脱線

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「『3本の矢』『3人寄れば文殊の知恵』と言います。一人では無理なことでも、3人が考え行動すれば、成し遂げられるということです」

宍戸と半分にしたメモ帳は更に2つに裁断され、一方が日吉にもう一方は鳳のポケットから顔を覗かせ、ついに彼女の手元に仕事が残らなくなったようだった。

病院で鳳に左腕を握られ絶叫したはすぐに医者に診てもらうことができ、骨折の診断結果が出た。そこで、彼女はその怪我がチアガールを受け止めたせいではなく、鳳が強く握ったせいだと主張し、仕事を押し付けることに成功したのだった。そして、請けた仕事が4分の1程度になって内容も大したことないものばかりと分かると、その残りは日吉に渡した。


当たり屋のクレームのような形で、仕事を押し付けられた鳳だったが、本人にその自覚はなく、むしろ怪我をしている左腕を乱暴に引っ張ってしまったことに対して責任を感じていた。そして、その翌日から、鳳は頼んでもいないのに彼女の身の回りの世話をするようになった。鞄持ち、靴の履き替え、上着の脱ぎ着、に邪険にされながらも暇があれば後ろをついて回り、いよいよ鬱陶しくなった彼女が、鳳へ自身の代わりに宿題するよう命じても、鳳は素直に頷いた。怪我をした状態では宿題も難しいと考えたからだった。

ただ、7割がた、答えが分からないまま提出しなければならなかったので、それだけは彼も気がかりだった。

「このこと、部長は何て言ってるんだよ」

「『サポートって、お前がされる側かよ』ってさんにツッコミ入れてた」

「ちげーよ。いつもの夫婦漫才の内容じゃなくて、お前がさんと一緒にいる時間が長くなったこと気にしてないかってことだよ」

昼休み中庭に続く廊下を歩きながら、いつものごとく噛み合わない鳳との会話を軌道修正する。リストに書かれた「イケメンとの昼飯が食べたい」という要望に対して、日吉がに相談したところ、彼女はちらりと宍戸を見た後少しの沈黙してから、日吉、鳳、宍戸のメンバーで問題ないとGOサインを出した。その要望は日吉の持っているメモ帳に書かれていたため、後の2人は具体的な内容を知らず、単純に寂しがり屋で話題を欠いている女子生徒たちの相手をするようなものと考えていた。

「日吉も知ってると思うけど、一昨日からずっと分厚いプリントと睨めっこしてて、俺がさんの近くにいることも分かってない気がする。」

鳳の言うように、この2日間、景吾は部活練習を自身は参加せず指示だけに留まっている。顧問の榊が出張で不在の為、誰からの指摘も入らないが、一部員としては問題行動である。

分厚いプリントとは、日吉がから聞いた話だと、10年分の跡部財閥と自分の父親の財務諸表とのことだった。嘘か本当か分からないが「跡部財閥が資金援助をする価値のある会社か、見極めろ」と祖父に言われたらしい。財務諸表は企業の通知表みたいなものと聞いたことがある。景吾の父親の勤め先が証券会社で歴史的な金融危機を前に、何かしらの影響を受けているのは想像に易いが、だからと言って、その判断を一中学生に任せるのは、正気の沙汰ではないように思えた。彼がいくら抜きんでて優秀だとしてもだ。


「部長がそんなんだから、さんずっと機嫌悪いんだよね。隣の席の人に聞いたら授業中も上の空だったらしいし」

「いつものことだろ。あの人に真面目な印象ねーよ」

「昨日は、朝、下駄箱の前でさんの上履き持って準備万全で待ってたら睨まれて、クラスへ移動中いくら話しかけても応えてくれなくて、昼休みにさんの隣で弁当広げたら怒られて、放課後、保健室で寝てたから起こそうと耳元に息かけたら顔を引っ叩かれたんだよ。すごい痛かった」

「それ、お前のせいだよ。機嫌が悪い原因は全部お前!ったく。大丈夫かな。部長は1人で抱えこむ傾向あるし、忍足さんは頼りにならないし」

自身の尊敬して止まない部長の心配している間に、中庭に着いた日吉は中央でレジャーシートを敷いて待ち構えている派手な女子生徒たちを見つけ、盛大な拍手を持って迎えられると、眉を潜めた。相手が校内で悪名高いギャルの3人組だったからだ。



