「長太郎が退部させられたら、どうすんだよ」
「『先生、俺バスケがしたいんです』という名言が聞けるんちゃうか?」
「転部させんなよ!」
週始まりの月曜日の朝9時、氷帝の最寄り駅にある市役所には多くの人が押しかけていた。何か大きなイベントがあるわけでも、特売品を販売しているわけでもない。ただ土日休みの9時から17時までしか運営していないその施設特有の事情のためだった。
職員が忙しなく対応する窓口の奥で、宍戸と忍足は空き巣被害の注意喚起チラシをホチキス止めしており、すぐ横には「中学生 職場体験実施中」とかかれたのぼりが立っている。
先週と全く同じ単純作業をやらされていた宍戸は、もはや職場体験に対して意義も意欲も見いだせず、後輩が起こした事件について忍足に相談していた。今や学校では鳳が跡部の婚約者に手を出したという話題で持ちきりだ。
「それにしても鳳がさんをなー。知ってたん?」
「薄々とはな」
例のビデオを見たテニス部の1、2年生、ほぼ全員が知っていたとは言わなかった。忍足に言ったが最後、全校集会であの恐怖映像を流されそうだ。
「長太郎は真っすぐな奴なんだ。自分がこうと思ったら、疑わず、迷わず、一直線に突き進む。それが間違った道でもだ。魔の手から、俺らが助けてやらないといけない」
「後輩の恋路を応援せえへんの?」
「だぜ。。婚約者の跡部に同情できるくらい、あれは性格が歪みすぎてる。俺は長太郎に幸せになって欲しいんだ。天地がひっくりかえっても、悪魔に魂を売ろうとも、とはくっつけない」
そう言い張って、宍戸は足元に置いてあったリュックから薄汚いノートを取り出した。表紙がなく、その継ぎはぎから破られていることがわかる。
「それで、実は、契約してきたんだ」
「悪魔と?」
「ああ、俺は長太郎を守るって神に誓った」
「悪魔と契約しておいて?それ、デスノートなん?」
突っ込みどころ満載な宍戸の話に、忍足の関西の血が騒ぐ。渡されたノートをパラパラ見ると、学年、クラス、氏名と要望が書かれており、所々に二重線が引かれていた。中身を確認して、忍足はそれがのメモ帳ということを知る。
「仕事を請け負う代わりに、長太郎に期待させない、冷たくすることをに約束させた」
「本人と契約したんかい。えらい直接的やな」
それから、あーでもない、こーでもないと鳳にを諦めさせる作戦を練りだした宍戸の話を右から左へ流し、先週の合コンで出会った女子たちとのトリプルデート計画について思いを馳せる。ゆっくりと流れていた穏やか時間も、市役所入口付近から飛び交う怒号によって終わりを告げた。それは先週にも見た光景だった。
それまでも好景気というには遠い状況だったが、海外の金融機関の倒産を発端に本格的な世界不況に陥いると日本でも貧窮に喘ぐ人が増え、補助金や保育園の申請所窓口は混雑していた。困って不安にもかかわらず、無駄に長時間待たされるという苦痛に耐えられない人々が、その苛立ちを近くにいる職員にぶつけ、もめごとになる。市役所職員は不況のあおりを受けにくい公務員の代表例だ。自分たちの税金で安定した生活送れているのだからサンドバックになって当然、というかのごとく、八つ当たりをする。
「公務員なめんなっつーの。うちの親父なんか、モンペと教頭のモラハラ対応、更生しない不良の生活指導、夜勤、サビ残、部活の顧問で土日出勤当たり前。教師は聖職かなんか知らねえけど奴隷のように働かされてんだぜ。業績に合わせてボーナスもらえる奴らに文句われる筋合いねーよ」
「大変やな」
「忍足んとこは医者だろ。景気関係なくて良かったな」
「ぼちぼち訴訟問題抱えてるさかい、明日はどうなるか分からへんよ」
