで壊してたの見ちった。右翼ヤバって思った。ハンパネーよ」


「そーゆーなら、俺の方がすごいぜ。

金持ってそうなルドルフの男子の後付けてたらさ、突然が現れてそいつの事ボコボコに殴って病院行きにしたの。ヤバくね?

話には続きがあってな、近くにいた俺が犯人に間違われてサツに捕まったんだ。酷くね?世の中、ひでーよ」



「マジか。捕まったの、あれ、のせいだったんだ?人に責任擦り付けやがって、マジ親の顔見てみてーわ」



3人がについての近況を非難しながらも、何故か自慢げに話している間、鳳は怪我人のケアに勤めた。

両手両足を縛られた紐を解くが、手ひどく傷付けられている為、歩ける状態ではなく、相手がふりしぼって出す声もくぐもっていて聞こえづらい、近くで見ると眼鏡はひび割れゆがみ、口元は潰された苺のようにどろっと皮膚が垂れ、前歯は何本も取られていることが分かった。

地面には複数の血濡れの歯が落ちている。男の目からは涙がボロボロ流れ、その手は力なく鳳のブレザーを握っている。


恐怖より怒りが勝ったその時、奥にあった扉が開いて、当初の目的の人物が出てきた。




「亜久津、仁」




鳳の呟きに盛り上がっていた3人が反応し、おしゃべりをピタリと止めた。


亜久津の一歩後ろを丈の短いセーラー服を着た女子が付いて歩き、3人の元まで来ると鳳をちらっと見てから、その背後で倒れている男に向かって唾をかけた。

それから、近くに転がっているドラム缶の上に腰を下ろした亜久津の方へ走って行き強く抱きしめると、猫撫で声でお礼を言った。



「怪我人になんてことするんですか」



咄嗟の事で呆気に取られた鳳は男を庇う事もできなかったが、少し遅れて彼女の行為を咎めた。

すると、それまで亜久津に対して熱っぽい視線を送り、かわいらしい声を発していた女は豹変し、顔色を変えた。



「アンタ、この男の知り合い?」

「違いますけど、このままじゃ死んじゃいますよ!なんでこんなことするんですか?彼が何したって言うんですか!」

「この男はね、オレオレ詐欺で、私のおばあちゃんから全財産奪ったの!2回もよ!」



鳳は驚いて怪我をしている男を見た。何も言わない所を見ると事実のようだった。




「警察が全然動いてくれないから、仁にお願いして、やっつけてもらったの」

「俺らは?俺らも頑張ったんだけど」

「私、抜歯しろなんて言ってない。気持ち悪いもの見せないでよ」

「大丈夫だよ。屋根に投げれば、また元気な歯が生えてくるって」




ゲラゲラ笑う3人を無視して、女はもう一度亜久津をみると深々とお辞儀をしてから「またセーラー服着るから、シようね」と満面の笑みで立ち去って行った。



頭が追い付かず混乱する中、亜久津に声をかけられた鳳は思わず身じろいだ。




「氷帝の鳳か」


他の3人とは別次元の禍々しい空気を身にまとっていて直感的に怖いと思った。亜久津とは面識こそはあるが、彼と会話をしたことはなかった。素行が悪いと有名で、練習試合でも下級生である鳳が彼に話しかける機会はこれまでなかったのだ。



