「さん、いつから図書委員になったんですか?」
「今日からです。そして、今日のみです」
「難儀なことやな」
質問したのはが立っている梯子を支える鳳で、苦労を労ったのは、近くの机で芥川と一緒に読書をしている忍足だった。読書とはいっても、二人が手にしているのは雑誌だったが。
景吾が登校する日までに、学校全員の意思を統一する必要性があったは、今回人生で一番といっても過言でないほど無茶をした。
女子はの目の前で景吾に話しかけないこと。
登校初日に、権力を見せつけること。
快適で平穏な学校生活の為に、この二点をどうしても達成したかった。
その為に、無理な公約をかかげてしまい、今は後始末に追われている。そう今回の騒動に協力した者の頼み事は可能な限り叶えるということで、は魔法のランプの中にいる魔人がいかに偉大で寛大かをものの数日で味わう事となった。
「だいたい、図書委員がテニス中毒の景吾さんに好意を寄せるわけないじゃないですか」
「その心は?」
「どちらもライブラリーするからです」
本をしまいながら、面白くもない言葉を返すに、それでも忍足はくつくつと笑った。
補助金対象者外なのにとりあえず申請してくる連中はどこにでもいるが、これはひどかった。前面協力させたクラスメイトならともかくだ。
下級生の全く関係ない女子まで、実は景吾のことが好きだったとどさくさに紛れて名乗り出て、話しかけないからといって面倒な用事を依頼してくる。先輩なめてんのか!
制限を設ければ良かったと後悔しても後の祭りだ。
政策も含め何事もそうだが制限範囲を決めるのは難しいのだ。各利権がかかわってくるし、悪用する奴がいることも想定内として受け入れねばならない。
バラマキって大変だ。
胸ポケットにしまっているメモ帳には、卒業するまで終わるかわからない量の生徒たちの頼み事がリスト化してあって、まだ4行目だが、既にうんざりしてる。
「あの時の景吾の顔、俺の思い出に永遠に残るわー。最高やった」
「私としては、快気祝いのサプライズのつもりだったんですけどね」
「くくりとしては、悪質なフラッシュモブやな」
「あの後、かなり怒ってましたね」
「さんが努力家なのは、よう分かったけど、他校の女子まではコントロールできへんようやな」
忍足が指さす方向を本と本の隙間から覗くと、遠く離れた席に座っている景吾がいた。そして、その横で弁当を持った女子が一人できゃっきゃっと騒いでいる。
その光景を見たは、ぎりりと爪を噛む。
ああ、口惜しい。
立海でしくじらなければ、邪魔が入らなければ、まだこんな気持ちに苛まれることもなかったかもしれない。
自分に、仁王のような男が側にいれば気が紛れた筈だ。愛されてさえいれば、きっと幾分か満たされて、ここまで惨めな気持ちにならないし、不安にもならなかった。
なのに、
転校なんかさせて、見たくもないスクールカーストや恋愛偏差値をまざまざと見せつけられて、耐えられるわけがないのだ。
黙って引き下がる訳もいかないから、一部の生徒には背後に親の力もチラつかせて従わせた。
今回はバラマキ公約で、なんとかその場を凌いだけれど、それもいつまで持つか分からない。依頼は確実にこなさなければ反乱者が出てくるかもしれないし、そもそも、多感な年頃だ。そろそろ景吾自身が、誰かに想いを寄せる可能性も高い。
それを、こんな近くで見ろというのだろうか。
なんて残酷なのだろう。
隙間に適当な本を入れて目の前の視界を遮ると、すかさず、鳳が「その本はそこじゃないですよ」と咎めたが、その助言は無視して、は梯子を支えていた鳳を高圧的に見下ろした。
「『沈黙の春』がお勧めです」
「え?」
「感想文の為の本をお探しなんでしょう?文学小説の中で恋愛ものも長いのも嫌ならこれがお勧めです。生物学者が農薬と食物連鎖について語ったエッセイで、著者が生物学者で、翻訳者も直訳を好む方なので複雑な表現がない。1時間で読めます」
梯子を下りて、棚を移動し本を探し、首を傾げてから適当な本をつかんで鳳に渡す。目的の本はなかったようだ。
「『春琴抄』です」
「これは?」
「エロいです」