夢も希望もない話に中学生2人はため息をつく。壁にかけられたテレビのニュースでは、相談窓口の長蛇の列に並ぶ人々を、あざ笑うかのように評論家が株価暴落の原因を説明し、それに対する政治家の失策を批判していた。街角コメントコーナーでは、子供を抱えた主婦が泣いて夫の失業を語る。
サラリーマン、自営業、公務員、主婦も皆それぞれの立場で各々苦労しているようだ。
四方から鳴り響く電話の着信音にホチキスの無機質な音がかき消される。朝から新設した補助金の問い合わせで電話はパンクしていたが、窓口には顔を青くした相談者達が待っていて、対応できる者がいないようだった。長蛇の列に並ぶ者たちの中に知り合いを見つけた忍足が宍戸の足を軽く突く。
「あれ、山吹の亜久津のおかんや」
世の中には大変な人たちで溢れているが、中でも介護や育児を1人で担う女は相当大変なようだ。株価とは反比例するように自殺率が急騰しているらしい。漫画やアニメの世界では守るものがいる方が強いが、現実ではそうはいかないようだった。
バラエティー番組に移ったテレビでは、政治家が官僚と夜の接待で使った「ノーパンしゃぶしゃぶ」店が取り上げられており、タレントがわざとらしく驚いた後、「国民が苦しんでいるときに許せませんね」と大袈裟に憤り視聴者の共感を誘っていた。
どうやら社会というのは、中学生が想像するよりずっと滑稽で残酷な世界のようだ。
「フラれたさんの気持ち考えてあげなよ」
久しぶりの氷帝との練習試合なので気合を入れてガットも新調していたのに、幸村から諭されレギュラー陣のコートとは遠く離れた校舎裏の見すぼらしいコートに移動させられ、さらに1年生と補欠の更に補欠のようなメンバーが対戦相手になることを知った仁王は、肩を落とした。
ここに来るまでの交通費と時間を返してほしい、そう思いながらコート脇に飾りのように置かれた屋根なしのベンチに腰掛け強く靴紐を結ぶ。ぶちんとひもが切れると、さらに気持ちが後ろ向きになって早く帰りたいと思うまでになったが、ウォーミングアップを張り切って行う氷帝と立海の1年生たちの元気な掛け声を聞いて、その気持ちを改める。このコートでは唯一の3年生で、下級生を指導できる立場も自分だけだと思いなおしたのだ。
予備の靴紐に付け替え、重い腰を上げようとしたときに、鳳が現れた。挨拶と共にお辞儀をされると、仁王は舞い上がる気持ちを抑えきれず、思わず両手を上げて喜んだ。
が、顔を上げた彼が親の敵にでもあったような目をしているのを知ると、すっと両手を納める。レギュラーから外されたという話を思い出し、鳳にとっては辛い時期だろうと険しい表情の意味を察する。
慰めるつもりでスポーツバッグからペットボトルを2本取り出し1本を彼に渡すと、鳳にまとう剣呑な空気が少し和らぎ複雑な顔をしながらも、仁王の隣に座った。
「さんをフッたって、本当ですか?」
ぶっと、飲んでいたスポーツドリンクを思わず吹き出すと、近くで試合準備をしていた1年生が軽く悲鳴を上げたが、仁王は構わず鳳を見た。俯きながらも耳まで真っ赤にさせ、膝に置いた手を白くして握りしめている。
「さんは仁王さんに入学前からずっと片思いしてたって聞きました。そんな一途な思いを寄せられてたのに、どうして断れたんですか?婚約者がいたからですか?」
ぽかんと開いた口が閉まらないとはこのことだ。入学前から思いを寄せられていたことも婚約者がいたことも初耳だったし、仁王からしてみれば彼女とは3年になって少し会話するようになったが、それまでは挨拶も交わすか交わさないか程度の間柄だった。そもそも、入学前は出会っていないだろうし、婚約者がいて告白してきたのであれば、それはそもそも二股ではないのだろうか?
倫理的に、いや正式な婚約者であれば法的にも問題はないのだろうか?