「イケメンとお昼ご飯食べたいって言ったんだけどー」

と3人が一人ずつ口にし、計3回呪文のように唱えられてから、自分に対して発せられている言葉と気づいた宍戸は「へっ、くだらねーもん付き合わされなくてよかったぜ」、と捨て台詞を残してその場をすぐに退出した。


ギャルだからか、3年にもなると恥じらいがなくなるのか、はたまた下級生は恋愛対象じゃないのか、短いスカートの下にはスウェットを履き、胡座をかいて弁当を素手で食べる姿は野生動物のようだった。そのくせ、化粧と装飾品はばっちり付けている。女子たちが大袈裟に手を振ると、耳のピアスがよく揺れた。

「やーん、本物だー!超かわいくない?」

初対面の相手ではあったが、自分たちのことを知っているようだ。

あの部長が率いる部活なので、自然と注目され、テニス部員は知らない人から声をかけられることも、日吉にいたってはその延長線で告白を受けることも慣れていた。

彼女たちは氷帝の学生としては柄の悪い部類に入り、積極的に交流したいとは思わない人種なので、今回の指示された内容は断ればよかったと後悔する。寂しがり屋で話題を欠いている女子って、誰のことだ。とんでもない勘違いだった。

3人組の1人にレジャーシートに座るよう誘われた鳳は、その口に無理やり卵焼きを押し付けら、もう1人には抱きつかれて慰めるように頭を撫で回された。

「そーそー、聞いたよー。のこと好きなんだってね!ウケるー」

「鳳は告白してません。勝手な噂流さないでください。迷惑してるんです」

突然の抱擁に戸惑うばかりの鳳に、日吉は女子を鳳から剥がすように服を引っ張り助け舟を出した。


「ま、ライバルが跡部なのが厳しいよね」

「確かにー、あれは反則だよねー。顔よし、頭よし、金あり、スポーツ万能!の不安も分かるよね」

「そーそー、金持ち性悪女の婚約者が王子様の場合、正統派ヒロイン略奪されるフラグだからねー。あ、最近は逆パターンの少女漫画も出てるか!」

「それ、後味悪くない?金持ち性悪女は正統派ヒロインに勝っちゃダメっしょ」

「確かにー」

ぎゃははと笑いながら、色とりどりの弁当を取り皿に分け、オレンジジュースを紙コップに注ぐと鳳と日吉に差し出す。意外と家庭的で女子力が高いようだった。

「鳳君も良い線いってるんだけどね。財産的には向こうが上だろーけど、身長は高いし、なんといっても、さわやかだしね!」

こちらの意見も聞くつもりはないようで勝手に話し続け、勝手に盛り上がり、勝手にフォローを入れる。本当に鳳と日吉は必要だったのか疑うほどだった。

「でも、のタイプじゃないんだよねー」

「確かにー、ガッツリ俺様系だもんねー」

「そーそー、気に入られたいなら、もっと上から目線でものを話さないと!」

立ってと指示されるがまま、その場に立たされ、特に意識せず見下ろすと、おおーと歓声を浴び拍手される。

「そーそー、もっと偉そうな感じで!」

「次に、壁ドン、顎クイしてみ?」

「なんですか、それ」

「日吉やってみ」

なんで俺は呼び捨てなんだろうと、納得いかないながらも、日吉は言われた通り立ち上がり、「相手役やるー」と手を挙げた女子を近くの木に押しつけ、顎に手を添え上向かせる。そして、適当に景吾が言いそうなセリフを吐く。

「今夜は俺様の姿を目に焼き付けて寝な」

忠実に再現する日吉に、どっと笑いが起きる。

完全おもちゃにされているが、景吾と似てると言われるのは少し嬉しく、再現度の高さに満足そうにドヤ顔をする。白い目で見てきた鳳のことは気にしないことにした。

「よし、鳳くん、試しに、『今日も太陽は俺様のために輝いてるぜ』って言ってみ?」

空にむかって指さした女子に対して、鳳は怪訝そうな顔をした。

「え、それ、やばい人ですよ」

「それ、アンタんとこの部長に言ってみ?」




*********




つい最近まで酒屋だったその店は、大手コンビニチェーンの看板を掲げてからというもの売り上げが右肩上がりで、店長のワンオペ運営を脱却し外国人店員を雇えるまでになっていた。一方で、駅から離れているため本社からの監視の目が緩いのか、未だに防犯カメラは設置はされておらず、旧態依然としたコンプライアンス感覚が残っているため、未成年への酒とたばこの販売を許容している貴重な店だった。