が転校してきてから、1ヶ月が経とうとしていた。
今、学校で話題になっている有名な占いの館に行きたいと連れられて、その最後尾に並ぶのは4回目だった。順番を待つばかりで、未だ店に入れたことはない。先週の日曜日は、あと一組というところで、景吾の塾の都合で切り上げなければならなくなった。
「これ、予約できないのか?」
「並んでる時間も含めて楽しむものですよ」
「4回目だと、さすがに苦痛だ」
先日の悪意のあるパフォーマンスについては放課後になってからクラスメイトがいる前で叱りつけた。「怖っ」と漏らす奴らもいたけど、むしろお前らの方がこえーよと簡単に裏切りやがってと反論したかった。
俺だからまだ良いけど、いじめの発端になる可能性だってあるし、今後絶対しないことを約束させた。その後、実習生には演目をレミゼにして欲しいと言ったがそれは一蹴りされた。
は、改心したのか、落ち着いた様子で学校生活を送っていた。
ただし、俺に対する異性からの告白がピタリとなくなった。ピタリとだ。構内で響いていた黄色い声援は、男子のみの野太い声に支配されるようになった。
遠征の時だけは、相変わらず男女問わずもてはやされたが、氷帝に戻ると女が誰一人見向きもしないのでむしろ落差が目立った。女子って裏表あって何考えてるか分からないと、この時初めて思った。
時計を見ながら、メモを取っているを見て、怪しんで覗くと、混雑する時間帯と待ち時間が書かれていた。よく分からないが最近人助けをしているようでその一環かもしれない。
ただの人助けなら問題ないのだが、それだけでは終わらないのが彼女だ。また何を企んでるんだろうと訝しむ。
「そういえば、景吾さん、そろそろおじい様との昼食会の時間じゃないですか?」
「ああ、あれは中止になった」
はメモ帳から目を離すと、店の入り口と自分の立っている位置を確認し眉を顰める。
「このままだと、お店に入ることになりますが、占いに興味があるんですか?」
「お前は何しにきたんだ」
何故か困り顔でが頭を抱えている間に、順番が回ってきて、彼女は失礼にもしぶしぶながら占い師の前に座った。二人の前に座っていた占い師は、想像以上に若くて、黒いベールで口元は隠されていたが年下のようにも見えた。
「労基に違反してませんかね」とつぶやく、をちらっと見て占い師は薄い笑みを浮かべた。
「ご希望をお伺いしましょう」
「彼女のことを視て欲しい」
澄ました顔で答える景吾とは裏腹には嫌そうに口を曲げた。
「では、始めます」
シルク生地のテーブルクロスの上に手際よくタロットと並べていく。
「視えます。これほ黒い影。眩し過ぎる光の代償に伸びる深く濃い影が視えます。いつも拭えない大きな不安と孤独」
少し引いた様子では、抑揚をつけて語り出した占い師を見やった。
「また過去に大変な目にあったことがありますね。そう重大な事件に。それも影響しているようです」
誘拐事件のことを指しているとも捉えられるが、あまりに曖昧で、これであれば誰にでも起こり得る事件を想起させることもできそうだ。
小学校低学年の時に学校で漏らしたとか、野球の大事な試合でグローブを忘れたとか。本人からすれば、重大な事件だ。
占い師の常套句なのだろう。
こちらが不用意に口を開かなければ、情報は漏れない。ヒントがなければ、それ以上は話せない。諦めて口を噤むだろう。
タロットをひっくり返しながら、の考えを見透かすように占い師は目を弧に描いた。
「信じるかどうかは貴方次第。今日、身近な人の心に変化が訪れ、そして、大きな事件の種となるでしょう。けれど元凶は他にあります。注意深く周りを見ることです。」
お告げのような話が終わるとは、露骨に胡散臭そうな顔をした。続いて、景吾が問いかけた。
「こいつの運命の相手も視れるんだろ?」
「知りたいですか?」
はばっと景吾を見た後、占い師に向かって大きく首を横に振る。慌てて上手く口が回らなかった。
「ああ、勿論」
咄嗟に耳を塞ぐ。
「で、結果どうだったの?」
「勿論、雅治様に決まっているじゃないですか」
「すごいね。名前まで当てちゃったの」