「俺は理解できないです。あんなに素敵な人を」
「それ、真面目に言っちょるんか?」
その後も試合が開始するまで尋問が続き、準備体操をしながらも下級生たちは、仁王が鳳に詰め寄られている姿を面白がって見ては時折笑っていた。
コートを使用するメンバーのレベルから当然のごとく対戦することになった仁王と鳳だったが、試合開始の合図と同時に目に見えない速さのサーブを打たれると、仁王には懐かしさと共にしばらく潜めていたに対する嫌悪感がむくむくと再び顔を出した。
「め。全然変わっちょらん」
転校してもなお彼女の影響を受けるのか。好意を寄せられていた覚えもないのにある日急に告白され、断ったら周囲からは悪者扱いされた。罪悪感を抱く暇もなく、しれっと転校していった彼女に対してはもう複雑な思いや呆れを通り越して、その破天荒ぶりに笑いしか出ない。
「気安く彼女の名前を出さないでください」
転校してヴォルデモートへ昇格したのだろうか。それで鳳に魔法でもかけたのかもしれない。
以前の彼は穏やかな好青年で、とがった感じは一切見受けられなかったのにいったい何があったのだろうか。疑問を抱きつつも、プレイに切れが出ていて、剥き出しの闘争心が伝わってくると、仁王から笑みがこぼれた。勢いのあるボールを受けるとラケットを通じて衝撃が手に伝わり、痺れが全身に駆け巡る。久しぶりに楽しい試合ができそうだと、ボールを思いっきり打ち返す。
「フォーティ・サーティ!」
声を張り上げた主審がカウントコールし、鳳のサーブの番になったが、投げたボールに対して大きくからぶったため、足をもつれさせた。ありえない凡ミスに動きを止めた仁王だったが、鳳が試合より他のことに気を取られていて、視線の先を追うと例の如くがおり、仁王は「あー」と濁音を出して息を吐いた。
「スカートが短いぞ。短期間でここまで堕落するとは、けしからん奴だ」
試合の休憩中、陸上部のメンバーに混じってグランド整備をしているを見つけた真田は、部外者にもかかわらず、フェンスの扉をこじ開けては、グランド中央までずかずかと足を踏みいれた。
そしてのだらしない制服の着こなしに目をつけては、開口一番に説教をかました。本来であれば、久しぶりの再会なので心温まるような挨拶を交わす場面だった筈だ。いや、真田にとってへの挨拶は叱責と同等なのかもしれない。
整備中というのに、土を荒らすように入ってきた真田に対し、陸上部員からの冷たい視線を感じたはすぐさま真田の背中を押しグラウンドから追いだすと、傍観していた切原に「入る前に止めて下さいよ」とクレームを入れチョップする。
「俺がいないからと言って、たるんどるぞ!」
周りの目が気にならないのか、大声でなお話し続ける真田の背中をさらに押して、人気が少ない方へ向かう。今日は強豪である立海との練習試合ということもあり、テニス部がテニスコート以外にも体育館と校庭をほとんど占領していて、他の部活から顰蹙を買っていた。騒ぎを起こせば、代表の景吾にクレームが行くのだ。状況を説明しても空気も読めないこの単細胞にはわからないだろうと思い、は真田との会話を続けた。
「残念ながら、氷帝ではスカート丈の長さが校則で決まっているんですよ」
「なんだと?学校がその短いスカート丈を生徒に強制しているということか?」
「噂のブラック校則ってやつです。これについては、問題提起をしない生徒会にも責任があると思います。真田さん、貴方が抱いた疑問は正しい。ちょうど、あそこに生徒会長の景吾さんがいるので文句を言ってきてください」
校舎裏まで押していき、幸村と話している景吾を見つけて指さす。とりあえず、部長の幸村がいれば真田をなんとかするだろうという、目論見だった。
「まかせとけ。よく言っておく」
「期待してます。では」
手を振ってその場を離れようとするを、真田が首元の襟を掴んで呼び止めると彼女は鈍い呻き声を出して足を止めた。
「、俺がいない間も日々精進していたか?」
苦しそうに首をさすりながらも、はくるりと振り返ると、スカートの端をつまみ、少しかがんで真田に笑顔を向けた。
「ええ、浅はかな真田さんに立海を追い出され、こちらにお世話になってからというもの目に見えて成長しています。まず身長が1ミリ伸びました。投球は140キロを記録し、それからバク転もできるようになりました」
は終始無表情で報告すると、ポケットから取り出した野球ボールを真田と切原の間に向かって投げた。ビュッと風を切る音と共にボールは先にあったフェンスに直撃し、ぐしゃりと食い込むと切原は驚いてのけぞったが、真田は肩眉をぴくりと動かすだけで、気にせず話を続けた。
