脱線

26




敷かれたレールに乗っていた。
最終目的地は跡部財閥の跡取りだった。
そこへ辿り着くため、必要な駅には止まったけれど、ほとんどの場所は素通りしてきたように思う。


器量の良かった俺は乳幼児のころから注目され、4歳時に受けたIQテストで優秀だと知られると跡部財閥の跡取りとして有力候補に上がった。そして、政治一家のが婚約者となったことが決め手となって、他の親戚とは一線を画し磐石にも言える地位を手に入れた。

今回の、祖父の試練も難なく答えを出した。

倒産と一言に言っても、従業員には仕事の斡旋もし、十分な退職金も手配されていた。だから、大丈夫だと、どこか悠長に構えていた。

そして、世を騒がす心中事件が起きた。

自分の立場に置き換えたらどうだった?ある日、跡部財閥の跡取りにはなれないと告知されたら?それなりに優秀で容姿も良いので、それほど悪い未来が待っているわけではない、と、開き直れるほど、自尊心は低くない。

にもかかわらず、他人の感情には酷く鈍感に、簡易的に考えてしまったのだ。想像力がないばかりか、背負う覚悟もなかった。

俺は、怯んで、逃げた。

今思えば、それは、ドラクエで敵が現れた時に、「たたかう/ じゅもん/どうぐ/にげる」のコマンド4択を前に、にげる、を真っ先に選び、連打してしまうくらい、恥ずかしく、みっともない逃げ方だったと思う。










ごきゅっ、ごきゅっ、ごきゅっ、喉を鳴らす音が響く。

「新しい世界を見たんだ」

「はあ」

中世的な顔を持つ景吾の首もとの男らしい喉仏を見ながら、は膝上に置いた手をぎゅっと握りしめた。時折、隣に座っている豪の足を踏んで目配せするが、彼は目を泳がせて、米神からだらだら流れる汗をリストバンドで、拭くことに専念していた。


「ふふ、奇跡が起きたのです。跡部様は次の世代を担うお方。我が教祖様も大変お喜びになっております」

景吾の隣で白いベールをかぶった少女が小さい口を開けて軽やかに笑う。鈴を転がすような声が、決して狭くはない、景吾の部屋に響き渡る。彼女は、先日占いの館にいた占い師だった。

どう連絡をとったかは知らないが、彼女は景吾を自分の所属する教団主催の、いかにも怪しげなセミナーに誘ったらしく、のこのこと付いて行った景吾は、そこで教祖と作為的な出会いを遂げ、施設に足繁く通うようになり、なんなら、次期教祖として迎えられそうな勢いで、信者になるよう勧誘されている、ところらしい。

全て聞いてから、おいおい、どういうことだ、誰かもう一度説明してくれ、と叫びたくなった。

「教祖様から承りし不思議な力によって新たな能力が生まれるとされています。私の予知能力もその一つですが、入団すれば、跡部様にも新たな力が授けられることでしょう」

「そういう人のことを、超能力者って言うんですっけ?私も、スプーン曲げくらいはできるんですよ」

祈るポーズをしていた少女に合わせて、もまじないをかけるよう人差し指をぐるぐる回し、コーヒーカップのソーサーに乗っていたスプーンを、持ち上げ、これみよがしに、ぐいっと曲げた。「そういう人のことは、ゴリラって言うんだ」と隣の豪がこぼす。


気落ちしている景吾を励ますため、サッカーの試合で強豪校に勝ち、浮かれていた豪を引き連れて、家を訪れたものの、そこで、新興宗教にはまったという、冗談ともとれる話を聞かされることになるとは思ってもいなかった。

容姿に優れ、資産家で家柄もよく、将来的に権力も持つ人間に、群がりその利益に預かろうと考える輩は五万といる。そういう人たちは、相手が弱ったタイミングを見計らって、ここぞとばかりに距離を縮めてくる。

そう、私にとってもチャンスだったのにっと、景吾がいとも簡単に陥落している姿を見て、は悔しい気持ちで胸がいっぱいになった。


「我々は本物です」

ひだが幾重にも付いている長袖を器用に動かしながら、少女が目の前にあるローテーブルの上に、キャリーバックから取り出したペットボトルを丁寧に置いていく。

「ご覧ください。こちらが、頭が良くなる悟りの水、万病が治る治癒水、幸福になれる幸福水、力がみなぎる力水、美肌になる肌水となります。」

「力水、肌水?」

典型なインチキカルト商法ではないかとの疑問がよぎり、途中から聞き覚えのある商品名が耳に届くと、これは商標侵害に当たるぞと、立ち上がって追及したくなった。

「大変貴重でありがたいお水です。因みに、跡部様が今お飲みになられているのは『万能水』でございます。こちらは全ての悩みに効くと言われております、大変貴重でありがたいお水なのです」