に何かしたか?」

「え?」

「…その面じゃちげーな。もう一人いたか?」

「日吉が」



素直に名前を出してから、しまったという顔をして口を噤む。中学生だというのに悪びれる様子もなくタバコを咥え、火を付ける亜久津から目を逸らせなかった。


「日吉か。ストライクゾーンだな」



何か納得した様子で、けれどもつまらなそうに煙を吐く。

そんな姿まで様になっている。何かのきっかけで落ちぶれた時には、目指す者として付いていきたくなるような、そんな雰囲気がある。


紫煙が部屋に広がってから、一つ疑問が浮かぶ。

日吉は次期部長という事で注目されやすく、他校のテニス部でもその名を馳せているが、よく自分のことまで知っているなと。

鳳が首を傾げていると亜久津が察して呆れた様子で答えた。



「お前、有名だぜ。3年にレギュラーを譲ってやった2年ってな」

「え」

「えーマジで?ヤバくね?どーぞって言ったの?」


横で話を聞いていた3人がその話題に飛びついて、次々に口を開く。



「それマジダメだよ。君さ、コーチとかに帰れって言われたら帰るタイプでしょ」

「いるいる。バイトとかでも店長に『こんなこともできねーなら、辞めちまえ』って言われてホントに辞めちゃうやつ。閉店後、店裏で泣いてる店長の姿が想像できねーのかね」

「それな!結局、相手を思いやる気持ちが足りないんだよ。圧倒的に想像力が足りねーの。イマジン大事だぜ。イマジン!」


何度も否定しようとしたが周りの3人が囃し立てる声によって、消え失せた。




木曜日、レギュラーを軽んじたつもりがなかったが、そういう見方もできる件について今更ながら部長に謝罪のメールを入れた。







**************






そして、金曜日。




そろそろ成果を出さねばならないと若干意固地になっていた日吉は早朝に鳳を呼び出し、の家の近くにあるバス停で彼女を待ち構えていた。



さんの家、部長に教えてもらったの?」

「官房長官の名前で検索したら、ウィキペディアに載ってた」

「・・・それ、まずくない?逮捕されない?」

「警察もそんなに暇じゃないだろ」

「そもそも車通学なんじゃないの?お嬢様なんでしょ」

「金曜日は運転手が休みなんだとさ」

「それも、ネットで検索したの?」



不安になった鳳が宍戸に連絡しようと鞄に手を入れた時、見慣れた制服のスカートが視界に入り、鳳はパッと顔を上げた。


「ごきげんよう」


出待ちのようなことをしている後輩たちに驚く様子もなく、むしろ歓迎するような満面の笑みを浮かべたがいた。そこにちょうどバスが来るとは当然のように2人より先に乗車し、残された2人は顔を見合わせてから彼女の後を追って乗車した。


朝早く、始発に近い停留所だった為か、車内は比較的空いていた。が運転席の真後ろの一段上がっている席に座ると鳳は通路を挟んだ横の席へ、日吉は彼女の後ろの席に座った。

があまりにも出入り口に近くの席についた為、立つと通行人の邪魔になってしまい、2人には座る以外の選択肢は残されていなかった。


普段、電車通学の鳳にとって、バスに乗るのは久しぶりのことだった。最前列に座る経験も幼稚園以来だ。なんだか、新鮮で少し心が躍るのを感じだ。

日吉が少し怒った様子でに話しかけているようだったが、通路挟んだ2人の会話は鳳には聞こえづらく、次のバス停で小学生の団体が乗ってくるといよいよ何も聞こえなくなった。



けれども、鳳の席からはの表情がよく見えた。怒りを露わにしている日吉とは対照的に、楽しそうにケラケラと笑っている。

初めて見る景色だった。



鳳は小学生の頃から、の存在を知っていた。多摩川でよく走っているのをみかけていたからだ。いつも追い抜かされていた。背が伸びて、本当に最近になってから、追い抜かすこともできるようになってきたけれど、それでもこうやって彼女の表情を間近で見ることはなかった。


会釈や挨拶はしたことがある。合コンの時にはなんだか気恥ずかしくて声もかけられなかったし、挨拶の時くらいしか、目を合わせられなかった。


同じ学校に通う生徒として、こうやって自然な形で一緒にいる事ができることを奇妙に感じる。


ぼんやりしていた鳳が、窓の外にベビーカーを片手に抱っこひもで赤ん坊を抱いている女性がいることに気づいたのは、乗ってから5つ目の停留所でのことだった。


車内は混雑しているし、抱えて乗るのも一苦労だろうと思った鳳はバスが止まると同時に運転手に一声かけてからドアステップを降りて、女性の元に駆け寄った。

その停留所で待っていた人々が乗車してから女性が続いて乗り、鳳がベビーカーを持ち上げて渡す。



「ありがとうございます」



お礼を言われて照れて頭をかいた鳳は、そこで初めて運転手含め乗客の何人かが気まずそうに自分を見ている事に気づいた。それから、ようやくバスが満員で自分が乗車できるスペースがないことを理解した。