「辛かったら、立海に戻ってきても良いんだぞ」
いつも厳しい言葉をかけてくる真田からの案ずる態度を不気味に思ったは、瞬きしてから、確認するように切原を見る。
「新しい風紀委員の副委員長。思ったより使えなくて後悔してるんだよ」
フェンスにめり込んだボールを見ながら切原は近寄ってくると小声で、に情報を提供する。腰を屈めた彼が説明し終えると、は『敬語』と言ってデコピンした後、したり顔で真田に向き直り、直後、綺麗なバク転を披露した。彼女の突然の行動に真田と切原は固まる。
「さて問題です。私のパンツの色は何色だったでしょう」
「言える訳ないだろ!」
真田が大声を出したので、先程から彼らの騒ぎを気にしていた周りの人間がそれを合図に一斉に振り返る。校舎裏ではあったが、普段使われていないテニスコートで今日は試合がされていたためギャラリーが多くいた。
「真田さん。私には貴方の成長が感じられません。私が転校してからというもの修練を怠っていたのではありませんか。明らかに動体視力が落ちています。昔の貴方ならば答えられた筈です」
「前まで、こーゆーのバカ正直に答えてたんすか?」
が真田に眼科の名刺を渡すのを見ながら、切原がツッコミをいれる。
「、俺は大人になったんだ」
「はあ。貴方の性事情について興味はありませんでしたが、一応おめでとうございます」
真田の発言を大人の対応ができるようになったと言う意味だと思っていた切原は、からの返答に切原はそういう意味だったの?と引き気味に真田を見る。一方、相手の話を聞かない真田は自分の話を続けた。おもむろに帽子を取り、真剣な表情でを見据えると頭を90度に下げた。
「この間は悪かった。風紀委員にはお前が必要なんだ。立海に戻ってきてくれ。この通りだ」
まさに浮気夫が妻に謝罪を申し出ているようなシーンだった。その気迫に満ちた姿勢に引きながらも、周囲の好奇の視線を感じて切原が頭を上げるよう真田の肩を支えた。そして、もそれに倣うように真田の肩に手を添えた。
「顔を上げてください。真田さんの頼みを私が断れると思いますか?」
切原がほっと安堵したのも束の間、次に、とんでもない要求が出て唖然とする。
「土下座して、3回まわってワンと言い、私の靴を舐めてください。そしたら検討しましょう」
石段の上にスッと脚を置いた彼女は真顔だった。
「ずるくない?あれ、スパッツだったよね」
校舎裏にあるみすぼらしいコートではあったが、仁王と鳳の迫力のある試合を見に、どこから湧いてきたのか人が集まっていた。各コートの試合の様子を景吾と巡回し、メンバーについて話していた幸村は、近くでがバク転をするのを確認すると話題を変えて口を尖らせた。
「見てたのか?」
「見なかったの?」
この日は朝から忙しかった。強豪マンモス校の立海との練習試合だけあって前日まで対戦メンバーについては調整していたが、流行りのインフルエンザの影響でお互いに欠員が出て、当日になって組合せを一から考え直した。部員がコート準備やウォーミングアップをする限られた時間の中、できるだけ多くの試合をこなせるよう、場所に無駄がないよう、移動時間や休憩時間も含め検討し、レギャラー、準レギュラーと実力順にコートと対戦メンバーを振り分けていく。大人数を取りまとめ場所も限られる中、時間通り開始できたのは、今回の部長二人の指揮統率が取れていたに他ならなかった。
景吾はコートを巡回しながら、メンバーの指導をし、互いのチームを冷静に分析する幸村に感心していた。自分の婚約者のパンツの話をし出すまでは。
大声の真田と過激なパフォーマンスをする彼らは目立っていたので、景吾も気にはしていたが、部員が真剣に試合に臨んでいる中、関係のないことは極力口にしたくなかった。
だが、いかんせんのことだ。問題を起こすのではないかと気が気ではなく、幸村には気づかれないように横目でその行動を追っていた。そして、投げたボールが不自然にフェンスにめり込んだ所で、今朝方、彼女が珍しく早く学校に来てフェンスに細工をしていた理由が分かり呆れ、校則違反している短いスカートで公衆の面前でバク転する姿には、思わず目を逸らしてしまった。
「そうやって大事なことから目を逸らすのはやめた方が良いよ」
すべてお見通しと言わんばかりに、幸村はからかうように笑った。意味深な発言ではあったが、とはいえ内容がの下着のこともあり、不機嫌になった景吾の耳には届かなかった。