ラベル張り替えただけだろと思ったのは、染みついた習慣から相手の話に合わせて頷き続けていた豪で、は「万能水」と書かれたペットボトルをまじまじと観察し、ふたを開け、匂いを嗅いでから、口に含んだ。

「こちらお値段一本当たり5万円となります」

ブッと水を吹き出し、せき込むの背中をさすりながら、豪は、眉を上げた景吾を落ち着かせる為、占い師に頭をさげ、「すみません。大変貴重でありがたいお水なのに」と、やはり相手の話に合わせた。

「跡部様、そろそろお時間です。お車が迎えに参ります」

「そうだな。おい、片づけとけよ」

と豪を一瞥して、部屋を出ていく景吾を見たあと、豪は学習机の上に置いてあるペットボトルの本数を指で数え始めた。

「9本?45万ってこと?」

「あっちに段ボールもありますよ」

の指さした方向には、部屋の背景に溶け込むような白い段ボールがいくつも積まれていた。

「言いにくいこと言ってもいい?」

「これ以上、ですか?」

「あの教団さ、『神隠し』の噂もあるんだよね。十代の女子が何人か信者になったきり帰ってこないらしい。親が訴えても、神に召されたって言われて取り合ってもらえないとかなんとか」

「・・・豪君、今こそ警視総監のお父様の力を発揮する場面ではありませんか?」

「まだ、警視監だよ。宗教系の検挙って大変なんだって」

「幼馴染が納税も碌にしない団体の仲間になりそうなんですよ?」

「宗教法人はさ、国が本来やるべき福祉サービスを提供している団体なんだよ。だから非課税なんだ」

「5万の水を売りつけておいて?」

鼻息を荒くして、詰め寄ってくるをいなしながら、ゆっくりと息を吐く。

「景吾君だって、そのうち目が覚めるよ」

「そのうち?いつ、どこで、何時何分、地球が何回回った日ですか?」

子供が駄々をこねるようには、一層声を張り上げた。

「僕、次の期末試験で、1番取れって父さんに言われてるんだよね。正直、あと3ヶ月くらい、あの状態だと助かる。もっとでも良いけど」

今日一番の深刻な表情をしてそう言った豪に、は持っていたペットボトルを投げつけ、用事は済んだとでも言うように立ち去っていった。
「こういう人のことを、ゴリラって言うんだ」と誰もいなくなった部屋で独りごちた。





*********




用意された白装束に腕を通し、行団施設の中央広場で他の信者と共に祈りを捧げる。初めは抵抗のあったその服も行為も1週間も経つと慣れてくる。

「お浄めをさせていただきます」

祈りの後は、占いの少女の部屋で体を清めていた。いつものように胡座をかいて座ると、占い師は慣れた手つきで上着とシャツを脱がし、暖かい手を押し当てていく。この行為を『手当て』と言って、その名の通り、少女の手を当てられて体の穢れを取るような作業だった。

少女の部屋で焚かれるお香は、広場のものよりも濃く、部屋の周りを囲うように立った蝋燭の灯は強く、神経を麻痺させる。座布団の横に置かれた水を飲みながら、部屋の上座に置かれたゾウを模った偶像をぼんやり眺めて息をつく。


まずいという自覚はあった。

授業を受けても、上手く頭が働かない。人の話が耳に入ってこない。部活動をしていても集中できず常に倦怠感があった。



人の生死に関わるくらいなら、跡取りになりたくない、そう思い至って、全てが無意味になった。目的のために割いてきた努力と時間が無駄に思え、空しくなった。けれど、それ以上に、今後どうしていいか分からない自分に、失望した。

それで、最初は、ただ学校とも家とも全く関係ない場所で過ごしたかった、それだけの理由で足を踏み入れた。

教団施設にいると靄が晴れたように視界がスッキリし、頭も冴え、体が軽くなるような気がした。将来や他人の期待、背負っていたもの、掲げていた志、自分の判断で追いやった人の死も、大したことのないように思え、安息を手に入れたように思えた。けれど、そのうち、施設にいないと漠然と不安になるようになった。

