脱線

20





「おい、見ろよ。跡部さんとさんだ」



朝早く学校に着いた忍足は、樺地を呼んで校庭でラリーをしていたが、近くを歩いていた男子が大きな声を出すと、釣られて門の方を見た。


そこには、の景吾の姿があった。車から降りるの手を跡部が支え、その光景は、これからカンヌ映画祭でレッドカーペットを歩くようなそんな異質な雰囲気をまとっていた。

モーゼの十戒のようには仰々しいものではないが、自然と2人の導線を避けるように、周りが動く。誰も指示していないのに、まるでマスゲームのようだ。




「やっぱ、ちげーよな。さんさー、最初見た時は思ったより普通だなって思ってたけど、こう見ると跡部さんの婚約者だわーって思う」


「喧しい女子たちと跡部様親衛隊を1週間で抑え込んだ訳だしな。普通ではないよな」




下級生たちの話を聞きながら、忍足は校舎に向かって歩く2人を目で追う。いつもであれば、自分の鞄でさえ樺地に持たせる景吾が、の鞄を持っていた。

彼らが会話をする時、は大抵無表情で景吾は大抵怒っていたが、それが普通のようだった。いつの日だったか、なんや喧嘩ばっかりやな、と忍足が指摘すると、仲が良いんだよと景吾に返された。犬も食わない痴話喧嘩だ。




跡部と忍足はそれなりに古い付き合いだった。初めて会った時にメガネ呼ばわりされてから、忍足と名前を認識してもらい今日に至るまで、苦楽を共にしてきたと思ってる。

テニスだけでなく、プライベートだってオープンにつきあいがあったし、誕生日会にも毎回ではないがお互い呼び合っては騒いでいた。

けれど、中学に入るまで跡部は婚約者の存在を隠していた。




あれは中1の冬くらいだっただろうか。

女子から何度告白されても頑なに拒否する景吾は実はゲイなんじゃないかという噂がテニス部内でまことしやかに囁かれた。景吾の態度が気に入らない上級生からのやっかみもあって、噂はあっという間に広がり、全校生徒が知ることになる。

景吾が否定しないことにも拍車をかけた。周りがそういう目で見るようになったのだ。


ゲイであることで後ろ指を刺される風潮は、倫理的には問題だ。それはそうとして、実生活として考えると、やはり他の者のことも考えなければならない。

自由の国アメリカのメジャーリーグでも、自身がゲイであることを公表した選手がいたが、チームメイトが一緒のロッカールームを使いたくないと抗議したらしい。この場合、抗議した人間が倫理的に間違っているとは言い難いだろう。自身の裸を性的な目で見られることに、嫌悪感を持つものは大勢いる。

これと同じような問題提起をして、テニス部の上級生は景吾にロッカールームを使わせないようにした。

景吾は気にしてないようだったが、日に日に当たりの強くなる上級生に、反抗的になっていった。最終的には当時の部長に、辞めるよう打診されたようだ。監督から聞いた話なので、ここらへんの細かいことはよくわからない。

でも、翌週何事もなかったように、部長は景吾に声をかけた。

あの時の表情を今でも覚えてる。それまでどんなに先輩たちの嫌がらせを受けても、気にも止めなかった景吾が見せた、苦虫を潰したような顔。


「皆聞いてくれ。跡部には婚約者がいるんだ。勿論女の子な。」


だから、女子からの告白を断ってたのか、と同級生たちは納得し、何人かの上級生たちは面白くなさそうに舌打ちをした。


後から思えば、当時の部長の父親は中央銀行に勤めていた。推測だが、さんの父親と接触があったのかもしれない。

写真見せろよーと同級生たちがからかっても、その日景吾はずっと不機嫌で誰とも口を聞かなかったが、翌日になると、何を思ったのか吹っ切れたように婚約者の愚痴をこぼしていた。