「でもまあ元気そうで安心したよ」
「顔が広いから、どこでもある程度は上手くやってけるんだよ。山吹の亜久津ともつるんでるって知った時は肝を冷やしたけどな」
「亜久津って、山吹の?女関係で良い噂は聞かないけど・・・大丈夫なの?」
「その噂通りなら、それこそに手を出すほど女に困ってないだろ。それに忍足から聞いた話だと、親が失業して本人は進学せずに働くみたいだし、余裕ねーだろ」
「へー、じゃあ、テニスも続けないんだね。素材は良いのにもったいないな」
「まあ、子供は親を選べないからな」
他校の生徒のプライバシーを話題に出した景吾だったが、大して興味がなさそうに結論付けると、どよめきが起こったコートの方に視線を戻した。
レギュラー陣が使っている手入れの行き届いたコートとは違い、囲いフェンスもなければ脇には雑草が所々茂っているそのコートでは、先ほどまで鳳と仁王が白熱した試合をしていた。
「勝つのは氷帝負けるの立海!」
「常勝!立海大!」
やじうまだけでなく応援要員も、ほとんどがこちらに集中し、大きな歓声が上がっていた。
「Go! Fight! Win!」
何故か立海のチアリーディングも氷帝のバトン部も総出で応援している。
そして、景吾が歩いてくると、氷帝の生徒は下級生を中心に目を伏せたり、逸らしたりした。が仁王にフラれて転校してきたことも、鳳がに想いを寄せていることも忍足のせいで知れ渡っていた。周囲の様子を前にして、景吾は仁王と鳳のコートを一緒にしたことを悔やんだ。
一方、確かにハイレベルな良い試合ではあるが、そうと実際に分かる者は少ない筈で、レギュラー陣のコートを差し置いて異様に盛り上がっている様子を、幸村は怪訝に思っていた。鳳の凡ミスのサーブでどよめきが起こってからというものの、急にポロポロボールを落とすようになった彼を見て首を傾げる。その視線がちらちらとコートの外を気にしているようだったからだ。
視線の先を追うと、真田がの前で土下座をしているところだった。それから、彼女の前でくるくる回り始めた真田を切原含め数人の部員が止めに入っていって騒ぎがより一層大きくなっていた。奇行を続ける真田の一挙一動に周囲が目を向ける中、鳳は何度も彼女の方だけを見ていた。
そして、その場にいる氷帝の生徒が、いつもなら試合中のプレイヤーの失点に対して一層の応援か野次を飛ばすかする彼らがだ。ただただ黙ってニヤニヤしながら様子を見守っており、今まで偉そうに学園の敷地、施設、生徒たちを称賛していた景吾が背中を小さくすると、幸村は傾げていた頭を更に傾げた。
張り付けていた笑みを崩さず景吾に話しかける。
「跡部、まさかとは思うけどさー。あのさ。いや、鳳君が…えー?」
「お前に関係ないだろ」
「いやいや、部員で後輩だよね。指導も管理もできてないの?何やってるの?」
この間彼女との仲を執拗に責められてたのは、こう言うことか、と合点が行き幸村は近くの木にもたれかかって項垂れた。年下だし、彼女のタイプではなさそうだが、同じ学校に通うもののほうが仲は良くなりやすいし、好ましい状況ではない。
「あーゆータイプは面倒だよ。自分が分かっていない上に損得勘定もできない。別次元の行動を起こしたりするからね。それでいて意外と女子受けする」
「なまじ顔も良いからな。背丈もあるし」
「確かに。ってか、あの子何センチある?俺より高いよね。本当信じられない。危機管理できてなさすぎ。リスクヘッジって言葉知ってる?」
「リスクヘッジっつーのは、予測できて初めて取れるんだ。あとお前の身長は関係ないだろ。仁王の時と違って迷惑もかけてない」
「威張らないでくれるかな。練習試合ですでに支障がでてるよね?」
一通り幸村になじられた景吾が鳳に視線を移すと、彼が視線に気づき、一瞬怯えたような表情をしてから慌てて試合に集中し始める。景吾は自身の米神をほぐすように指先でもむ。
景吾は先日の自分の行動を後悔していた。
下級生に対して牽制を取るなど本来あり得ないことだ。
よもやよもや恥ずかしくて穴があったら入りたい、とはこのことだった。
しかも、翌日にはあの騒動が尾びれ背びれがついて学校中に知れ渡ってしまい、鳳はどんなに辛い思いをしたのだろう。婚約者に横恋慕した男なんて、そんな噂を立てられて平気な奴ではないと言うことは、部長の景吾が一番分かっていた。失態だった。一時の感情で、後輩を窮地に立たせてしまった。動揺して、他人を支配することに意識を向け、自身の感情をコントロールできなかった自分を情けなく思う。