「お疲れのようですね」

と会ったからな」

「彼女は禁断の果実。ゆめゆめ齧られないように・・・」

「向こうが噛み付いてきてくるんだ。いつも不満そうに文句ばかり並べて」

ふふ、と再び慎ましやかに笑う彼女は、口布をしていて目しかわからない。けれど、どこかこの世の者とは思えない空気を醸し出していた。

彼女は母親が不治の病にかかっていた所、ここを紹介され、親子で通い詰めたのがきっかけだったようだ。その心棒ぶりに教祖に見込まれ、占い師として活動しつつ信者たちの相談役を務めることになったらしい。

日替わりで他の信者たちからも教祖や教団のおかげで何某が良くなったとか人生が変わったなど聞かされたが、どれも似たり寄ったりで、実は心に響くものはなかった。教祖の話もインパクトはあったが、たちに語ったように心酔するほどではなかった。では何故自分はここに来てしまうのか。大量に飲ませられる水と嗅がせられるお香に、何か入っているのだろう。体が警鐘を鳴らしても抜け出せない程の何かが。そのくらいは分かった。


「今週末に悟りの儀式が行われます」

「いよいよ、正式に教団の一員ってわけか」

「ええ、あともう少し」

眼を光らせ嬉しそうにする様子は年相応に見えた。手を首の後ろに当てられる。それからろうそくが増やされ、強い香が焚かれると意識は朦朧としていき、視界がぼやける。

もうすぐ苦しみから解放される。おぼろげに、そう思った。

「手当て」が終わった後、電話での父親から会食の誘いが入った。


3人で囲む、最後の晩餐だ。





*********





そのうち目を覚ます。

そうだろうとも、でもだ。あの陳列されたペットボトルと価格帯を見る限り、まっとうな宗教団体とは言えず、不安を覚えたは、まず、最初に身近な大人に相談することにした。

が、景吾の両親に相談しようとしたら、転職先の仕事が始まる来月まではヨーロッパ旅行に行っているというし、父親に話したら「なんだ、その面白い話は」と笑いながら酒の肴にされ、教師の榊に助けを求めると何故か「宗教と音楽の密接な関係について」のうんちくを語られた。

大人の力を借りようとしたのが間違っていたのだろうか。今回の件で、は、いかに大人が役に立たない存在かを思い知った。中学三年生ということを考えると、気づくのは遅い方だったかもしれない。

次に、は景吾に近しい同級生に声をかけた。

が、忍足に相談したら、トリプルデートの一件を根に持っているのか、一言も口をきいてくれず、芥川に至っては、漫画の話題で盛り上がってしまい、全く話にならなかった。勢いで、亜久津にもメールで相談したが、「くだらねぇ」と返事が来ただけだった。

「ということで、宍戸さん。私は貴方の所に、藁にも縋る思いでやってきました」

「そうやって俺を怒らせて、今度は『宍戸にも相談したが、声のかけ方が悪かったのか喧嘩になった』、の一文を付け加えるつもりだろ」

「さすが、短い期間でも無駄にからみが多いだけありますね。私のこと分かってきたじゃないですか」

「っつか、なんで、俺のとこ来る前に山吹の亜久津を挟んだ?よく返事来たな。それこそ、奇跡だぜ」

「そう。奇跡は、簡単に起こるものなんですよ。なのに、景吾さんったら、私の大変貴重でありがたい話に、耳を傾けることもしないんです」

「そういう所だよ。お前のそういう人を馬鹿にした言動、悔い改めろ」


クラス移動で廊下歩いていた宍戸を呼び止めことの経緯を相談すると、不満をたれながらも親身になって話を聞いてくれたので、はほっと一息ついた。さすが鳳が慕うだけあって、世話好きで親切だ。

「変な宗教って、何やってんだ?」

宍戸の言い方は、見たことのない宗教団体よりも、目の前にいるの主観のほうが、よっぽど信用できない、という感じだった。

「困ってる人を助けてるみたいですよ」

「良いじゃねーか。要は、あれだろ、ボランティアとか、環境保護とか、そういう活動してるんだろ。組合とか、町内会、PTAとかよくある団体のうちの一つだ」

「どれも、きな臭いことには変わりないですよ」

「ダセェな。そういうのを『偏見』って言うんだぜ」

指摘しながらも、どこか覚えたての単語を言うような軽さがあった。それから『相互理解』が大切だと主張し、「向こうの話を聞こうぜ」と声を張り上げたので、もそれには同意した。教団にも、こちらの話を聞いて欲しかったからだ。