それでも「中学生 職場体験中」と書かれたのぼりに事前に気づいていたら、亜久津は足を踏み入れなかっただろう。

「イラッシャイマセー」

煙草を切らした亜久津は珍しく昼間にこの店に訪れた。パーカーとジーパン姿の180cm以上ある男を中学生と察する人間はいなかったが、用心深い彼は人を使いにやったり、購入時間を深夜にしたり対策を普段は講じていた。ただ、最近はあまりにも法と倫理から外れた喧嘩と女遊びしかしない毎日で危機感も薄れ、何をしても拭えない苛立ちと不快感からタバコの減りも早く、感覚が麻痺していた。

学校のロッカーに予備のマルボロを1カートン仕舞っておいたが、何故かそれもなくなっていて、気分は最悪だった。

「94番」

「毎度アリガトゴザイマスー」

タバコの番号を言って外国人店員から商品を受け取り、財布を尻ポケットに仕舞った所で、ガチャリと冷たい金具が手首を締めた。それが手錠だと分かった瞬間、全身に鳥肌が立ったが、直後、「逮捕しちゃうぞ」と耳に届いた聞きなれた声に落ち着きを取り戻す。


「何のつもりだ」

背後からひょっこりと現れたを睨むが、初めて見る彼女の氷帝の制服姿に少し動揺し、奥歯を噛む。胸に付けられた札には『職場体験中』と書かれていた。

「震えるほど会いたかったですよ」

有名歌手の歌を引用して笑いを誘っているようだったが、手錠で身動きを止められた亜久津には全く笑えない状況だった。

「春から働くんですってね。納税者が増えることは国にとってはいいことです。でも、よくよく聞けば、就職先はシフト制で土日出勤、転勤ありというではありませんか?私とはいつ遊ぶつもりですか?」

「テメーに割く時間なんてねーよ。それよりなんだこれは」

両手首を動かすと重量感のある金具の音が鳴る。本物を見たことはないので判別はつかないが、玩具にしても頑丈で力づくで壊せる代物ではなさそうだった。

「残念ですが、貴方には少年院に行ってもらいます」

「ああ?」

耳を疑うとはこのことだった。昼時にも関わらず店内には客が一人もいなかったが、外国人店員は二人の会話を気にすることなく、調子の悪いコーヒーメーカーを叩いていた。第三者から見れば機械の故障の原因を作っているようにも思えた。

「あそこなら月に2回、定期的に会うことができます。全く会えないよりマシだと思いませんか?」

何と比べてマシなのか全く見当が付かなかったが、彼女が真剣な眼差しを向けてきたことから冗談ではないことが分かった。

「実は日本の法律だと未成年はタバコを買ってはいけないんですよ。次に会う時はガラス越しと思うと寂しくなりますが、これで手を打ちましょう。人間歩み寄りが大事なんです」

どこに歩み寄りがあったのか、これもまた検討がつかなかったが、話にならないことだけは分かった。怒りのまま動かせない手の代わりに、蹴り飛ばそうとした亜久津だったが、彼女が左腕に包帯を巻いていることに気づくと、勢いよく上げた足を近くの受付についてある郵便ポストへ向ける。大きな音を立てて、赤いポストがへこんだ。

「タバコの購入だけで少年院に入れるか不安でしたが、これで問題ありませんね。器物破損と恐喝罪。足りなければ何か追加しましょう」

まるでレストランで料理を注文するかのように言う。

じゃらじゃらと手錠の鍵を見せびらかし、自分の口を大きく開いて中へ放り込むと、ごくりと喉を動かし、ニタリと不敵な笑みを浮かべる。その様子を見て怒りが頂点に達した亜久津は絶対泣かせてやると心に決め、背中を押されて奥の事務所へ連れていかれても黙っていた。

窓がないその部屋は薄暗く、冷蔵庫に面しているからかひんやりと冷たい空気が辺りを包んでいた。机と椅子が置いてあるところに着くと、は亜久津の脛を蹴飛ばし、強制的に座らせ、右手をその肩に置いた。