今朝も、幸村との話し合って、仁王については陸上部のが使っているグラウンドから一番離れたコートをあてがうことになった際、ホワイトボード上の第一コートのレギュラー陣に入れていた『鳳』のマグネットを、そっと『仁王』の横に移してしまっていた。
公私混同はいけない。鳳は良いプレイヤーだ。私情で若い芽を潰す訳にはいなかい。
そう思いながらも手は勝手に動いていた。鳳のレギュラー落ちを耳にしていた幸村はその時何の疑問も抱いていなかった。
仁王と試合を続ける一生懸命な鳳を見ながら、両手で頬を軽く叩き、自身を叱咤激励する。
氷帝テニス部の部長として、もう二度と私情を挟まない。胸に固く誓う。
「やっぱり相当気合い入ってるのかな。互角に戦えてるね。とりあえず今日は、めいいっぱい審判とボール拾いさせてさんを見る暇も与えないようにしておこうか」
そう言いながら、幸村が近くにいる部員に指示をする。つい今ほどの決意に反して、跡部はそれを黙って聞いているだけだった。
試合が終わると、鳳が報告もかねて景吾に駆け寄ってきた。相手校のレギュラーメンバーと試合した後は部長に内容を報告することが決まりとなっていた。報告をし始めた鳳の顔が強張っていて、聞いているだけの景吾も少し緊張する。お互いに立場を弁え、変なことを口走らないように意識しているのが分かった。
景吾に至っては周りのギャラリーを下手に喜ばせたくないので、内容は全く耳に入ってこなかったが、小難しい顔をして頷きながら平静を装った。あわよくば、あの噂は出まかせだったという流れに持っていきたい思いもあった。
ちょうど真田達と話し終えたがこちらに方向へ歩いていた。
彼女が部活中に景吾に話しかけてきたことはなかったので、そのまま素通りするのだろうということは分かっていた。彼女を視界の端に捉えていたものの、鳳が視線をそちらに向けるのが分かったので、その時点で景吾は絶対に自身の視線を動かさないと決めた。
そういう世間体を気にするところが悪かったのだろうか。
周りがよく見えすぎて、空気も読み取れるのがいけなかったのだろうか。
全ては後の祭りだった。
「Ready OK?1234!!」
チアリーダーの甲高い掛け声とともに、数人の女子手を集まって足場を組み、側転した女子が足場に足をかけると高く高く飛び上がった。
「きゃぁぁっ!!!」
直後、飛び方がいつもと違うことに気付いたリーダーが叫び、その場に緊張が走る。放物線を描きコントロールを失って落ちていく女子は顔を真っ青にしていた。そして彼女の落下地点付近にはがいた。すぐに気づいた鳳は反射的に走り出し、一足遅れて景吾が後に続く。
同じくしては、落ちてくる女子を受け止めるため、手を広げた。
背後で景吾と鳳が走ってこちらに向かっているのを目視していた。
彼らの速さだと落下時にちょうど背後左右に着きそうだ。
高く遠くに放り投げられたチアリーダーの体はちょうど頭上にぶつかりそうだと考えて、唾を飲みこむ。首と頭に直撃したら、ただの怪我じゃ済まない。打ち所悪ければ最悪死ぬ。そう思い咄嗟に右側に体を任せられるように左足に力を入れる。
瞬間、落ちてきた女子の体が鈍い音を立ててぶつかり、頬と鎖骨、左肩がバラバラになる感覚を覚えた。
踏ん張っていた足が地面から離れ体が宙に浮く。
相手の頭を腕でかばい、歯を食いしばり目を瞑って痛みに備えた直後、ずしゃっと地面に叩きつけられる音と共に左肩に激痛が走った。
が、覚悟していた頭への衝撃はなく、息を吐く。
目を開けると
空が青かった。
病院のトイレの鏡を見ながら、仰々しく頭に巻かれた包帯に触れる。痛みはなかった。
先に彼女がチアの子を受け、衝撃を吸収した後、自分の所に飛んできた。受け身は取れていたし、腕には地面へ転がった際に痣ができたが、こちらも大した痛みを伴わなかった。ただ、運悪く近くにあった花壇の淵で、額を切ってしまった。
右から左に一直線に切れた額からだらだらと血が流れると、辺りは騒然とし、救急車が呼ばれ、あれよあれよという間に一大事になった。保険医がいる平日であれば、保健室で対応できるレベルだったので、忙しい救急隊員に申し訳なく思った。
「ええ、看護資格を持つ優秀なスポーツトレーナーの手配をお願いします。期間は半年程度で報酬はいくらでも弾みます。ええ、そのように」
薄い壁の向こう側から女子の声が聞こえ、それがのものだと気づくと鳳は鏡に耳を近づけた。トイレの鏡なので多少不衛生だったが、それよりも好奇心が勝る。