放課後、実際に教団施設に訪れ、受付で占い師の知り合いだと言うとすんなり中に案内され、宍戸は拍子抜けし肩を落とした。放課後、実際に教団施設に訪れ、受付で占い師の知り合いだと言うとすんなり中に案内され、宍戸は出鼻を挫かれた様に肩を落とした。想像より、対応が丁寧で、あまりにも普通だった。

外観は普通のビルだったが、中に入ると床、壁、天井全てが白色に覆われていた。白を基調とした空間は清潔で排他的で、埃一つ許さないそんな厳格さもうかがえる。


中央広場という集いの場所に案内されると、むせ返るようなお香の香りに宍戸が後ずさりをし、後ろにいたがその背中に鼻をぶつけ、軽く口論になった。けれど、お経のような祈り声が聞こえてくると、2人は口を閉じ、開いた襖を同時に見やった。ぞろぞろと白い装束を着た信者が行進してやってきて、広場が人で埋まっていく。

「こちらが癒しの泉でございます。教祖様の祈りによって力を得た特別な水が湧き出ております」

畳が一面に広がるその広場にある雛段には、室内だというのに噴水が置いてあり、その前には500mlのペットボトルが積み重なっていた。

全員が同じ仮面と白装束を身に着けており、大きな垂れ幕に書かれた像の絵に向かって、何かをつぶやきがならお辞儀をしている。その異様な光景に、宍戸は分かりやすく顔を曇らせた。案内人はペットボトルを手に取ると説明を続けた。

「このお水を毎日飲むことによって、ある人は肩こりが改善し、ある人は病が治り、多くの人の悩みがすうっと消えてなくなるんです」

日本国憲法で、思想の自由を掲げてはいるが、こういった類の新興宗教に多くの日本人は拒否感を示す。昔、地下鉄で非道で残忍な事件を起こされたこともあり、幸運を呼ぶブレスレットだとか、ありがたい壺だとか、宙に浮く教祖だとか、そういったものは全て等しく疑う必要があると、啓蒙されたからだ。

弱っている景吾とは違い、心身ともに健康な宍戸も、やはり一般的な感覚で抵抗感を覚えた。

「初めての来場者の方には初穂料なしでお配りしてるんです」

ペットボトルが1本ずつ配られると、2人は占い師がいる部屋に案内された。




「占い師様、ありがとうございます。これで明日も生き延びられます」

扉から出てきた初老が、涙を流しながらお辞儀をした。腰が悪いのか、背中を丸め、歩くのもしんどそうに見えた宍戸が、迷うことなく手を添え、「この人送ってからにするわ」と、一言残して部屋とは反対の方向へいってしまったので、は呆気に取られる。

目的をすっかり忘れた彼の行動に、しばらくの間ぽかんと口を開けていたが、案内人が「どうぞ、どうぞ」と催促するので、仕方なく一人で占い師の部屋に足を踏み入れる。

室内には、何本もの蝋燭に火が付いており、少しの風でも揺れて幻想的な雰囲気を醸し出していた。真っ白い部屋の奥に、これもまた真っ白な椅子と机があり、そこに座っている白い衣装を着た少女の前には、透明な水晶が置かれていた。宍戸がいなくなってしまい、心許ないだったが、手の汗を制服で拭き、腹をくくることにした。

「ふふ、様が来ることは分かっていました」

相手が手招きしたので、は中央まで進んで椅子に腰かけ、それから、目の前にあった水晶を掴んで、ポーンとお手玉のように上に投げてみせる。

「この幻の銀水晶を覗いてですか?セーラームーンもびっくりなファンタジーですね」

一対一なら大丈夫、そんな妙な自信があった。

「では、これも予知できましたか?私ね、昨日、貴方のマンションに行ったんですよ」

が得意げにポケットから曲がったヘアピンを取り出して舐めてみせると、少女の表情が強張った。

「ずいぶん良い所に住んでるんですね。部屋から東京の夜景が一望できて驚きました。テーブルにクッキーが置いてあったので食べたんですけどね。寝室で寝ているお母さまを起こさないように、と気を付けてたら、味があまりしませんでした」