「私から離れようなんて100億光年早いですよ」

「ぶっ殺す」

頭突きで反撃したいところだったが、手が固定されているというのは思ったよりも身動きが取れない。座らされて肩に体重をかけられると立ち上がることも容易じゃなかった。

サーン、こっち来てくだサーイ」

店の方から店員に声をかけられ「はーい」元気よく返事をすると、は亜久津の髪を乱暴につかみ、顔を近づけ視線を机に向けた。「スポーツ推薦志願書」と記載された紙が置いてある。

「嫌なら壇太一お勧めのスポ推でも構わないですよ。学費免除、3食付きの寮完備。ちゃんと高校に通ってもらえれば出待ちできますしね。」

「ざけんな。テメーとなんぞ、二度と関わりたくねぇ」

「まあ、少年院も3食付きな上、報奨金ももらえますし、悪くない条件ですよね。あなたにも選択の自由はあります。好きな方を選んでください」

店へ通じるドアに手をかけながら、大事なこと思い出したように振り返る。

「1時間で決めてくださいね。警察が来ます」

「通報したのか?」

「まさか。わざわざ足を運んでもらうようなことしませんよ。警察も忙しいんですよ。1時間後に警察の訓練としてコンビニ強盗逮捕の予行演習があるんです。終わったら、ついでに連れて行ってもらおうと思ってます。こういうイベントには野次馬も多いですから。盛大に送り出されますよ」

恥の上塗りである。ではでは、と言ってドアを閉められると、亜久津は大きく舌打ちを打ち、手錠を外せる道具がないか辺りを見渡す。そこで初めて同じ机斜め向かいに男がいることに気づいて、目を大きく開いた。

「跡部」

氷帝の制服を着たその男の胸にも、その派手な顔には似つかわしくない「職場体験中」と書かれたダサい札がついていた。

「いたのか」

「ああ」

「いつから」

かろうじて最初の質問には返事は返ってきたものの、視線は彼の目の前にある分厚い紙にありその手は電卓を叩き続けていた。次の質問には答えなかった。大企業の会社名とともに「決算書」「4半期収支表」と書かれた紙を見る限り、職場体験とも学校の宿題とも関係ないということだけは分かった。亜久津が学校に通っていない間に、ずいぶんと日本の教育の質は低下したらしい。

「御曹司ともなると大変そうだな」

「お前程じゃねーよ」

皮肉を皮肉で返され、胃がむかつきを覚える。

数字が羅列されたその資料に何の意味があるのか分からなかったが、亜久津の存在も、先ほどのとの会話よりも重要なもののようだった。彼がを放置気味なのは知っていたが、部活がない週末は一緒に過ごし、彼女の文化祭には顔を出すなど、少なくとも婚約者として良好な関係を維持していた彼が、目の前で行われたあのやりとりに一言も口出しをしなかったことに、その考えを改めされる。


関わりたくない相手だが、今回ばかりは興味を引かないと現状を打開できないことは分かっていた。手錠を外さなければならないからである。壇から仕入れていた試合の情報をもとに、景吾の気に障るであろう言い方で喧嘩をふっかけるが適当にあしらわれたため、すぐに話題を変える。亜久津としても景吾と世間話に花を咲かせたいわけではなかった。

「もうとは寝たか」

眉をぴくりと動かして景吾が反応を示したので、亜久津この話題で気を引くしかないのかと内心舌打ちしていた。正直、消化しきれていない気持ちが残っているため気が進まなかった。

「お前に関係ないだろ」

「悠長なこと言ってると他の男に喰われるぞ」

「あーん?が会えないって騒いでた割には、ずいぶん情報が早いんだな」

思い当たることがあった様子の景吾の態度に、動揺を誘っていた亜久津が逆にたじろいだ。自分が傍にいない間に、景吾でもない第三者が彼女に手を出したということに、驚きを覚えた。とんだ火事場泥棒だ。

「大丈夫だ。予想はできなかったが指導も管理もできている。あれは俺の後輩だからな」

幸村に指摘されたことを思い出した景吾は亜久津に非難される前に次の言葉を紡いだ。

その言葉を真に受けた亜久津は、が以前気にしていた日吉の顔が思い浮かべる。景吾に雰囲気こそは似ているが、下級生な上に記憶が正しければだいぶ小物である。あれと寝たのか?