電子カードを財布に閉まった後、遅れて状況に気づいた女性は、顔を真っ赤にして鳳に謝罪してから降りようとしたが、鳳も予想外の展開に焦って断ろうとしたその時だった。



「鳳さん、総合体育館はこの先ですよ」



振り向くと、バスから降りてくると、その横でこちらを睨んでいる日吉がいた。そのまま歩いていってしまう達を見て、鳳は女性に一度お辞儀をすると、2人の後を追った。


雨がパラパラと降ってきて、3人は近くの公園にあった屋根付きのベンチまで走った。



「ハンカチ」



から突然そう言われた日吉は一瞬迷ってからハンカチを渡したが、彼女がそれをベンチにひいて座ると非難の声を上げた。それを皮切りに2人が騒ぎ始めたので、鳳が間に入った。


「落ち着きなよ」

「落ち着けるか!お前も、さっきのは何なんだ!」


怒りの矛先が自分に向かった鳳は、と日吉に対して素直に謝罪した。あの場を上手く収める為、あたかもあの停留所が目的地だったとみせるように、2人がバスを降りたのは明らかだった。


人助けどころか、迷惑をかけてしまった。



「俺、いつもこんなんで、上手くできなくて・・・」

「鳳さん、今日の天気予報は雨でタクシーは捕まえにくいと思いますよ」

「え」


「あのバスに乗れなければ、20分は待たなければならない。小さな子供を抱えては大変ですね」


「…はい」


「あの親子がバスに乗れて良かった。で、良いじゃないですか」



は問いかけながらも返事を待つことなく、鞄から体操服を出し着替え始めたので、鳳と日吉は反射的に背を向け、少し距離のある隣のベンチに移った。


日吉は苛立ちをぶつけるように、けれども小声で鳳に話しかけた。



「この女にはもう関わらない方が良い。この1週間、ろくなことがなかった!」

「俺の方が大変な目にあってるの知ってて、それ言う?そもそも面倒見なきゃいけないって言い始めたのは日吉だよ」

「十分後悔してる。イジメられてたとしても、この性格じゃ仕方ないだろ。部長の婚約者以前の問題だ」

「うん。まあ、実際虐められてないしね」

「は?」

「宍戸さんに聞いたんだけど、普通みたいだよ」

「ハブられたり、顔叩かれたり、口論の末階段から落とされたり、物盗まれたりしてるんだぞ?どこが普通なんだ」


「ペア相手がいなかったのは宍戸さんの方で、本当はお願いして組んでもらったみたいだよ。で、顔の腫れは虫歯、口論は電話で亜久津さんと、階段は一年が落ちそうになるのを助けたんだって、それから万年筆は、ここにある」


呆気にとられながら説明を聞いていた日吉だったが、鳳が胸ポケットから取り出した橙色の万年筆を見て目を疑う。


「…万年筆は、なんでそこにあるんだ?」


「保健室に連れて行った時に、さんの上着を脱がしたら落ちたんだ」


特に光ってもいない万年筆を前に、眩しそうに目を細めた鳳に、日吉は嫌な予感がし全身に鳥肌が立つのを感じた。




「お待たせしました。ここから学校まで4キロだそうです。15分で着きますね」




体操服の上に、レインコートをしっかり羽織ったは腕時計をいじると、手足を振って簡単にストレッチをし、自分の鞄を日吉に預ける。



「重っ。何入ってんだ」

「行きましょう。遅刻しますよ」



そう言い放つと、日吉の文句に耳を傾けることなく、そのまま走り去っていってしまった。



「鳳、タクシー呼ぶぞ」

「え?走らないの?