今までずっと口を閉ざしていたくせに。

もしかしたら、彼はずっと話したかったのかもしれない。それでも決して、婚約者の写真を見せることはしなかった。


「写真見せるくらいええやん」

「見てどうするんだ?」

「美人か知りたいやん?」

「知ってどうするんだ?」



じっと見てくる景吾に口を噤む。軽口をたたいたら絶交されそうな感じだった。


「お前らに手は出せない。手を出させない。見ても知っても意味がないだろ」


ゾクゾクした。


さすが、跡部様や、そう思った。そこまで言わせる婚約者に興味を持たないわけがなかった。

結果、会ってみて、話してみて、しっくりきた。本人の自覚が欠けているようだが、跡部の隣にいても遜色ない人物は珍しい。


こいつやったんか、どこか納得できた。





********








「校内で盗撮カメラが6つも見つかった。どういうことか分かるか?」

「あと1つでシェンロンが出てきます」

「・・・内部の犯行ということだ」

「犯人はお前だ!」

がチョークを景吾に向けると、黒板消しを投げられた。








生徒会室では月例集会が行われていた。いつもと違い、主要な役割を務める書記、副会長、会計係の3人が不在で代わりにがいた。本日1人3役やりますので、皆様よろしくと勝手に副会長として集会を始めてしまい、少し遅れてきた景吾の機嫌を損ねていた。生徒会は、行事の進行とりまとめ、校内で起きている問題を解決する事が目的として活動をしている、雑務が多く確かに忙しく大変だ。役付だと輪をかけて苦労する。


だからと言って、身代わりを頼むことはないじゃないか。先日、がメモ帳に書かれた「人助けリスト」を隠れて覗いたが、碌な依頼は無かった。その依頼の中に、生徒会委員の代役があったとするならば、委員会を率いる会長として情けなく感じた。


1人だったら、に依頼できないが、3人一緒だから欠席する罪悪感も和らいだのだろう。赤信号みんなで渡れば怖くないの典型だ。怒りを感じながらも、負担が大きすぎたのかもしれないと少し反省し、業務分担を再考しようと思った。


下駄箱前に置いてある目安箱の結果を集計した資料をが配り、教頭からのそれに対する提言や連絡、予算について読み上げていく。1人3役だと、何やら忙しそうだ。と、会長ながら他人事のように思っていたが、資料に校内で盗撮カメラが見つかったという一文を見て驚く。大事件じゃないか、そして冒頭にもどる。




の頭にぶつけた黒板消しを拾ってから、生徒会役員全員を見渡す。


「盗撮犯の件は大人に任せるとして、資料にもあるように、最近学校周辺での不審者情報が多い。生徒会としては、全校生徒へ内容の周知、見回りの強化が急務だ」

「私に良い案があります」

「却下。他に誰かいないか?」



が間髪入れず手を挙げると、景吾は話を聞くこともなく取り下げさせた。だが、数分間誰も手をあげず下を向いている状態が続くと、のチョークで白くなった髪を優しくはたいた。


「よし、言ってみろ」

「肝試し大会をやりましょう」

「却下」

「変態の狙いは我々です。その狙いが、夜歩きまわっていたら、きっと現れるでしょう。そこを捕まえるのです。全員参加を強制すれば、周知の徹底と見回り、犯人逮捕が同時にできます」

「却下」

「なぜです?」

「生徒を囮に使って良い訳ないだろ」

「そうですか?皆さんは、ご意見ありますか?」



と景吾が辺りを見回してみると、先程まで沈黙していた生徒たちが口を開き、次々と肝試しについてアイディアを出し始め、盛り上がっていく。その目はやる気に満ち溢れている。



「決まりですね」



は口で手を抑えながらも、ふふふと愉快そうに笑い、景吾は資料で顔を抑え項垂れた。







********





プログラミングやオンラインでの英語教育にも力を入れる一方、伝統や歴史文化も同様に重んじる氷帝では、技術と家庭科の授業が男女別となっていた。選択制にしない所が昭和的で、最近は保護者からのクレームが絶えないほど評判が悪かった。