「・・・政治家の娘が法を犯していいの?」

少女から冷たい声が発せられ、敬語もなくなる。

「占い師は法を犯してもいいんですか?」

少女のしゃべり方のマネをしながら、肩にかけていた通学カバンから厚みのある茶封筒を取り出し、2つ、並べた。彼女が、景吾の部屋でペットボトルを置いたように、丁寧に、でも物々しく。

「右は手切れ金、左は貴方たちの調査報告書です」

少女は、迷うことなく、左側の茶封筒を手にすると、中から書類を取り出し、目を通していく。

「水の成分も調べました。景吾さんに渡したものには幻覚作用がありました。初回は全ての来客者に同じものを飲ませ、その後は信者の疾患別に中身を変えてるようですね。体や心の不調を訴えるものにはアヘン剤を、肌の不調を訴える者には抗ヒスタミン剤やステロイドを含ませた。一時的には良くなっても、病が治ることはない」

「仕事が早いのね。でも、そこまでなら、医者がやっていることと変わらない。治らない病もある。そうでしょう?」

「日本で薬を販売するなら国の承認審査を受けてください。処方するなら、国家資格を持った医師と薬剤師が必要です」

「現代医療が、国が、何をしてくれるの?私たちは、私たちの方法で病を治すの」

の言葉を軽くあしらって、真剣な眼差しで資料を読み耽る姿は、一文一句内容に間違いがないか確認しているようにも見えた。忙しなく動いていた彼女の目が急に動きを止める。はページの付箋の色を見て、表情を失くした。

「お母さま、調子が良くないようですね」

再びページをめくり始めた彼女の細い手を、は強く掴む。追い詰めた獲物を離さないように、ぎゅうと力を込める。

「深くは追求しません。景吾さんを、巻き込まないで下さい」

「…警察にいかないの?」

「行きません。貴方の言った通り、信者の殆どが病院では完治できないような肉体的または精神的疾患を患っています。検挙すればとうなるか、その結果を、私は背負いたくない」

各々事情はあるが、逃げ場が無い者がいる。救いのない人生がある。騙されていようが、紛い物だろうが、法律や正義を振りかざして、彼らの拠り所を奪うことは憚られた。

無責任に行動をおこすことと、無関心に何もしないこと、どちらが罪深いのか。それは結果を持って知ることになる。

「箱舟に乗せる人間を選んだのね」

皮肉にも、感心しているようにも聞こえた。少女は資料を机に置き、立ち上がるとに近づき、額に手を当てる。

「この間は、『人気の占い師』に運命の相手を言われて怖かったでしょう」

「調べたら、景吾さんが事前にお金を渡していたことも分かりました」

そう、あれは転校初日のパフォーマンスの仕返しのようなものだった。景吾がこの占い師に運命の相手は自分だと言わせたのだ。

「私は受け取らなかったわ」

「教団の口座へは着金記録がありましたよ」

少女が受け取らなかった事で、むしろ景吾は少女を信頼した。そして、薬が入った「万能水」をきっかけに宗教に傾倒していった。

少女が小さくため息をつき、その切れ長の目を、カッと見開いた。

「種は実りました。垢にまみれ異臭を放つ自身を許せなくなった貴方は、両手を削ぎ取ることになりましょう。直に裏切り者が炙り出されましょう」

「裏切者ですか。仰々しいですね。いや、批判してるわけじゃないんですよ。大抵の宗教はパクリあってるので、ここもそうなんだなと、ただそう思っただけです」

まるで大抵の宗教を見知っていて、それぞれの聖書も読破しているとでも、言うように、指摘する。

「道を見誤らないことです。さすれば、復活の日も近いでしょう。ご武運をお祈り申し上げます」

相手が特別な力を持っていないと分かりながらも、額がチリチリと焼けるように熱く、油汗を流した。その気味の悪さに若干怖気づきながらも、姿勢を変えず口を大きく開く。


「黙っててあげるから、景吾さんを、返しなさい!」


言い切った直後、後ろからばしゃりと水をかけられた。

驚いて振り返ってみると、いつの間にか柄杓と桶を持った白装束の人間が何人も立っていた。悲鳴を上げるよりも先に、そのうちの一人に頭を鷲掴みにされ、顔を水の入った桶の中に漬けられる。