衝撃の事実に打ちのめされる。そんなことだったら、と次の思考に及ぶ前に頭を振って感情を抑え込む。彼女と距離を置いたのはなんのためだったのか、思い出す。


第一に将来のない彼女との関係に怯んだからだ。手を出せば苦しむのは自分だと理解していた。それから、欲望のまま食い散らかさないためでもあった。

そして、跡部景吾が相手であれば、心を揺さぶられることなく諦められる自信があった。


「テメーはそれで良いのかよ」

「そりゃ頭に来たさ。2回も感情を揺さぶられたことにな。この俺様が2回もだ。でもな、その度に理性が働くんだ。目くじらを立てるほどじゃないってな。それにアイツも十分反省してる。俺の前で謝ってばかりだ。同情するほどな」

「2回も?反省?なんだそりゃ。謝ってすめば、警察サツはいらねーよ」

「謝罪もしたことのない奴が偉そうに言うな」

「そもそも俺は何もしてねー」

確かに最後まではしなかったので、彼の言い分はある意味正しかった。「何も」というのは言いすぎだが。

「そうやって、悪びれもなく振る舞う奴がいるから、警察は必要なんだ」

再び資料に視線を戻し、クールな姿勢を崩さず会話を続ける景吾に対し反感を抱く。

それでもと思う。
テニスコート上ならば打ち勝つことはできるかもしれない。けれども社会において、景吾ほどステータスを持った人間はいないことを亜久津は知っていた。今でさえある「差」は、今後より大きく開く。

生まれた時点で、人生は8割決まる。生まれた時代、国、地域、親、環境、決められた枠の中から外れることなく、ほとんどの人は生きていくのだ。

立派な幹線道路を敷かれた景吾と、轍さえない自分、持つ者と持たざる者、比べるまでもなかった。同じ空気を吸っているのに、明らかに自分とは違う世界の人間。


それまでも節々に感じることはあったが、目を背けていた現実を、が近づいてきて距離を測ることができた。近いようで最も遠い位置に立つ彼女の存在を意識できた。どんなに気に入っていても、時間を共有しようとも、一緒にいる未来などないのだ。

彼女は「私たち」という言葉をよく使っていた。あたかも互いが対等であるかのように。けれども、学生という身分を失い、社会人になった自分が彼女の隣に立っている未来を想像することはできなかった。


「お客様、困りマス!」

店員の野太い叫び声とともに店の方で大きな物音が聞こえた。景吾は視線を扉に向け、組んでいた足を解いて立ち上がると、手元の資料を整え封筒に入れた。

「偽強盗犯のお出ましか」

警察の予行演習が始まったようだった。
犯人役と思わしき人物の怒鳴り声が聞こえてきた。




*********





「有り金全部だせぇ!」

「ハリガネは置いてマセン」

「ハリガネじゃぁねーよ!金!マネー!キャッシュだよ!早く出せ」

「キャッシュレスはこちらにバーコードを当ててください」

「ふざけんなぁ!」


警察の予行演習にしては、ずいぶんガラの悪い犯人役を立てたなと思いながら、彼に指示される前には両手を挙げて敵意がないことを相手に示した。ここを管轄する所長は演習だとしても手を抜かない完璧主義者なのかもしれない。

「日本語も分かんない外人雇いやがって!俺みたいな熟練工をクビにして、安易に機械や外人に取って換えるから日本はダメになるんだ!」

取って変わられたのがAIや外国人でなければ問題なかったのだろうか。例えば、機械的に対応する人や、顔の彫が深い日本人だったらダメじゃなかったのだろうか?

そんな疑問を浮かべ呆けていただったが、男に怪我をしている腕を鷲掴みにされ、首に包丁を突き付けられると、悲鳴こそは上げなかったが思いっきり顔を歪ませた。男は、目の前の店員とカウンター奥にあるスタッフルームの扉から出てきた景吾に向けて睨みをきかせた。

「警察を呼んだらぁ、この女を殺す」

リアリティも迫力も十分だった。オーディエンスがいないにも関わらずここまでやるのは、もしかしたら、警察職員ではなく、犯人役は劇団の人にお願いして雇っているのかもしれないと、左腕の痛みから逃れるために更に想像を広げたところで、首元にちくり刺すような新たな痛みを感じ、視線を下に向ける。