家庭科の教師は外部委託されており、生徒たちを叱らないことで有名だった。案の定、クッキーを作っている最中でも、女子たちは料理そっちのけでおしゃべりに花を咲かせていた。に至っては、釣り針にこんにゃくを付ける作業に勤しんでいた。



「ねー、アタシ、元カレにストーカーされてるの。メチャクチャ着信着てて、超怖いの。これって不審者情報に加えた方が良いのかな?」

「アタシもー!愛されるって罪よねー」

「2人とも同じ顔だからストーカーも区別がつかないのでしょう。安っぽい愛ですね。実は、私も先日から非通知の無言電話がかかってくるんです。ストーカーかもしれません」

「それ、ルドルフの子じゃない?がフルボッコにしたって話、聞いたよ。きっと怨霊になって携帯鳴らしてるんだよ。塩ふった方が良いよ。塩」



の返答にムッとした同じ班の双子の少女たちは、タッパーに入った塩をの頭にまき散らし、すかさず先生から注意を受けた。

各班に分かれた女子たちは、最近の芸能人、教師や男子の悪口で盛り上がっていたが、彼女たちの班ではストーカー自慢が繰り広げられていた。


その双子は社交界でもお馴染みのメンバーで旧知の仲だった。祖父が経団連の会長を務める2人は、社交界でも群を抜いて我儘で横暴なため、周りから敬遠されていたが、いつも隣に景吾がいて、しかも自身もその傾向があるは何の違和感なく接していた。


ついでに、班にはもう1人メンバーがいて、班長を担当していたが、他の3人が不真面目なため1人黙々と作業をしていた。




「でも、変質者ってどんなんだろね?は盗撮テープ見たんでしょ?イケメンだった?」



盗撮テープに犯人の顔が映っていたらマヌケだろうと思いながら、こんにゃくを持つ。


肝試しの仕掛けづくりにここ最近は忙しく。夜もまともに寝れていない。景吾曰く碌でもない人助けリストの、24番から31番は「蛍を見る会」を主催する美化委員たちの依頼だった。毎年行われる「蛍を見る会」だが、参加者は一ケタで今年こそたくさんの人に来てもらいたい。そして感動を分かち合いたいというそんな内容が並んでいた。


そこでは、「肝試し大会」と銘打ち、予算、集客、人手の力を生徒会から引っ張ってきて、「蛍を見る会」の会場をゴールとする企画を立ち上げたのだった。

計画は完璧だったが、人手に難があった。目立ちたがり屋の生徒会は地味な仕事を積極的にやろうとする者が少なく、裏方業務はほとんどにのしかかってきたのだ。


「あと何個作るの?」

「33個です」

「もう良くない?変質者がいる校舎を、夜に歩くだけでも十分肝試しだって」

「意外とみんな楽しみにしてるよねー。アタシ新しい浴衣買っちゃった。これで変質者の目を釘付けよ!」

「釘付け、いーね!」



双子の1人が握った包丁から放たれる小気味良い音と共にこんにゃくは刺身にされ、もう1人がの口に放り込む。


刺身こんにゃく用でもない為、全く美味しくない。



、ここに砂糖入れて」



班長に、小麦粉と玉子を混ぜ終わったボールを向けられたので、はタッパーを開け、スプーンを使うことなく適当な量をそのまま流し込んだ。

盗撮ビデオは教頭が管理していたが、忍足がUSBで持ち出し、一部の生徒は中身を見て知っていた。教師同士の不倫、教師と生徒の禁断愛、不順異性交遊などが映されていて、犯人が観賞用ではなく脅迫用に撮っていた可能性もあると思われた。だけど、被害届は出ていない。教頭も大事にはしたくないから、表に出さない。全ては闇の中だ。