景吾の家で飲んだ、あの見知った匂いと味が広がる。でも、それよりも何倍も濃厚で、口から、触れた肌から、毛穴から、体の中に染みわたり、脳髄を刺激される。

咄嗟のことに、抵抗もできず、何度も何度も頭を水の中に漬け込まれたのち、は意識を失った。







*********







「そう、何度も何度も繰り返しだ。証拠写真と帳簿まで突き付けてきて、アイツらは『金銭の授受はあったんですか』って、真面目な顔で聞いてくるんだ。普通、黙ってたら、きっと聞かれたくないんだろうなとか、そっとしておいてあげようとか思うだろ。アニメのヒロインだって『言いたくないなら無理しなくていいんだよ』とか言うじゃないか?アイツらには、そういう気遣いと優しさが欠けてるんだ」


教祖の説法がいつもより長くて、タクシーも飛ばしたが夕食会の時間には間に合わなかった。都内でも有名なホテルのエントランスに着くと、俺の顔を知る従業員に目的のレストランへ案内され、個室に通された。煌びやかなシャンデリアがつるされたその部屋には、の父親が既に出来上がった状態で、新しいワインを注いでもらうところだった。挨拶を交わすこともなく、彼は俺が席に着くと、追加の料理と飲み物を適当に頼み、今日あった国会答弁の話をし出し、それから野党とマスコミに対する不満を延々と口にした。


「アイツらは、こっちの秘書が首吊るまでは責め続けるつもりだぞ」


から俺の状況について話を聞いていると思ったが、自分のことでいっぱいいっぱいなのか、話が終わらない。確かに、現役官房長官が逮捕されるかもしれないのであれば、前代未聞で、一学生が一宗教団体の一信者になることに比べれば、大きな事件だった。

しかし、無駄に税金が使われているのは、今に始まったことではないし、野党とマスコミが政権批判をするのは、そういう職業だからだ。


「そんな話がしたくて、俺を呼んだんですか」

出されたパスタにフォークを差し込み、くるくると回してスプーンに乗せて口に入れる。たっぷりチーズがかけられていたが、思ったより、塩味も、匂いもしない。

「まさか、俺は忙しいんだ。君が祈っている間に、俺は行動を起こさないといけないからな」

彼は机に置いてあったスプーンをぐいっと曲げてみせて、からかうと、景吾へ投げた。受け取った景吾は、同様に力を加え、元の形に戻してから机におく。

勿論、双方、超能力があるわけではない。ただスプーンが柔らかい素材でできているだけで、タネも仕掛けもある。

が、財閥を継がない可能性が出てきた君との関係をはっきりさせたいらしい」

「はっきり?」

人がダメになった時、手を引く人間と差し伸べる人間がいる。
祖父は前者だ。教団は後者だ。

は、きっと祖父と同じ前者だろう。


「関係を清算するってことですか?」


そもそも跡部財閥の跡取りで、順風満帆、将来有望な時でさえ、彼女は肯定的な態度をとっていなかったのに、ここでこんな質問をするのも、おかしな話だった。

には、俺とは別に好きな奴がいる。を、好きな奴だって、いるんだ。
俺を差し置いて、惚れた腫れただの、周囲に臆さず、気にせず、そのくせ巻き込んで、いつも憎らしいくらい自由に好き勝手やってる。


鼻に皺をよせていると、の父親はシャツの胸ポケットからくしゃくしゃになった紙を出した。一緒に何かが机の上に転がり落ちてきて、ちょうど先ほどのスプーンに当たって止まる。

指輪だった。

「『教祖になりたいなら、それで良い』だってよ」


てっきり、婚約指輪を突き返されたのだと思った。

が、それは、彼女に渡したサイズより大きく、傷一つ、ついていない。


つまんで、持ち上げ、まじまじとみる。

裏側には家御用達の宝石ブランドのロゴが刻まれており、その横に「Vi et animo」とギリシャ語が刻印されていた。ザラザラしたその表面に触れる。

「身も魂もともに?」

「ああ、婚約者の立場でなくとも共にいる、だとさ」

「婚約者の立場でなくとも?」

聞き返してしまう。その前提が覆されたら、俺たちの間には何も残らない。だけではない。おおよそ全ての俺の人間関係は、俺が特別だから成立している、と驕り高ぶっていた。だから、悩みを誰にも相談できなかった。


