「学校生活はどうだ?」
「心配する必要もないくらいはクラスに溶け込めてますよ」
「はそうだろうな。俺の子供だけあって、孤立したことがないんだ。それよりも、呼び寄せた景吾君が苦労して後悔しるんじゃないか、心配してるよ」
平日の早朝、来客用のダイニングで、にやにやと下品な笑みを浮かべ景吾の表情を伺いながら、の父親はゴルフの素振りをしていた。月一で文春砲を受けては、スキャンダルをネタに世間の注目を浴びていた。新手の炎上商法で碌にネタのないマスコミとつるんでるのではないか、疑うほどだった。
実際に大々的には報じられてないが裏では堂々と新聞に軽減税率を図っている。テレビ局と新聞社は互いの株式を持ち合っているからニュースでは取り上げない。ガスや電気など生活必需品は増税したにも関わらず、新聞には増税しない、中国などの社会主義国から見れば慎ましい言論統制だろうが、資本主義を掲げている国においてはフェアとは言い難い。
「君がを転校させたいと頭を下げてきた時は驚いたよ。俺は君が婚約を嫌がっていると思っていた」
「俺は現実を受け入れています」
「さすが、さとり世代」
人差し指で刺されて、嫌な顔を隠さない景吾は仏頂面で用意されたコーヒーを飲む。の父親は人を不愉快にさせる天才なのでこれまでは必要最低限の接触で抑えていたが、が氷帝に来るようになってからは月に数回は顔を合わせていた。テニス部の朝練の際景吾が学校の送迎で迎えに来るようになったからだった。ただその日、はアーチェリー部の掃除があるとかで朝早くに出てった。メールで良いから一報入れておいてくれたら、嫌いな顔を見ることもなかったのにと、恨めしい気持ちを抱く。
ダイニングに置いてあるテレビでは、が録画して毎週欠かさず見ているという料理番組が移っていた。身長の高いイケメンモデルが長い腕を伸ばし、やたら高いところから塩コショウなど香辛料を料理にかけていくが、そのほとんどが皿の外に落ちていくようだった。
「そういえば、アメリカの大手証券会社が来月当たり倒産するらしいぞ。昨日知らせが入ってな。一応オトモダチとして跡部さんには言っておいたよ」
彼が言う『跡部さん』は景吾の父親ではなく祖父を指していた。顔合わせの時も、それ以降も、の父親が景吾の父親とまともに会話をすることはなかった。まるで、話す価値のない人間とされているようだった。この世界ではよくあることだから、景吾もそこまで気に留めなかった。社交界でも本当に上位のステータスホルダーからは景吾の父親はその存在を無視されることが度々あった。祖父に見放された父と話すことに抵抗を覚えるからか、落ちた人間と会話すること自体憚られることなのか、景吾にも一部の大人たちの線引きの仕方については分からなかった。
「今回は我々のほうは準備不足で業界には迷惑をかけそうだから、代わりに謝っておいてくれ。救済措置は一切ない。今すぐ株と二流不動産は現金化する、それくらいしか逃げ道はないだろうな」
景吾自身もお年玉と小遣いの範囲で株取引をしていたが、そう言われても現実味がなかった。その不況でどこまで株価が下がるか分からないが、インフレは続くし、株価はいつか戻る。それは歴史が証明していて、慌てることはないと思ったし、なんなら良い投資機会とも思えた。
「大きなニュースになるぞ」
特番が組まれたら来月はこのイケメンの料理番組は潰されるかもしれない、人生の些細な幸せを奪われたはきっとその証券会社を恨むだろうな、と景吾は他人事のように思った。
その数週間後、彼女同様、いやもっと激しい憎悪を持って世界がこの金融機関を罵ることになるとは、この時知る由もなかった。
世界が変わる時、大抵の場合はスパイが関わっている・・・らしい。
「オイラは北海道から来た椿川学園のスパイだ。氷帝のテニス部の情報を聞き出して報告するのが任務だ」
それは人生でも忘れられない自己紹介だった。これが採用の集団面接だったら、まず最初に注目を浴び、即座に落とされる対象になるだろう。その位、ダメさが際立っていた。
中2男子が馬鹿なのは、覆しようがない世の中の常識だ。自意識もすこぶる高い。