オーブンのタイマーが鳴り、班長が天板を取り出すと、香ばしい匂いが周囲に広がった。


「作ったやつ誰が食べるの?こないだまでは、ゆで卵とかお米の炊き方だったから、普通にお昼にたべたけど、クッキーってどうなの?アタシ、太るし食べたくないなー」

「アタシはとりあえず男子にで与えとこっかなー」

「それ、いーね!は跡部サマに渡すんでしょ?」

「さあ、どうでしょう」

「親が決めた婚約者の割には仲良いもんねー。今回、他の女子と口聞けないようにするとか、徹底したよね」

「跡部サマの親衛隊も真っ青よ。優位な立場にある婚約者のくせに、恥も外聞もなくてねー?」

「必死さに根負けするよねー?」



仲良く手を合わせながら、じりじりこちらの精神を蝕んでいく彼女たちの言葉には黙って耐えた。口を開けば、倍返しされることは目に見えてるし、それに彼女たちは真実を語ってるのだ。


リストをこなす事に忙殺されて忘れているが、ふとした瞬間に私、何やってんだろって思うことはある。


今後の対策として、高校は女子校に行くと決めた。次はお茶水あたりを首席で合格できたらな、とでも言われるかもしれない。だが、こんな不毛な日々を続けるくらいなら、どんな試練も受けてたってやる。


廊下が騒がしくなり目を向けると2年生が体育か教室に戻るところのようだ。体操着を着た男子たちがふざけあいながらも、何人かが香ばしい匂いに誘われてチラチラとこちらを見てくるのがわかった。はその中に1人澄まし顔をしている男子を見つけ、廊下と家庭科室を遮る窓を開けた。


「日吉さん、ご機嫌よう」


それまで体育の後だと言うのに、涼しげな顔をしていた日吉だったが、の声に反応して顔が強張らせた。近寄りたくないが、が大袈裟に手を振って呼ぶので仕方なく足を向ける。部長の婚約者をないがしろにしていたという、噂が立つのを回避するためだった。


「クッキーはいかがですか?」


日吉にはそれが、魔女が白雪姫に毒りんごを渡すワンシーンのように思えた。勿論、自分が白雪姫の方だ。


「あ、結構です」

「遠慮なさらないでください」

「間に合ってます」

「愛情をたっぷりこめて作りました」

「余計困ります」


しばし無駄なやりとりをしてから、もらって話を終わらせた方が早いと気づいた日吉は、嫌々手を伸ばした。すると、急にあらわれた大きな手に腕を取られる。


「失礼だよ」


姫を毒りんごから守ったのは王子、いや、鳳だった。

だが、安心してはならない。
日吉は、王子が魔女に好意を抱いてる事を知っていた。


さん、俺にください」


突然現れ、クッキーをねだってくる鳳に、は下級生って図々しいけど可愛いなと素直に思った。同時に切原のことを思い出し、ついでにその従姉と彼氏まで想像が及ぶと、そうでもないなと、考え直す。切原のせいで、下級生はもはや災いを呼ぶイメージしかない。


「鳳、手を離せ。さんは、俺にくれるっていったんだぞ」



これ以上深みにハマらないようにするのは、次期部長でもある自分の役目だと思ったのか、それとも、きっかけを自分が作ってしまったという負い目があるからか、日吉は必死になってクッキーを渡さないようにする。



「日吉は断ってたじゃん。ずっと見てたよ!」


「気が変わったんだよ。てか、ずっと見てんなよ!ほんと気持ち悪りぃな!」



掴みあいの喧嘩をしだすと、双子の1人が隣に立って、「私のために争わないでー」と茶化し、もう1人は鳳より背が小さく弱そうな方の日吉を「死守―!」と応援した。



ー!塩と砂糖間違えたでしょ!しょっぱ過ぎだよ!」


家庭科の教室の奥から班長の声が響くと、2人の小競り合いは終止符を打った。言い合いをやめた下級生2人は、同時に手を後ろに隠し視線を泳がす。


「明日練習試合あるし、今回は、ちょっと止めておこうと思います」

「俺、お腹弱いんですよね。・・・でも、手作り・・・うーん」


日吉は両手をあげて先程よりもハッキリ拒絶を示し、鳳は自身の健康について心配しながらも、まだ迷っているのか何やらもじもじしだした。因みに、この時点では鳳にクッキーをやるとも言っていないし、もっと言えば、一言も声をかけていない。