「それから『跡部財閥の跡取りになりたいのなら、それも良い』とのことだ」


の父親は、折りたたまれたくしゃくしゃになった紙を開いて、テーブルの上で伸ばし、方向を変えて景吾に向けて見せた。婚姻届だった。妻になる人の欄が埋められていて、判子も押されている。

「『いつでも遠慮なく家を使って下さい』って事だ。わかるか?」


目を瞑らなくとも、容易に想像できた。

の、鋭利な刃物のようにギラギラしている瞳。

握った拳を振りかざし、公約を居丈高に掲げる政治家のように、傲慢で、利己的で、票のためなら嘘も平気でつく、そんな気概が見え隠れする喋り方で、こちらを追い詰めてくる姿が、目に浮かぶ。

それでも、昔から俺を見てきて、積み重ねてきた努力もその成果も知っている彼女が、どうあっても、どうなっても、共にいてくれると言うならば、心強い。

祖父と同じくらい、平気で人を切り捨てそうで、
教団と同じくらい、胡散臭くて、信用ならないのに

は全てわかっている。他へ余所見してても、俺がまだ跡部財閥の跡取りになりたいと思っていることも、それなのに、上手く前に進めなくなって、無様な姿をさらしていることも。その上で、俺を受け入れている。


涙腺が緩み、目頭が熱くなる。唇が震えた。
くぐもった声が口から出そうになって、両手で抑える。

差し伸べられた手に縋り付く俺は、さぞ格好悪いだろう。情けないだろう。
でも、それすら、彼女の想定内と思えば、惨めな姿をさらけ出すこともできる。

一呼吸おいてから、俺は目の前に置かれた婚姻届けを、受け取ろうと、紙の端を掴んだ。
が、それは動かなかった。の父親が抑えていたからだ。


「覚悟は、できているのか?」


確かに、俺がこんな状態じゃ、父親としては不安だよな、と思う。

まだ、明確な答えは出てないけれど、俺の判断で人が死んだ、と安易に考え、一人で思いつめることはやめようと思った。現実を受け入れ、前を向く覚悟を、決める。

浮かべていた涙を親指でぬぐい、「はい」と、力強く宣言し、俺は、掴んでいた婚姻届けを、再び引っ張った。

しかし、より強い力で抑えられたので、今度は、訝しげに相手の表情を伺った。


「俺は嫌だ」

「アーン?」

つい口癖が出た。

「宗教団体と関わるのは、議席数確保のためだけって、決めてるんだ。婚約は破棄してくれ」

あまりにも唐突な話の展開に、開いた口が塞がらなかったが、続いて、「俺はな、豪君に目をつけてるんだ」とあけっぴろげに言われると、先ほどまで浮かべていた涙も熱も同時に引っ込む。ついでに口も閉じる。


「あそこの親父が警察のトップになりそうなんだよ。日本史上初パクられそうな現役官房長官に、今、必要なのは金じゃない。警察権力だ」

空にしたワイングラスをどんとテーブルに置くと、いつもの豪胆な笑いを見せ、それから、真剣な眼差しをする。

「うちの秘書の命を救えるのは、救世主の君だけだ」

の父親は指揮者の様にフォークを振り上げ、俺に向けた。

手元にある指輪を指先でこすりながら、コップに注がれた炭酸水を飲む。喉でパチパチと泡が弾け、教団から提供された以外の飲み物を口にするのは久しぶりだな、と思った。

ほんのりシトラスの香りがし、爽やかで、スッキリとした味わいだった。

少し逡巡してから息をつく。

「・・・豪は、俺とは違いますよ」

「優秀じゃない、か?でも、学年2位なんだろ?それこそ『1番じゃなきゃダメなんですか?』だよ」

先日、スパコン開発をめぐり炎上した女性議員の発言を用いて、おどけてみせる。

「2番で良いに決まってるだろ。大差ないんだから」

「そういう問題じゃありません」

「なら、どういう問題だ」

すぐに答えを出さない景吾に対して、少しイラついたように質問する。皿の上に美しく乗せられたレバーパテに綺麗に彩られたソースにつけて、フォークでぐじゃぐじゃに潰す。すぐ血が上るところも、幼稚な所作も、に似ていると思った。いや、が彼に似ているのか。