肌に当たった包丁から血が出て襟が赤く滲んでいた。

本物だ

このコンビニ強盗が演習ではなく本物と察したは、すぐさま前に向き直り、背筋を伸ばして切っ先から少しでも距離を取る様に顎を上げ、景吾に目配せする。

しかし、目が合っても、つまらなそうにドアから出てくる態度を見ると、警察の演習と信じて疑っていないようだった。


「動くなぁ!本当に殺すぞ」

「かまわねーよ」

景吾の後ろから続いて出てきた亜久津が、手錠を切る道具を探すため周囲を見回しながら言う。この発言に動揺したのは強盗犯の方だった。

「俺は、本気だぁ!」

ぐっと力を入れると、切れ味の良い刃がスッと首に食い込み、一層の血が流れると、は顔を青くした。今度ばかりは景吾が瞬きして、強盗犯を足元から頭まで見るとちらっと時計を確認する。そこで演習開始の予定時間よりもだいぶ早いことを知り、強盗犯が本物だと思い至る。

すぐに亜久津に視線を飛ばすが、だいぶキレているのかを睨んでばかりで、聞く耳も持たない様子だった。そして、そのまま亜久津は怒りに任せて暴言を吐く。

「跡部に聞いたぞ。日吉に股開いたらしいじゃねーか。テメーはいっぺん死ね」

驚いて景吾を見たに、彼は手を振って「言っていない」のジェスチャーをする。包丁を突き付けられ、喉を動かすことも憚られる状況の彼女と違って彼は言葉を発せたが、予想外の亜久津の発言に言葉が出なかったようだった。亜久津の返事で犯行を実行せざるを得なくなった犯人が、気が進まないながらも包丁を振り上げると、景吾は慌てて口を開く。

「待ってくれ。金は出す!」

動きを止めた強盗犯が考えを変えないうちに、景吾は事情が分かっていない店員をどかしレジを開くと紙幣を全て取り出し、カウンターに積んだ。小さなコンビニ店の半日の売り上げなので20万程しかない。

「小僧、賢いなぁ」

思い通りになったことが、よほど嬉しかったのか男はヤニで黄ばんだ歯を見せて笑う。から言わせれば、景吾は大人の期待に応えすぎだった。

「金は出しただろ。そいつを離せ」

「ヒーロー気取りかよ。綺麗な顔して、高そうな時計つけて、将来も安泰そうだなぁ?俺はなぁ、そういう奴が憎くてしょうがないんだ。知ってるぞ。都内でも有名な金持ち中学の制服だろ。ATMで預金を全部おろせ」


顔をしかめながらも、景吾は指示された通りATMが設置されている場所へ向かって歩いた。1日の引き出し限度額はたかが知れていた。預金額より遥かに低い額だ。

景吾と男がやり取りをしている間に、亜久津は商品棚で大きめのペンチを見つけるも、自身で手錠を切れないと分かると、その場にいる誰もが聞こえるように舌打ちをし、ニコチン切れの威力もあって、募る不満を爆発させた。

「納得いかねー。なんで日吉なんだよ!」

まだ、その話するの?今するの?と思ったのは、心当たりのないことで非難されているとATMの操作を始めた、誤解の生みの親である景吾だった。彼らの心の声が亜久津に届くことはなく、亜久津は手錠で繋がれた手を組んで思いっきり振りかざし、苛立ちをガラスケースにぶつけた。

散らばった揚げ物を見て、一番驚いたのは強盗犯だっただろう。


「日吉で済ませるんだったら、俺があの日最後までヤった」

「・・・何の話だ?」

軽快なリズムで操作ボタンを押していた景吾の指が止まり、亜久津へ顔を向ける。に唾を飛ばしていた亜久津も話しかけられるとそれに応じ、睨みつけた。


に手を出したのか?お前、女に困ってないんじゃなかったのか?」

「後輩とヤらせておいて、口出してくんな。クソが」


景吾と亜久津、それからを見ながら、話を聞いていた強盗犯は、三角関係の修羅場と思い至ると大声を出してキレた。

「リア充かぁ!」

、お前、いっぺん死ね!」

その叫び声と同時に、先程の亜久津と同様の言葉を吐いた景吾はATM隣に置いてあった雑誌をに向けて投げた。避けようとした男の手元が緩むとは屈み、雑誌が包丁に当たって落ちる。その衝撃でよろけた男から、亜久津はを引っ張り、反動をつけて相手を蹴り飛ばした。手錠がかかっているにも関わらず大したものだった。

男が倒れた衝撃で大きな音を立てて自動ドアが割れ、飛び散るガラスから亜久津がをかばう地面に伏せる。ガラス破片で体中に小さな怪我を負いパニックに陥った男は、叫びながら体を転がした。