「よう」



退散しようとしていた2人のすぐ後ろから、声をかけてきたのは景吾だった。は、自身の手に自然と力が入るのを感じた。



「景吾さん、金属加工は上手くいきましたか?」

「勿論完璧だ」

「さすがですね。将来、立派な工場長になってる姿が目に浮かびます」

「なってたまるか。そっちはどうだった?」

「勿論ほぼ完璧です。いります?」



素手で持っていたクッキーを手際良く透明袋に入れてポケットから取り出したピンクのリボンを付ける。下級生の2人は微妙な顔をしながら、目の前を通って景吾に渡されるクッキーを黙って見ていた。


「ほぼな」


景吾は受け取った、外観は一見普通に見えるクッキーを、まじまじと見てから鼻で笑う。



「どうせ塩と砂糖でも間違えたんだろ?」


そう言うと、の髪についた塩をはたいてから背を向けて教室に戻っていった。






「あっまーい!」

「クッキーはしょっぱーいのにね!」


双子がの両隣に立ち、肩にぽんと手をかけると、は棒立ちしている2人の下級生を冷たい目で見た。


「いつまで突っ立ってんですか?」


先ほどとは打って変わった様子で、しっしっと犬を追い払うように手を振り、ピシャリと窓を閉めた。日吉に関しては自分から呼びつけていたにも関わらず、酷い仕打ちとしか言いようがない。


他の同級生はもう教室に戻ってしまい、日吉と鳳しかいない廊下は静かだった。ぽかんと口を開けていた日吉もチャイムがなると、足を動かし、鳳もその後をとぼとぼと追う。




さん、耳まで真っ赤だったな」

「うん。そうだね」


あからさまに肩を落とす鳳を、日吉は呆れた目で見た。








残ったクッキーをサランラップに包みながら、気持ちを落ち着かせる。ざわざわする。自分でも浮ついているのが、分かる。足が地についている感覚がなかった。



いつからだろう。こんな感情に悩ませるようになったのは。

小学校の時の誘拐事件あれが発端だったことは間違いない。


両親が離婚して、父は家に帰ってこなかった。裕福だったし、使用人もいるので生活には困ったことがなかった。その頃には亜久津という悪友も捕まえていて、人生は最高とは言えないものの満足できるものだった。


誘拐事件の後、メンタルケアも含めて不在がちの父親に代わり景吾の家で数週間過ごした。暖かい家庭の中で過ごす日常は、想像より居心地が悪くなかった。彼らが私を本当の家族のように接してくれたからに他ならない。恥ずかしくもあり、でも嬉しかった。