景吾さんがインサイトとか言いながら、玄関の鏡の前でキメ顔をしていた時も、亜久津が土手で素振りをしながらなんか叫んでいた時も、見て見ぬ振りをしていた。男子って、そんなんだよね、って感じで、深く考えることもなかった。
けれども、中3にもなって、しかも女子が、一人称でオイラを使うのはどうなんだろう。別に非難している訳じゃないけど、なんだろ。美人過ぎてストーカー製造機になってしまった女子の新手の処世術なのだろうか?美人業も大変だなと、は半笑いをしながら思った。
北園寿葉という女子は、他校の生徒であるにもかかわらず景吾の周りを徘徊し、ことあるごとに弁当を提供しようとする迷惑で邪魔な人間だった。勿論最初は目障りだったため、どうにかしないといけないと言う思いもあったのだが、その美貌とは裏腹に言葉遣いがなってない上、独特な一人称の使うため、敵視しなくなっていた。これと景吾がくっつくことは、さすがにないだろうと判断していた。それがの彼女に対する評価だった。
「お前もスパイなんだろ」
濡れ衣だが、情報経路は忍足だろうと予想できた。悪趣味なイタズラを好む人間は限られている。 氷帝ではの他には彼しかいない。
「西のスパイ、コードネームはマリー007なんだってな」
「西ドイツにいた覚えはありませんが」
「とぼけるな!神奈川県の立海から来たと聞いている」
「はあ」
跡部景吾の婚約者だとは聞いていないのだろうか?その辺の生徒に声をかけて確認できるくらい有名な情報だった。
「敵の敵は味方で、昨日の敵は今日の仲間。共闘するぞ」
敵の敵はだいたい敵だし、昨日の敵はやはり今日も敵である可能性が高い。よって、普通は共闘しない。
「忍足さん、貴方のせいで、しょうもないスパイごっこに巻き込まれているんですよ」
「堪忍なー。せやけど、ハニトラ作戦てさん的にええの?」
廊下の端で食パンを加えて待ち構えている北園を、向かいの教室から双眼鏡で見守っていたは、近くを通った忍足に声をかけ、ついでに文句を言っていた。北園はと協力しあい、氷帝の情報を手に入れようと持ち掛けてきた。そして、情報入手の手段として、景吾へのハニートラップを仕掛けることを提案したのだ。勿論、最初は断った。
それから、景吾へ毎度断られる弁当を届ける彼女にフードロスに関する問題提起をし、作戦を諦めさせようともした。しかし、たかが中学テニス部の情報を取りに、北海道から遥々やってきて、あまつさえ他校に潜入までしてしまう猪突猛進な彼女が折れることはなかった。彼女の確固たる信念に最後は根負けしてしまい、渋々作戦を手伝うことになったのだった。
「あー、あー、こちら、マリー007。応答せよ。これから作戦を実行する。・・・了解、幸運を祈る」
「文句言ってる割には、ノリノリやな」
ブルートゥースで繋がったマイク付きヘッドホンで北園に連絡を取ると、景吾が反対側から歩いてきたのを確認してから、右手を挙げサインを送る。北園がそれを見て走り出した。
鈍い音がして、勢いよくぶつかった二人が廊下に倒れると、は拳を握ってガッツポーズをとる。が、その後すぐに起き上がった景吾が北園の胸倉をつかんで怒鳴っている姿を見ると、表情を曇らせた。
「めっちゃ揉めてるやん。怪我に関しては跡部も容赦ないな」
「彼女がいうには、第一印象は最悪、これが1番大事なんだそうです」
「現実では、第一印象が悪いんなら最後まで悪いんやで」
「でしょうね。私も中1の時に全く同じことを試したことがあるんですが、その際は相手が2週間の怪我を負いました」
「仁王に同情するわぁ」
「うちの犬、あの糖質制限してるんですけど・・・何するつもりですか」
自分の愛犬に、食パンを与えながらその体に炭をなすりつけていくから、5メートル離れたところに立ったまま、日吉は大きめの声を出して質問を投げかけた。
「安心してください。悪いようにはしません」
既に愛犬に炭を塗りたくられている日吉としては異議を唱えたかったが、その気持ちをぐっと抑える。あの満月の夜に起きた出来事の弁解がまだできないまま、数週間が過ぎていた。最初は事実を説明しようとしていた日吉だったが、に「半径5メートルは近づかないでください」と言われ、ちょっかいを出されることも減ると、彼女のいない快適な日々を取り戻すことができ、問題を放置するようになった。たまに理不尽な命令をされたが、訳も分からず構われるよりはだいぶマシだった。