「パパには下級生に怪我をさせたと伝えておいてください。それから見舞金の用意と、病院名は・・・」
先ほどから話している内容が自分のことだと知って胸が高鳴る。特にときめくような内容ではないが、彼女が自分のことを考えて何か口にしていると思うだけで、体温が高まるように感じた。
ただ、そんな自分とは反対に、彼女はいつもより沈んだ声で話し終えると、長い溜息を吐いた。「どうしよ」彼女らしからぬ弱弱しく小さくつぶやいた声が、ハンドドライヤーの風音でかき消されると、今度はトイレの外廊下から怒鳴り声が聞こえた。
「おい、!いつまでウンコしてんだ!」
宍戸の声だった。ドアが開き閉じられる音がすると、鳳は鏡から離れ、今度は、廊下と男子トイレを隔てるドアの前で耳をそばだてる。
「女子トイレの前で待ち伏せとは良い趣味ですね」
「うるせぇ!長太郎を巻き込むなって言ったろ。早々に約束破りやがって、どういうつもりだ」
「これは事故です。彼が勝手に助けに来たんです。私は一切悪くありませんし、約束通り、塩対応で当たりますよ」
鳳が男子トイレの扉を開け、首だけ出すと二人の背中が遠ざかっていく様子が見えた。廊下にスリッパの音が響く。
約束とは一体何のことだろう。首を傾げる。
そのままの距離を保って後を追うように付いていくと、二人は待合室に入っていき、日吉と切原と合流したので、そこで鳳はやっと口を開いた。
「みんな待ってたの?」
4人が一斉に鳳の方へ振り向くと、その元気な様子に全員が安堵の表情を浮かべ、喜びのあまり宍戸は鳳を抱きしめた。それから、両肩、両腕を確かめるように触ると、涙を浮かべてほっと息をついた。
「頭は大丈夫か?」
「頑丈なのが取り柄なんで、頭も体もこの通り平気です」
大げさすぎる先輩の心配ように鳳は照れながら答え、他の3人を安心させるように腕を回し、笑顔を向ける。それから、安堵の表情から無表情に変わったの体を上から下まで観察する。目立ちはしないが、左頬に小さい擦り傷があり、左の鎖骨辺りが少し青くなっていた。
「さんの方こそ、なんともなかったんですか?」
「ええ」
「病院行く必要ないくらいな!チアの女子だって捻挫してたのに。本当悪運強い・・・ですね」
鳳の元気な様子を見てテンションを上げた切原がタメ口で説明し始めたが、途中でに耳を引っ張られると、語尾を敬語に変えた。ただ、暴力を以てしても内容までは改善できなかったようだ。切原の耳から指を離し、一歩進むとは薄ら笑いを浮かべた。
「鳳さん、ご無事で何よりです。立ち話もなんですから、まずはおかけになってください」
近くのソファに座るよう促すと、は鳳の隣に座って、背もたれに背を預け小さく息をつく。そして、おもむろにスマホを取り出すと、事前にまとめておいたメモを確認する。
「今回ご自分の判断で怪我をされたと思いますが、まあ私が巻き込んだという見方もできますので、それなりに人的、金銭的にサポートをして差し上げたいと思います。治療費については・・・」
淡々と話し始めた彼女の話は鳳の耳には入ってこなかった。病院に行っていないと聞いてから、彼女が先ほどから右手しか動かさないことばかり気になっていた。その不自然な動作が不安をかきたてる。
一方、加害者のくせに横柄な態度で話し始めたに対しては他の下級生から不満が出る。
「勝手にってなんだよ。巻き込んだくせに自己中だな」と切原がつぶやき、続いて日吉はから5メートルほど離れた場所に移動しながら「どうせ鳳なら上手く丸め込めると思って利用したんでしょう。人の優しさに付け込んで卑怯ですよね。謝罪もなしにお金で全部解決しようと言う考えが、心根が腐ってる。普通まずは自分自身でサポートするもんでしょう」と、事故現場にいなかったにもかかわらず、知った顔で吐き捨てた。距離を取ったのは、近くで文句を言ったら、切原のように危害を加えられることを恐れているようでもあり、からの言いつけを思い出しただけのようにも思えた。
下級生たちの心からの訴えに、うんうんと頷いていた宍戸だが、少し遅れて、二人に手のひらを向け、それ以上彼女の悪口を言うのを止めた。鳳に対して冷たく接するよう依頼した手前、ほんの少しだけ罪悪感を抱いたからだった。
鳳は、再び彼女の鎖骨へ目を向ける。制服の隙間からのぞく白い肌に浮かぶ青い痣。これは一体どこまで続いてるのだろうと、それだけを思い、彼女のブラウスの胸元部分に指をかけて引っ張った。