捕まえるのであれば今だったが、景吾はそちらよりも倒れている2人に向かい足を向けた。

「どういうことか説明しろ」

「こういうことですよ」

亜久津と床に挟まれた状態で景吾を見上げると、右手を亜久津の背中に回してぎゅっと抱き着く。彼女を守り切った亜久津も、手錠が外されていないままの状態で一度地面まで伏したら起き上がることも難しく、されるがままだ。

「私たち、なかよし、なんです」

「離れろ。今すぐ何があったか説明しろ」

亜久津の背中にまわされたの手を足で蹴飛ばし、床に叩きつけられた手にダンと足を据え、ぎりぎりと踏み付ける。ぱちりと乾いた音がして小指の爪にヒビがはいる。横目でそれを見た亜久津が目を見開いて驚きを露わにした。

彼の想像上では跡部景吾は、女に対して紳士的に振る舞う人間だった。少なくとも、女の手を足で踏みつけるような外道のマネをするとは考えてもいなかった。

「足をどけろ」

「あーん?」

「ボンボンのくせに女の扱いがなってねーな」

「お前こそ、ヤンキーのくせに中途半端な女を相手にすんなよ」

お互いよくも知らない相手に対して自分にとって都合よく解釈しているところが問題なのだが、自己中心的な人間は往々にしてその問題点には気づけない。が、亜久津の言葉を聞いたは、唯一使える右手を潰され、その皮膚を真っ白にされていながらも愉快そうに笑った。左腕は包帯に巻かれ、首からは血を流しているんだ。満身創痍とはこのことを言うのに、何が楽しいのか全く理解できなかった。

早口でまくし立てている彼らの会話は理解できていない様子の店員だったが、倒れている人は助ければならないということには気づいたらしく、カウンターから駆け寄ると景吾を押しのけて、亜久津の手錠をペンチで外し、には手を差し伸べた。

その手をとって立ち上がると、は人差し指を窓の外に向ける。

「景吾さん、犯人が逃げてしまいますよ」

一通りの口論をした最後に、にそう指摘されると景吾は舌打ちしてカウンターを飛び越え、壊された自動ドアを通り外に出た。が、犯人はすでに近くの歩道橋の階段を駆け上がっていた。追いかけようとしたところで、店員に服を引っ張られ、振り返ると、緑と赤色の2つのカラーボールが入った箱を差し出された。

「これをドーゾ」

強盗犯のナイフへ雑誌を命中させた腕を買ってか、店員が景吾を期待の目で見てくるが、先ほどと違って距離がかなりある。男に当てられるか自信がないので、景吾はできれば投げたくはないと思った。ミスをしたら恰好が悪い上、一歩間違えて走行中の車にフロントガラスにでも当ててしまえば大きな事故にもなりかねない。

いつの間にか移動し駐車場でこちらの様子を伺うと亜久津を見る。無言の圧力から投げないという選択肢が消える。に至っては応援歌なのかなんなのか、最近のCMソングを歌い始める始末だ。

「ABCからCを取ったら、A~B、えーび!」

エビを連呼しながら、こちらのやる気を削ぐ。亜久津が肘うちして、やめるよう促しているのを見て、更に意欲が失われる。二人の関係を聞く前だが、もはやイチャイチャしているようにしか思えない。

気が散るから止めろ、と言いたいところだが、事態は一刻も争うので心に留める。

「ABCからCを取ったら」

店員から受け取った赤いボールをぎゅっと握りしめると、目を瞑り、息を吐き神経を尖らせる。

俺ならできる。

球は2つきり。1球目で決めなければ、余計プレッシャーがかかるし、的も更に遠くなる。
絶対1球で仕留める。

「A~B、えーび」

目を細め「インサイト」とつぶやく。
この言葉は彼のプレ・パフォーマンス・ルーティンだった。

「という訳で、亜久津とは、ペッティングまでしました」

手から離れたボールが男に当たるのを確認する前に景吾はもう一つのカラーボールを取ると、すかさずに向けて投げつけた。一球目よりキレのあるボールが彼女の胸元に直撃し弾けると氷帝の制服を緑色に染める。

そのまま彼女を突き飛ばし、馬乗りになって殴ろうとする景吾を亜久津は急いで止めた。予行演習にきたパトカーがちょうど到着したところだったので、止めなければ、強盗犯と一緒に景吾も連行されるところだった。