「こちら、マリー007。子犬の準備は滞りなく完了した。健闘を祈る」
愛くるしい眼差しを向けてくるそのポメラニアンは、人間の年齢で言えば60をとうに超えていたが、その小さい体から子犬のようにも見えた。よしよしと抱き上げたが「誰か拾ってください」と書かれた段ボールに入れると、日吉に手を振って隠れるよう指示し、自身は近くの街路樹の後ろに回り、小さくはない声でナレーションをいれる。
「実は、ヒロインには複雑な家庭環境があった。親は住宅ローンと車のローンに悩まされ、祖母は更年期で癇癪を起こすようになり、彼女の家庭は荒んでいた。」
「一般的な家庭環境ですね」
「そんな日々に疲れていた彼女が出会ったのは、一匹の捨て犬。そこに存在するのに、誰も見向きもしてくれないその惨めな姿が自分と重なり・・・無意識に抱きしめてしまう」
「うちの犬、月2でトリミングしてて、人間より健康食品代と医療費かかってますからね。溺愛されてますからね」
「そんな様子を見ていた世間知らずのボンボンAは、心優しい彼女に、そして子犬に引けを取らない可愛らしい容姿に心を奪われる」
がナレーションが始めると同時に、見覚えのある他校の女子がどこからともなく出てきて段ボールの側によってしゃがんだ。遠い距離だったが、ナレーションにツッコミを入れ続けた。 しばらくすると、景吾が道の向こうから走ってきて、日吉は『ボンボンA』が景吾のことであることを知る。テニス部のランニングコースなので彼が走っていても特に不思議ではなかったが、しゃがんでいた女子が急に大袈裟に泣きだしたので、日吉はぎょっとした。
周囲を見回した景吾は、自分以外に対応できる者がいないと悟ると、面倒くさそうに女子に声をかけた。女子の説明を聞いた彼が携帯を取り出し電話すると、数分後に黒いミニバンが来て中年の男性が段ボール毎犬を連れて行ってしまった。その様子を見て呆然と立っていた女子だったが、犬がいなくなると景吾に対して抗議しているようだった。口論の末、2人が別れると、日吉は女子のもとへ駆け寄った。
「今のおっさん、うちの犬をどこに連れてったんだ?」
「保健所に連れてったようだ」
その説明に日吉は絶句したが、北園は得意げに人差し指を振った。
「問題ない。ここで『面白い女』と思わせることがミソなんだ。今頃『俺に逆らってきた女は初めてだ』って感心してるに違いない」
日吉は彼女の話が終わる前に急いで保健所へ電話をかけた。
「それ、なんの意味があるんだ?」
「サブリミナル効果です。こちらマリー007、予定通り潜入先に侵入した、指示を請う」
音楽室奥にある楽器倉庫の壁に北園の写真を張りながら、は怪訝そうに見てきた宍戸に言葉を返した。音楽の授業でもペアを見つけられず一人になってしまった宍戸は、美術の時同様にお願いし、今回はピアノの連弾のペアを組んでもらうことになった。が、宍戸が音符さえまともに読めないひどい有様で、連帯責任として補修を受けることになっていたのだ。
「北園さんが言うには、壁一帯に貼られた写真を見ることによって、潜在的に意識してしまうそうです。景吾さんがよく訪れるこの部屋に貼っておくことによって効果が表れるようですよ」
「あー、噂のハニトラ作戦な。忍足が面白がって言いふらしてたから、今頃跡部本人の耳にも届いてるぞ」
こうも壁一帯に貼られては潜在的というよりも、強烈に意識させられるが、勿論良い意味ではない。そもそもこれではサブリミナル効果の意味をはき違えている。普段だったら指摘していた宍戸だったが補修に道連れにした手前、何も言えず、壁から目を離し楽譜に集中した。
「鳳さんと仲が良いなら、彼に教えてもらえば良かったのに。上手なんでしょう?」
確かに、いつもなら声をかけていたかもしれない。練習につきあわせるかは分からないが、少なくともコツくらいは教えてもらっただろう。だが、連弾の相手がと知った鳳がどんな表情をするか考えると、今回はお願いできなかった。
「アイツも忙しいからな」
「そうですか?昼休みに3年の教室付近をぼーと歩いているのをよく見かけますけどね」