「やってられるか」

「日吉、部長にも体力ないって言われてたじゃん。はっ、まさか、さんはそれが目的で・・・」

「な訳ないだろ!」



日吉の話を最後まで聞くことなく、後を追うように走っていってしまう鳳に、日吉は怒りや呆れを通り越し、全てが馬鹿馬鹿しくなってしまった。


「つきあってられねー」


携帯でタクシーを呼んだが、雨の為かコールセンターすら繋がらない状況で、結局走ることを余儀なくされた。

日吉は、その日初めて学校を遅刻することとなった。





金曜日、日吉は景吾に具体的には書けないがと断って謝罪文を送った。






**************












初めて親が喧嘩をするのを見た。
高熱を出した。
何故か車のボンネットが壊されていた。
後輩からの怪文書が1週間毎日送られてきた。


重なる不幸はただの余興に過ぎなかった。







「元気になられたようで嬉しいです」


週明け、インフルエンザから回復した景吾だったが、通学用のジャガーはボンネットが壊れ修理に出しているため、の車で通学することとなった。


「心配かけたな」

「景吾さんと登校できる日を心待ちにしていました」

「転校も悪くないだろ?氷帝で俺に逆らう奴はいないし、困った事があれば助けてやる」

「頼りにしてます」




中学3年の難しい時期に転校させた負い目があった景吾は、クラスに馴染めるように全力でサポートするつもりだった。 

の手を力強く握ると、彼女は嬉しそうに笑みをこぼし、ぎゅっと握り返してきた。強制的に転校させたことを怒ってるかと思いきや、意外と機嫌が良く好意的で拍子抜けした。




学校の門前に着いた後も、しばらく車から出ることもなく、景吾はをじっと見つめていた。

景吾は自身でも動揺を隠せずにいた。

一緒に登校できる喜びで胸が高鳴っていたのだ。景吾にとって、は人生のパートナーだった。その彼女とこれからは平日も一緒にいれて、同じ教室に通えることを思うと、なんだか胸が締め付けられるような気持ちになった。



が立海に通いたいと希望していたから、言い出せなかったけれど、もうずっと前から一緒にいたいと思っていたのかも知れない。


は景吾の熱い視線をそらすことなく、微笑み返して受け止めた。


景吾には離れていた時間が2人の絆を強固なものにし、目には見えずとも確固たる信頼が互いを結んでるように感じられた。






車から降りて、下駄箱に行くまでの間に何人もの生徒がやってきて病気の回復を喜んだ。

「人気者なんですね」

その様子を見ていたが感心すると、気を良くした景吾は、学校では生徒会長、強豪のテニス部部長として人望を集めていること、教師からも信頼され、成績優秀でスポーツもできるため、もはや無双状態であることを語った。

武勇伝という名の自分語りが延々と始まったので、は花壇に咲いてる色とりどりの花を見て楽しみながら適当に相槌を打って返す。最後に、分かるか?と返事を求められると、急いで意識を戻した。


「つまり甲子園には連れてってもらえないということですね」

「お前が話を聞いてなかったことだけは、分かった」

「1つ助言をするならば、野球やラグビーの方が就活でウケが良いですよ。パワハラに耐えてくれそうという根強いイメージがありますからね」

「俺は就活しない。それから、テニスをそのへんのスポーツと一緒にするな。テニスは紳士のスポーツなんだよ」

景吾の背後には、テニスコートがいくつか並んでおりその奥には大きなグランドが広がっており、生徒たちが朝練の為走り込みやトレーニングをしている。

互いに切磋琢磨しあい、友情を育むその場所は活気が満ちている。爽やかな朝に相応しい晴天、心地よい風がふく中、応援団の声が聞こえて来た。


-勝つのは氷帝、負けるは立海!勝つのは氷帝、負けるは立海!-


「ずいぶん紳士的なんですね」







教室まで一緒にいった2人は扉の前で立ち止まる。景吾はの軽く頭を撫で、頑張れよと声をかけてから自分の席に向かった。

普段通りに忍足がやかましくこえをかけてきて、それに答えながらも、景吾はここで何かが引っかかりを覚えた。

そういえば、朝からおかしかった。

車を降りてから教室に入るまで一度も女子生徒が声をかけてこなかった。普段であれば、朝でもうるさいほどの黄色い声で迎えられ、刺すような熱い視線を向けられている。1週間も休んだため、今日は彼女たちの気持ちが過熱することを予想していたが、そんな気配すら一切感じられなかった。


「不気味だな」



鞄の中から、教科書とノートを出して、机にしまい、一限目の準備をしながら周囲を見渡す。





顔ぶれも物の配置も全て一緒なのに、何かが違うと直感が告げている。別世界に入り込んでしまったような、と言ったら言い過ぎだが、目の前にフィルター1枚挟んでいるような、どことなく人との距離ができたように感じる。



カバンを机横の引っかけに、吊るそうとした時、見慣れない蝶型のキーホルダーがかかっていて首を傾げる。持ってみると、お菓子の景品についているような簡単な作りをしていた。