その場にいた彼以外の全員が、その行動に唖然とし、にいたっては驚きのあまりスマホを落とした。
「なんで病院行ってないんですか?」
胸にまで広がっている痣を確認した鳳が、語気を荒げて質問すると、も怒りでわなわなと唇を震えさせたが、宍戸に「」と窘められて、怒りを抑える。後にこれは怒って良い案件だったのでは、と思い直すが、それは別の話だ。
「ええ、何ともないですからね」
「腕、回してみてください。右じゃなくて左」
気を取り直して、右腕を回して見せたは、次の鳳の指示に対しては、何故と言わんばかりに首を小さくすくめるだけで、従わなかった。確信を得た鳳にはその動作すら痛みに耐えているように見えた。
鳳は、彼女が病院に行かなかった理由を分かっていた。
きっと不安だったからだ。責任を感じてたからだ。
「部長は?現場見てましたよね?」
「景吾さんはこれから大事な食事会があって忙しいんです」
自分の眉が吊り上がり、眉間に皺が寄るのが分かった。
その剣呑な空気に切原は少し後退り、宍戸はどうどうと馬を落ち着かせるよう手を上下させた。この時はさすがに周りに迷惑をかけていることも分かった。それでも、口を閉ざせない。
「・・・じゃあ、ご両親に電話してください」
「鳳さん、知らないんですか?私の父はこの国の官房長官ですよ」
「…だから?」
「とっても忙しいんです」
これ以上、感情を揺さぶられたくないのに、俺が気にするべきことではないのに。誰とでもうまくやってきたのに、なんで彼女だと心穏やかでいられないんだろう。
優しいけど優柔不断で、本心が分からないと言われることが多かった。その理由が今なら分かる。強い関心がなかったんだ。だからいつも笑顔を絶やさずいられた。
感情が荒ぶる事もなかった。
「忙しいって、それって、理由になるんですか?」
腑が煮えくりかえる感覚を覚える。初めてのことだった。戸惑うくらいの強い怒りだ。
痛みも不安も押し隠して、誰にも頼らず、気付かれず、耐えて。
彼女の周りにはたくさん人がいるのに、誰も彼女を見ていない。
自分にとって特別な人なのに。誰も大切にしてくれない。
それなら、俺が動くしかないじゃないか。
「もう良いです。窓口が閉まる前に早く受付へ」
意を決したように立ち上がった鳳が、の左腕を掴むと、次の瞬間、彼女は病院中に響き渡る悲鳴を上げた。
「ああ、軽症か」
電話が来るまで後輩の怪我の心配よりも、何故が鳳を選んだのかばかり気にしてた。
あの時チアを受け止める直前、彼女が自身の背後を確認したのも、その後、背中を預ける方向を決めたのも全て秒コンマのことだったが見て分かった。何故俺じゃなかった?
鳳の方が
より図体が大きいから?
より早く助けに入ったから?
より信用できたからか?
様々な考えが頭を巡って、怪我の状態など考えてなかった。
「サポート?なら、人でも雇って当てがえよ。いいか、鳳とは関わるな」
乱暴に携帯を切ってから、車のドアを、音を立てて閉める。
昼間に誓った決意も反省も全て頭から離れていた。
怪我させた本人ができる範囲で手助けすることは普通だ。怪我させてしまったのであれば当然気にかけるべきだと思う。
それでも、どうしても許せなかった。
自分を選ばなかったを、選ばれなかった自分を、その事実を許せなかった。
帰宅すると、いつもは待ち構えている使用人たちがいなかった。
奥にある固定電話が鳴りっぱなしだった。
景吾の家では受話器を使用人以外が取ることはないので、彼らがいなければおのずと、留守電につながる。その間、音が鳴り止まないのは煩わしいが各部屋に着けばほとんど聞こえないので気にしたことはなかった。
玄関と言うよりマンションのエントランスに近い広場を抜けて、人の声がするリビングに足を向ける。人が出払っている時は大抵祖父が訪問している時だった。廊下を歩きながら、呼吸を整え、ネクタイを締め直し、壁掛けの鏡を見て笑顔をつくる。軽くくしで前髪を調えると、大人が好む好青年の出来上がりだ。
「お久しぶりです。」
リビングに入ると同時にお辞儀をする。
いつもならば、軽く挨拶を交わしてから景吾が学業や部活動などの近況報告をしていた。結果を聞いた祖父が満足そうに肯いて、ご褒美にお気に入りの料理店に連れて行ってくれる流れだった。
だが、この日は違った。
そこには、床に蹲って泣いている父と、それを蔑むように見ながら肘掛け椅子に座り葉巻を吸っている祖父がいた。
リビングに入ると聞こえなくなる筈の電話の呼出音が、この日は耳から離れなかった。