馬鹿にしたように冷笑したのは幸村だった。先日の試写会のドタキャンの埋め合わせとして、は幸村と鳳を家に招待し、タピオカと分厚いホットケーキを振舞っていた。勿論、作ったのはではなく、料理人だが、ホテルオークラから引っ張ってきた人間なだけに、味は一流だ。
「鳳さんも遠慮せずに召し上がってくださいね」
「ありがとうございます。でも、タピオカってどうも苦手で。カエルの卵みたいですよね」
それを聞いたと幸村は、何も言わずにコップを机に置いた。は口を軽くナプキンでふいた後、近くにいた使用人に新しく三人分の紅茶をお願いした。
「あの占いの館、すごい人気なんですよね。うちの姉も彼氏と行った翌日に別れてました」
「不人気の間違いじゃない?」
新しく出てきた紅茶を飲みながら、幸村が鳳の話に突っ込みを入れる。
「運命の相手を見つけたみたいです」
「占い師に言われたことを真に受けるなんて、なんて浅はかなお姉さんなんでしょう」
「結果を聞いて浮かれてたがいう事じゃないけどね」
「同情します。兄弟とは縁を切れませんからね。うちの愚兄も政党幹部や支援者が用意した婚約者と別れて、今は女子アナと結婚したいって騒いでました」
「さんのお兄さんのことはともかく、振られた姉は塞いでて可哀そうです。恋愛なんかしなければ良いのに」
姉を非難したをやんわり目で否定してから、ホットケーキを頬張る。口に甘いメープルシロップの味が広がる。
「確かに、しないで済むならばしないに越したことはありませんね。大半の人は、その気持ちに気づいたと同時に失恋するんです。両想いなんて、幻想か妥協の産物です」
「仁王にも振られ続けたしね」
幸村がからかうように言うと、鳳が持っていたフォークとナイフを落とした。
「・・・さっきから、言ってたの、立海の仁王雅治のことだったですか?」
「誰だと思ったんです?」
「福山雅治のことだと」
「誰が好んで50代既婚者を運命の相手にしないといけないんですか」
その有名人が結婚するときに事務所の株価がストップ安を記録し、時価総額が10%以上目減りしたことを考えると、10代でも憧れを抱く人間がいてもおかしくはない、そこまで考えていた・・・わけではないだろうが、なんとなく芸能人だから、運命の相手になれて喜んでいるのだなと思っていた鳳は、ただの他校の3年生と知って衝撃を受けた。落ちた食器を拾う事もなく、立ち上がって机に勢いよく手をつくと、声を張り上げた。
「一体、何考えてるんですか!?なんで、そんなに無神経なんですか。部長という婚約者がいるのに、余所見しないでくださいよ!そもそも今日だって、俺がいなかったら、幸村さんと2人きりだったわけでしょ。それってどうなんですか?本当に何にも考えてないんですよね。幸村さんも軽率です。さんには部長がいるんですから!」
景吾ここにいたら、鳳に盛大な拍手を送っていたかもしれない。できた後輩だと褒めちぎっていたかもしれない。が、ここにいるのは幸村とだった。穏やかが代名詞であるかのような鳳の怒号に、二人は呆気ににとられたまま固まっていた。その後2時間くらい説教を聞かされ、18時に時計の鐘がなるまで続いた。
もうすぐインターハイの季節になるため、グラウンドはテニス部に限らずいつも以上に熱気に溢れていた。その中に、陸上部の練習に混じって、走り込みを行っているの姿があった。そして、その隣のレーンにはミス氷帝として持て囃されてる女子がいた。
屋根付きベンチに座って、テニス部員に指示を出していた景吾だったが、背後のフェンス越しに、休憩中の陸上部員が2人を比較する会話が聞こえてくると、苦々しい顔をした。
跡部の婚約者なのに、ミス氷帝の足元にも及ばない。跡部に同情する。
要約するとそんな内容だった。
人望もあり、なんでもできる景吾に対するやっかみだった。太刀打ちできない相手に対する僻みと妬み。その矛先が、唯一の弱点とも思える「普通」の婚約者に向かう。
想定内だった。を呼べば、こうなることは、わかってた。俺は気にしない。彼女が婚約者になってから、何度も言われてきたことだ。
だけど、には酷だったかもしれない。