亜久津が景吾を後ろから抱き留めている、その光景が可笑しくて仕方なというように、笑いながら立ち上がったは、お腹に手をあてて、その目じりには涙を浮かばせていた。制服から地面に向かって塗料がボタボタ落ち、小さな水たまりがつくられる。

「この際、2人ともまとめて少年院に行ったらいかがですか」

この言葉にムッときたのは景吾よりも亜久津だった。
俺と跡部を、まとめて一括りにするな。同じ所に立たせて、対等のように見せるな。
亜久津は歯ぎしりして吐きたい言葉を飲み込んだ。

「まだまだ少年なのに大人ぶって、身の程知らずなんですよね。あなたたちはどう足掻いたって刑務所に入れない年齢なんですよ」

現実から目を逸らさせて、甘い言葉で騙す政治家の言葉だ。
耳を傾けるな。信じちゃいけない。
裏切られるのも、切り捨てられるのはいつもこっち側なんだ。


「私がティンカーベルになってネバーランドへいざないますよ」


緑色に染まったスカートの端を持ってお辞儀をした。オレンジ色の夕日の逆光で彼女の表情は分からず、亜久津は代わりに景吾を見た。

夕日に当てられた彼の顔は真っ赤に染まっていた。
唇を噛んで鼻を膨らませたその表情は、悔しそうで、苦しそうで、辛そうだった。


自分と同じなのかも知れない、そう思わざるを得なかった。




******






「優紀さん、今日も差し入れありがとうございます」

「いーえ。仕事ないから今暇なの」

優紀の回答に、笑っていいのか判別が付かなかった千石は差し入れが入ったバスケットの中を覗き込んで「わー、かつサンド大好きです」とすぐに話題を変えた。

「ありがとうね。仁にテニスを続けさせてくれて」

「俺は何もしてませんよ。ロッカーにあったタバコを回収したくらいで」

「仁君、吸ってるんだ。頼りない私がいけないんだけど、早く大人になりたがるのよね。失業したからって、すぐに家計が回らなくなるわけでもないのに、働くって言い出したときは本当焦ったわー」

コートでテニスをする息子を見ながら、頬杖を付いてのんびりとした口調で言う。亜久津は強盗事件の翌日から部活に復帰していた。試合出場禁止になるような行為はしないということが復帰の条件だった。

「あー。優しいですからね」

敢えて「身内には」と付け加えなかった千石は、預かったバスケットの中に経済雑誌を見つけ、優紀の私物だろうと思い、ベンチに置く。

「やりたい事があっての就職なら快く送りだすけど、私の失業が原因でとりあえずって言いうのはちょっと違うかなって思ってて、今回は思いとどまってくれて良かった」

「俺たちにとってもラッキーでした」

社会人になる前にやりたいことを見つけて、その仕事に就ける人間がどの程度いるのかわからないが、それが親心なのだろう。

「さてと、若者たちから元気ももらったし、今日も元気に就活しよーかな!」

ベンチから立ち、皺がよったスーツをはたくと両手を上げぐっと伸びをする。彼女の清々しい表情を見るとすり減ったヒールの底が報われる日も近そうに思えた。


強い風が吹いてベンチに置いてあった雑誌がめくられ、連日ニュースとなっている今話題の記事が掲載されているページが開かれた。


国内の大手証券会社が倒産し、従業員の一人が家族を巻き込んで無理心中をした事件の詳細が書かれている。一般人の6倍は稼いでいたその従業員は有名国立大学卒業のエリートで、人望も厚かった。会社が倒産しても、選ばなければ転職先があったに違いない。

けれども家族を巻き込んで自死を選んだという、その転落人生にこぞってマスコミも世間も群がった。専門家の分析した意見を掲げ、こうなったのは不況を招いたお前らのせいだと、声高々に支援をしなかった政府と大企業を罵った。

とはいえ特定の業界や企業に支援しても叩かれるのだから、世間の反応はどう足掻いても変わらないように思えた。

「貧乏人は麦を食え」

見出しには、倒産件数の増加に対する野党の追及に対して官房長官が国会で放った「所得の少ない人は麦を多く食う、所得の多い人は米を食うという経済の原則に沿ったほうへ持って行きたい」と答弁が大きく切り取られ掲載されていた。


ちゃんにラッキーアイテムでも贈ろうかな」

悪い評判しか聞かない父親を持つに同情を示しつつ千石は雑誌を閉じた。




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