跡部家を離れる最後の日、景吾は言った。

『次一緒に住む時は、本当の家族になる時だ』

まだ覚えてる。忘れられない言葉だ。











「お前何番だった」

扉を開けると目の前に景吾がいたので、驚いたと同時にクッキーを落としたが、景吾が器用にも地面に着地する前にそれを拾いあげて返してきた。


気づかぬうちに教室に戻っていたらしい。帰りのホームルーム前だと言うのに、辺りを見ると何やら色とりどりの紙をにぎって、クラスメイトたちが騒いでいる。


「何かあったんですか?」

「肝試しだよ。お前が企画したんだろーが」

「はあ」

「男女ペアで裏山まで登るんだろ。そのくじ引き」

「あ」



失念していた。

急いで教壇の上に置かれた箱をの中を覗くが、クジは残っておらず空だった。そらから、自分の机の方を見る。既に誰かが代理で取って置いたのだろう。赤い紙が置いてあった。


忙しくて、誰でもできるような案件は関与してなかった。考えてみれば、重要なイベントだったのに。


悔しさを滲ませながら、自席へ移動する。足音で景吾が後ろからついてくるのがわかった。これからでは細工もできない。


背後からじーと見てくる景吾の視線を感じながら、唾を飲んで、折りたたまれた紙を開く。

景吾の番号が気になるが、先に聞く勇気は持ち合わせていない。





「4番ですね」


野球のバットを振るポーズをとりつつ、景吾が持つ紙をちらっと盗み見る。


…25番か。

かすりもしない。

完璧アウトだ。


そうか、と呟くように言って自席に戻っていく景吾を見ながら、は椅子に座った。手に顎をおき、外を見るふりをしながら、窓ガラスに映る生徒たちの様子を伺う。一際騒いでるグループの中心にいる女子が自慢げに25番クジを見せびらかしていた。



さて、どうするか。


その女子はIT系大手ベンチャー 経営者の娘で、典型的な成金だからか見栄っ張りで有名だった。景吾に興味を持つのも肯ける。性格はイマイチだが、なんと言っても可愛い。景吾が「蛍の会」を共にして、好きになる相手としては十分そうだ。


肩まで伸びている少し明るい髪は夕焼けの光を浴びキラキラ輝いていた。頬を赤らめて興奮している所を見る限り、その女子が番号を譲ってくれることはなさそうだ。


運命なんてない。たぶん。

そこにあるのは偶然か努力の積み重ねだ。

だから、なんとかなる。かんがえろ。


きっと、彼女には弱みがあるはずだ。

弱みのない人間はいない。本人でなくても、良い。親、親戚、友人、元カレ、過去そして約束された未来にどこかに本人にとって困ることがあるだろう。それをつけば良い。





改めて手に持つクジを見つめ、それから、机に突っ伏す。



いや、ダメだ。


4番じゃ、どう考えても25番にはならない。


彼女にクジを渡せって言いに行くなんてできない。
恥ずかしくて惨めだ。考えるだけで死にそうだ。


仁王の時にできたことが、今はできない。それは年を重ねたからなのか、相手が景吾だからなのか判然としないが、仁王と組めなかった時に感じた悔しさや憤りは感じなかった。


胸がただただ苦しい。
不安に押しつぶされそうだ。



「おい」



頭を抱えていると消しゴムが飛んできた。

今日はやたら物を頭にぶつけられる。氷帝の生徒は意外と品がない。


景吾の呼びかけに机から顔をあげることなく、顔をずらして視線だけそちらに向ける。分かっていたが席が遠い。よく消しゴムが届いたなと、どうでも良いことを思った。




「先生が来るぞ。ちゃんとしろ」



知ったことか。姿勢を正せば、くじ引きをもう一度やってくれるのだろうか。違うだろう。

そう思っていただったが、景吾の机に置いてある紙を見ると、がばっと頭を上げ、そのままの勢いよく立ち上がった。

眉を寄せてじっと目を凝らす。



「俺は立てとは言ってない。ちゃんと座れって言ったんだ」

「景吾さん、番号が!」






景吾はが突然発した大きな声に驚きつつも、ああ、これのことか、となんでもないように番号が書かれた紙を取り、ひらひら揺らした。





「4番を持ってた奴と取り替えてきた

ペアを組むなら、当然お前とだ

そうだろ?」



ニヤリと笑った彼の顔が、目に、胸に、焼き付いた。








いつも真っ直ぐ偽りのない目で自分の正義を押し通す。
はた迷惑で困った人。
人の心を揺さぶっておきながら、平気な顔をしている。




人ができないことを、いとも簡単にやってのける。




それが、跡部景吾。





私が恋する人


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