お前目当てだろ、という言葉を宍戸は飲み込む。鳳は自分の初恋を自覚してるだろうが、告白するつもりはなさそうだし、は気にも留めていない様子だ。ただ、鳳の保護者のような立場としてこの間見た盗撮ビデオの映像がまだ記憶に鮮明に残って離れない。鮎を前にすると無性に謝罪したい気持ちにさせられる。
性格が良いとは言えない彼女だが、知ったら傷つくかもしれない。景吾に知られて大事になっても困る。勿論、悪いのは鳳で、言い訳しようもなかった。
「お前さ、その、経験ってあるのか?」
「連番はよく景吾さんに付き合わされたので慣れたものですよ」
「ピアノのことじゃねーよ。あっちの経験だよ」
「・・・あっちの?」
そこまで考えて、宍戸はに初めてのキスの経験を聞いた。鳳が彼女のファーストキスを本人が寝ている間に奪ってしまったのではないかと不安になったからだった。一方で、不意を突かれた質問に、は手に持っていた写真を何枚か落としてしまった。
「ありませんよ。この間、ほかの人にもその質問受けたんですけど、中学生なのに明け透けすぎじゃありませんか?」
質問を受けたは、初体験のことを答えていた。因みに明け透けに話しているのは本人であって、質問をした宍戸ではない。
「悪かった」
宍戸が神妙な面持ちで見てくるので、は戸惑いを見せた。
「宍戸さん、もしかして、私のこと・・・」
「大嫌いだ」
「ちょっと待ってください。そこまで言います?ペア組んであげて、補習まで付き合ってるのにそれはないでしょう」
口喧嘩が発展して仲違いをした2人はお互いに顔を外方を向けて音楽室を出た。二人の間を通って、1年生のテニス部員が入れ替わるように入っていった。音楽室は楽器の保護のためもあって、他の教室よりも空調が良く、榊原が顧問のテニス部メンバーのミーティングに利用することがあるため、特に何も思わなかったが、しばらくすると、下級生たちの悲鳴が聞こえてきてと宍戸はしまったと言うように目を合わせた。言わずもがな音楽室の奥には北園の夥しい枚数のプラロイド写真が貼られてたままだ。
「今度は何なんだよ」
その日は朝から、椿川学園の女子マネがいつもより積極的に仕掛けてきて、その裏でがこそこそ動いているのは分かっていた。いくら隠れていようと、普段から彼女を目で追っている景吾にはその存在を確認することは容易だった。もうその動作が、表情が、俺を馬鹿にしているとしか思えなかった。そして、放課後に、に腕を引っ張られて理科室に向かう途中、景吾は正直うんざりした様子で後を歩いていた。
「あの女のせいで、景吾さんは腕を負傷、日吉さんは愛犬を失い、榊先生にはロリコン疑惑が浮上しました。由々しき事態です」
「半分はお前のせいだろ。腕まだ痛いからな、謝れよ」
「謝罪はいつでもできます。それよりも彼女を一刻も早く北海道へ強制送還させましょう」
そう言うと、は氷帝テニス部の女子マネを買収して入手した情報ファイルを景吾の目の前にかざした。
「まさかとは思うが、それ渡す気か?」
過去のスコア表、個人のプレイスタイルの強み弱み、今後の課題、練習内容事細かく記してあるノートだ。他校に渡すなど正気の沙汰じゃない。
「景吾さんなら椿園学園を負かすなんて朝飯前でしょう?まさかファイルを渡したら負けるとでも?」
「いや、ありえない」
「ならば、問題ないでしょう」
確かに、一々作業を止められたり、問題を起こされたりするくらいなら、いっその事相手の希望通り情報を渡してしまった方が楽だとすら感じる。北海道の弱小チームがいくら情報を手に入れたって意味がないことくらいわかっていたからだ。氷帝テニス部にはスポーツ推薦枠もある。目ぼしい人材を全国から集めてくる為、人口も競合も多い首都圏や大阪府ならともかく、地方の学校に負けることはないのだ。
「台本通りお願いしますよ」
胸にぐっと押し付けられたプリント用紙を見て、顔をしかめる。北園にメロメロになった景吾と鳳が彼女を取り合い、性格的にも不利な景吾が情報をちらつかせて北園に自分と付き合うよう強要するという内容だった。
「なんで俺が『性格的にも不利』なんだ?そもそも、こんな三文芝居打たなくても普通に渡すだけで済む話だろ」
「それは私も最初に考え付いてすぐにお渡ししたんですが、北園さんは怪しんで受け取ってくれませんでした。しかも、間違った情報を渡す気だな、って怒ってしまいましたよ。せっかく榊先生の署名付きで渡したのに」