威勢は良いが、不安定で脆い女なのは知っている。自己肯定力だって高くない。
隣のグラウンドで走るをみて、眉を垂らす。
趣味の悪い快気祝いで、そんな心配はすっかり吹き飛んでしまっていたが、もっと、しっかりしなければ。そう思った。
「何が違うんですかね。俺にはさんの方が良いと思う。芯を持ってて、凛としているし、本当は優しい。それに・・・」
思考に耽っていた景吾の意識を戻したのは、ぬうっと木陰から現れた鳳だった。驚きつつも、彼の話に景吾は勇気づけられ「確かに」と満足げに頷く。
が、その話が陸上部の5分休憩が終わってもなお続くと、景吾は「宍戸が呼んでたぞ」と適当な嘘をついて彼をベンチから追い出した。
それから、各部員に一通り指示を出し終えると、後ろで待機していた樺地に声をかけた。
「樺地」
「ウス」
「後で鳳に良い眼科を紹介しておけ」
「・・・ウス」
「宍戸さん、お待たせしました」
「どうした、長太郎」
素振りをしていた宍戸が手を止めて鳳をみるが、にこにこしているだけで話し始めないので、しばらくしてから、お互いに首を傾げる。天然なところのある鳳に慣れている宍戸は埒が明かないことを知ると、フォローする形で会話を繋げた。
「そういえば、もう読書感想文出したか?」
「あーはい。さんの勧めで結局2冊読みました。ちょっとグロくて難しかったです」
「それはアイツが選んだ本だからだ。なんで、俺に相談しなかった」
首を横に振って真剣な表情を向けると鳳は申し訳なさそうな顔をした。
「俺、宍戸さんのこと好きです。憧れてます。でも、小説に書かれてるような、それ以上の感情はよくわからなくて」
「・・・長太郎」
鳳が日頃から自分を慕ってくれていることは分かっていたけれど、改めて面と向かって言われると照れくさい。真っすぐで一点の濁りもないその目から語られる敬愛の感情。嬉しそうに頭をかいてから、宍戸は自分が知る限りのことを教えてやろうと思った。自身に経験がないので、他の者の意見だが、と前置きし口を開く。
「一気に春が押し寄せる感じなんだって。五感がさえ渡って、普段はかげない花の香り、小鳥の鳴き声が聞こえて世界が彩ってくらしい」
「なんだか素敵ですね」
鳳がうっとりした表情をみせると、宍戸も嬉しくなった。調子に乗って、経験者でもないのに恋の伝道者になったつもりで、言葉を続ける。
「あと、好きな奴からは目が離せなくなるんだ」
そう言ってから、鳳の視線がわずかに動いたので、宍戸は頬を緩めた。視線の方向には、グランドで走っている陸上部員が何人かいて、顔だけでなく性格も良いと評判のミス氷帝もいた。初恋の相手としては十分だろう。
「心が揺さぶられて、時々嫌な気持ちになったり、怒ったりすることもある」
知ったかぶりもここまでくるとペテン師だが、後輩の初恋を前についつい饒舌になってしまう。ベンチの方から、景吾と忍足が談笑しながらこちらに向かって歩いてくるのが見えたが、構わず話し続ける。
「訳も分からず誰かを憎んだり」
そこで、鳳が景吾を複雑な表情で見ていることに気付き、宍戸は、慌ててもう一度グランドを見る。ミス氷帝の横でふざけて笑っている女がいた。鳳に本を選んでやった女だ。心臓が早鐘を打つのを感じ、持っていたタオルで、額にかいている汗を拭う。
ドッドッドッと心臓音が聞こえるようだった。自分のものか、鳳のものか判別できない。もしかしたら、両方の音かもしれない。煩いほどの心音を感じながらも、それでも、忍足と跡部の会話が耳に届く。
「結局、マリーちゃんの運命の相手ってだ誰やったんや」
「当然」
跡部の声がやけに大きく響く。
「この俺様だ」
跡部の高笑いにかきけされた鳳の歯ぎしりの音が、宍戸の耳には、しっかりと聞こえてきた。
農場ではめんどりが卵を産んだが、雛がかえらない。農夫は豚がちっとも育たないと不平を言った。小さく生まれる上に、たった2、3週間で死んでしまうのだ。リンゴの花は咲きそろったのに、蜂の羽音はしなかった。花粉は運ばれないので、リンゴはならないだろう。
薄気味悪い。鳥たちはどこへ行ってしまったのか。
春がきたが、沈黙の春だった。
沈黙の春 -レイチェル・カーソン-