「それな。さんがお近づきの印にって、先週クラスの皆に配ってたで」



誰のものか確認しようとした時、景吾の様子に気づいた忍足が答える。言われてみれば、他の生徒たちの机横にも引っかかっていた。


視線の端に女子たちに囲まれているを捉える。ダサいキーホルダーについてはともかく、周囲と上手くやっているようで安心する。黒板から離れた窓際の彼女の席は、景吾とは遠い位置にあった。

は景吾と目が合うと照れたようにはにかんで、小さく手を振った。景吾も手を挙げて返す。


そのやりとりが新鮮で気持ちが軽く舞い上がった。


思い過ごしか、病気明けで知らずうちに緊張して不安になってしまっていたのかもしれない。そう明るい方向に考え、気持ちを切り替えようと、頭を軽くふった。



チャイムがなり、教師が教室に入ってくるとクラスは途端に静まり返り、全員が席に着いた。

その教師はいつも軽視されている実習生だったので、周りの従順な行動に景吾は驚いた。



「それでは、皆さんホームルームを始めます」



1週間前まで、彼女はビクビクしながらホームルームを請け負っていた。黒板に書く字は震え、声は小さく、時々噛んでは生徒たちに冷笑されていた。今にも辞めそうな、そんな雰囲気を醸し出していたのに、どうしたことだろう。今日の彼女はそんなことを微塵にも感じさせなかった。



「先日話し合いましたが、本日は意見が出ていた4つの候補から劇の演目を決めます。考える時間は十分あったと思いますので、多数決を取りたいと思います」



目の前の人間は同一人物とは思えないほど、ハキハキ話し、黒板には力強い大きな字を書いているではないか。その目には、以前はなかった光を宿している。


「皆さん希望の演目に挙手して下さい」


これが先程自分が感じた違和感なのだろうか?
この実習生がクラスの雰囲気を変えたのだろうか?


「ロミオとジュリエット」



しんと静まり返った教室からは、物音が一切しない。それもその筈だ。演目はレミゼラブルが良いと言う話でほぼ決まっていた。


俺が押したのだ。


映画を見て感動した俺が、仲間とも同じ気持ちを共有したいと思い、周りにその意向を伝えていた。クラスのほぼ全員が俺に同意を示した。



「サウンド・オブ・ミュージカル」



手を挙げるものはいない。壁掛け時計の針の音だけが耳に届く。

決を取るのも時間の無駄だと思う。世の中、組織票が全てなのだ。多数決の原理とは、民主主義とは大きく乖離している。

中心となる人物の都合に合わせて人が動く。民意など反映されることはない。

それが、多数決の原理。全ては出来レースだ。



「竹取物語」



静寂の中、カタンと音がした方を振り向くと、が手を挙げていた。

さすがに転校したてでは空気読めないよな、そう思って前を向こうとした時、生徒2、3名がすぅっと手をあげた。

メンツを見ると、政府系企業や省庁に勤めている親を持つ奴らだった。

流行りの忖度か

政治家の娘に反感買っちゃいけないとでもおもってるのだろうか、そんな考えがよぎって、

前を向いた時、景吾は息を飲んだ。



最前列がぱらぱらと手を上げ出したからだ。
スマホに夢中な芥川以外、最終的には自分の前に座る全生徒が手をあげた。


嫌な汗が全身を流れる。
自分の鼓動が聞こえるようだった。


ゆっくりと、再び後ろに目を向ける。





「…冗談だろ」



見渡す限り全員が挙手していた。


よく知る筈のクラスメイトたちが個の意思を失ったかのように、一様に揃って天井に向かって手を延ばしている。


窓から柔らかい風が吹くと、クラス中の机にかけられた蝶型のキーホルダーが、しゃららんと音を鳴らして揺れた。



白いレースのカーテンがひらりと大きく舞い上がる。



全員が無表情で手をあげている中、1人だけ口端を上げてる奴がいた。













だった。







「きらめこうZ」

異様な空気の中、スマホに夢中な芥川の声だけがその場に響いた。











氷帝で俺に逆らう奴はいない。


そう、それは、まぎれもなく1週間前の話だ。





当たり前だった日常が音を立てて崩れていく。






これは俺の人生で2度目の経験だった。



Index ←Back Next→