「おい、聞き捨てならないぞ。お前、俺の許可なしに他校に情報を渡そうとしていたのか?」
「だから顧問には許可を取りましたって。因みに台本の内容については演劇部に書いてもらった物なのでクレームはそちらへお願いします」
景吾の非難は適当にあしらって、プリントの後ろに書かれた演劇部部長の連絡先を見せた。
「鳳は納得してんのか?これ」
「誰かがやらなきゃいけない仕事です、と力説したら、まあ首を傾げていましたよ」
「全然納得してねーじゃねーか」
話しているうちに理科室の前に着くと、はしーっと人差し指を口元にあて悪戯っ子のように笑ってから、扉を開けて、そしてすぐに閉めた。明るいかった表情は一転暗くなった。景吾も一瞬だったが、扉を開けた際理科室の中を見ることができ、状況を把握した。
そこには北園を囲む5人ほどの女子がいた。景吾の記憶が正しければ、テニスコート近くでよく鳳に声援をおくっている女子たちだった。がげんなりした様子で乱暴に頭をかいたので、景吾はすかさず手櫛で彼女の乱れた髪を整える。そして景吾を見ることなく「3分で片付けます」と言い残して教室に入っていった。軽い溜息をついた景吾は閉められた扉に背を預け、台本を読みこむことに専念した。与えられた仕事はきっちりこなしたいし、期待には応えたい性分だった。
「皆さん、お揃いでどうしたんですか?」
「どうもこうもないわよ!この女にテニス部の周りをウロチョロされて迷惑なの!」
同感だった。はこくこくと肯きながらも、北園と女子たちの間に入り、怒りで興奮している様子の女子たちをどうどうと宥める。
「早く田舎に帰りなさいよ!道産子!」
そだねーと、再び強く肯く。今から行う作戦を打ち明けて、味方にしたいくらいだったが、鳳のファンならば、鳳が彼女を好きだという設定を許してくれないかもしれない。にしても、景吾が彼女を好きだという設定は嫌だし、本当はそんなの芝居でも見たくはなかった。けれども、彼女の作戦が弁当を始め、一貫してハニトラ作戦なので彼女に納得して帰ってもらうためにも、その趣味嗜好に合わせるしかなかったのだ。
「多勢に無勢の卑怯な女たちだな。オイラは屈しないぞ」
「『オイラ』って何?あざといのよ!」
いやいや、あざとくない。この21世紀に100年の恋も覚めるレベルの一人称だ。
シャーレを投げようとした女子の手を止めると、5人が一斉にを睨んだ。
「は関係ないでしょ。この女さっき私たちの鳳くんと話してたの!」
事前に彼女と仲良くするようにと、は鳳に指示していたので、当然のことだった。美人は苦労するな、少し話すだけでも警戒され敵視されると、他人事のように思う。。まあ、今回に限って言えば、恨まれるに値する内容かもしれないが。
「は口挟まないで、婚約者のところでも行ってなさいよ。」
「そーよそーよ!自己中の俺様好きは、黙ってなさいよ!」
「そーだそーだ!趣味の悪い女は引っ込んでろー」
こいつらは、間接的に俺の悪口を言ってるのか?扉の裏で景吾は台本を読みながらも聞こえてくる会話に徐々に機嫌を損ねていった。に言わせれば、むしろ直接的だった。
テンションが上がってきたのだろうか、一人が理科室の備品を投げ始めたら、全員が何らかの許可を得たかのように、近くにあるものを投げだした。赤信号皆で渡れば怖くない、とは言え、投げられたアルコールランプが床に落ちて液体が広がると、は女子たちの近くにある棚に目をやる。さすがに硝酸などはないが、割れ物を始め危険物ばかりだ。投げるなら、せめてスポイトとかオブラート程度に留めておいてほしい。
そんなカオスの状態を落ち着かせる存在が、景吾がいる扉と反対に位置する扉から入ってきた。
「さん!」
現れたのは鳳だった。それまで勢いづいていた女子たちは一瞬にして怯み、手に持っていた備品を慌てて棚に戻した。正気に戻ったのか、床に散らばっているガラス破片を見ては今更ながら一同不安そうな顔をした。
「俺、やっぱり嘘は付けません。なんとも思ってない人に好きだなんて言えません!」
走ってきたのか、焦っているのか、周りが見えていないようだった。その目は真っ直ぐだけを捉えていた。そして内容を聞いた女子たちが一斉にのほうを見て眉を吊り上げた。愛しの鳳が何かきっとくだらないの策略に巻き込まれたことを察したからだっだ。
「俺は北園さんのこと好きじゃありません」
その発言を聞いて、内容を把握してないものの女子たちはプッと北園を笑った。
「でも、他に好きな人がいるわけでもないんでしょう?人助けだと思って協力してくださいよ」
北園と女子たちが再び一触即発の雰囲気となる中、は鳳の近くまで行くと脇を肘でつつき小さい声で台本通り演じるよう説得する。
「できました」
「好きな人が?ついこの間、初恋もまだなチェリーボーイだって言ってたじゃないですか。もう卒業されたんですか?」
「卒業していません。在校生です」
二人の会話は成立していなかったが、話を聞いていた女子たちが顔を青くすると、今度は意趣返しに北園がプッと嘲笑う。そして、両者一歩も引かない睨み合いを始め、収拾がつかなくなったことを悟ったはゆっくり後ずさって退散の準備を始めた。が、扉の向こうで待っている景吾を思い出すと、足にぎゅっと力を入れて踏ん張った。そう、北園には氷帝から出てってもらわなければならないのだ。なんとか、この場を丸く納めねばならない。
「分かりました。嘘は言わなくて大丈夫です。好きな人があっちの方向にいると思って、告白してください」
北園を指さし、穏やかに説得する。北園の前で内容を明かすのは問題があるように思えたが、自分本位な人間は自分の都合のいいように記憶を改ざんする傾向があることから、気にせず話を進めた。要は景吾が北園に惚れてデータを渡してしまうという既定路線を守ることであって、咬ませ犬の鳳は所詮おまけだ。形だけ繕えばどうにかなるだろう。は安直にそう思った。
「そっちにいないのに?」
「いないとは限らないでしょう?壁の後ろに、もっと遠くの校庭で実際歩いてるかもしれない。地球は丸いんですから、あり得なくないでしょう」
「そっちにはいませんし、この場所では絶対に言いたくありません」
「風水かなんかで縁起が悪いんですか?」
頑なに首をふる頭の固い鳳には次第に苛立ちを募らせた。それは貴方の想像力が足りないんです。努力しなさい、とが説教する前に、二人の会話を聞いていた女子たちの1人が発した言葉にその場がいろめきだった。
「鳳君、それって、この中に好きな人がいるってこと?」
犯人捜しをするようにお互いを見る5人の女子たち。かわいい系の女子2人が少し頬を赤らめ、おとなし系が肩を落とし、少し太めの2人は額に青筋を浮かべ、一人が抜け駆けは許さないわよ!と叫ぶと、火蓋を切ったように騒ぎ始めた。人間の属性が性格に与える影響は大きいらしい。
一方で、事態が更にややこしくなった事を知ったは完全にやる気を無くし、宙を見上げた。その間に辺りが不気味と静まり返る。不思議に思って見回すと、顔を真っ赤にさせて盛り上がり喧嘩もしていた女子たちが今度は顔を真っ青にしていた。その場所が理科室だったこともあり、リトマス試験紙のようだとは思った。彼女たちの視線の先を見る。
クーラーが効いている教室にもかかわらず、大量の汗をかいて、先ほどの女子たちよりも頬を紅潮させ耳まで真っ赤にしている鳳と目が合う。
「すみません」
180cmを超える大きな図体からは想像以上に小さい蚊の鳴くような声が出た。
「あの、誤解されてますよ」
女子たちを指さして苦笑しながらも、は鳳の熱が自分にも伝わってきたかのように、指先から体全体、耳までが燃えるように熱くなっていくことを感じた。そんなの表情を見て、鳳はこれ以上ないくらい更に顔を赤くさせた。
「かわいい」
鳳がつぶやくと同時に、それを遮るように大きな音と共に扉があいた。約束の3分はとうに過ぎていた。景吾がゆっくり歩いてきて、鳳の近くにいたの腕を取って自分に引き寄せた。景吾のいつになく乱暴な様子に、内容を聞かれていたと確信した鳳は咄嗟に頭を下げた。
「すみません」
そういってから更に深く頭を下げた。景吾はそれを一瞥してから、北園に情報ファイルを投げ渡した。
「くれてやるから、地元に帰れ」
「オイラに惚れたのか?」
「雌ネコ。よく聞け。お前は、氷帝に来て真っ先にに知らなきゃいけないことがある」
「なんだ?」
「は、俺の婚約者だということだ」
頭を下げた鳳の頭上で行われた会話だった。