「彼は、面食いなんです」

「面食い?」

まだ食べてもいないレバーの苦みが口に広がったような顔をした。

「へえ、あいつ、面食いなのか」

の父親は、それまでの勢いを完全に失い、首をかしげて「そうか、面食いか」ともう一度名残惜しそうに呟き、口を閉ざした。そのすきに、力をなくした彼の手から婚姻届け引っ張り、丁寧に折りたたんで、指輪とともに自分のポケットにしまう。

「それよりも、はどうしたんです?」

「ああ、電話が繋がらないんだ」

「もう夜ですよ?」

「こういうとき、女ってのは大抵、男と相引き中なんだ。放っておけ」

「俺に婚姻届を押し付けといて?」

「人は結婚しても不倫するだろ?」

携帯電話が鳴る音が聞こえ、自分の鞄からバイブの振動が伝わってきた。こんな時間に電話をするのは限られているが、着信音から、ではないことはわかった。の父親は、小刻みに動く鞄の方へ顔を向け、しかし遥か遠くを見るように目を細めた。


「元女房はな、あの時、俺より優しそうで、背が高い、年下の男と一緒にいたんだ」



*********





「はっ」

体が燃えるように熱くて目を覚ました。真っ暗だったが、体育座りの恰好から体の体制を変えようと手足を動かすと、何処にも行き場がなくて、自分が狭い箱のようなものに入れられていることを知る。頭がふわふわする。全身が小刻みに震えていて、薬漬けにされたことを思い出した。それから、豪が言っていた言葉が脳裏によぎる

『神隠しにあった信者がいる』

こうやって、少女たちはいなくなっていったのだろうか?

もしかしたら、殺されてしまうのかもしれない。体を切り刻まれ、海外に臓器を売られてしまうのかもしれない。不安が悪い方向へ想像をかきたてる。

動悸が強く、全身から汗が噴き出していた。もぞもぞと足を動かすと、付け根からもどかしい快感が湧き上がってくる。息をゆっくり吐く。10代女子限定で神隠しにあってるとしたら、使い道は限られている。

醜いデブのおっさんの性処理をしないといけないのかもしれない。

舌打ちをして、右腕を強く噛む。鉄の味がして、唾を吐き捨てた。一時的には体に力が入るが、それでも、すぐ疼く快楽に身を委ねたくて頭がいっぱいになる。一回、一回だけ。そう思って手を下着に入れ、指を秘部に押し当てさする。既に濡れているそこは指を難なく受け入れた。

もう少しで達するという所で、視覚に明かりが射した。閉じ込められていた箱が開いたのだ。外気の冷たさと眩しさに目を細める。

そこにいたのは景吾だった。

心配そうにこちらを伺い、外に引っ張ると震えている体を力強く抱きしめた。それから焦点の合わないこちらの目を覗いて、口をぱくぱくしているが、の耳には木霊して届いて、何を言っているのか判然としなかった。

そうか。幻覚作用か。
ここに自分が来たことも教えていないんだから、景吾さんがいるわけがない。

でも、うれしい。

そうだ、ああ、なんて幸運なんだろう。

例え、本物がどんな男だろうが、彼だと思いながらだったら、苦じゃない。

これならば、全然平気だ。

肩に添えられていた景吾の手をからめ取り、スカートの中の下着に誘いこんで、その人差し指を自分の秘部へ押しつける。

「え?」

ぷつりと自分の体の中に異物が入ってくる初めての感覚に、息を飲む。同時に、頭に響く好きな人の声に反応して、体がさらに熱くなり熱のこもった吐息が漏れる。

「…って」

口が痺れてて上手くまわらない。

顔を真っ赤にした景吾がかわいくて、体を預けたまま口づけをする。

景吾が膝を折って後ずさったので、そのまま倒れ込み、下敷きになった彼は痛みに顔を歪ませた。身長差がなくなったことを良いことに、再び唇を重ね、歯をこじ開け、舌を差し込む。びくっと肩を震わせて戸惑う様子が伺えたが、気にせず、欲望の赴くまま動くと、次第に相手も合わせるように舌を絡めてきた。どこか、ぎこちなく、おずおずと、その素振りさえ、愛しい。

「つらぃ」と口にすると、景吾が、こちらに言われるがまま秘部に沈ませた指をかきまわし、卑猥な水音と金具がカチャカチャと鳴る音が、頭に反響する。

唇をつけたり、離したり、食む様に重ねながら、互いの吐息と唾液が混ざりあう。腰に添えられていた彼のもう一方の手が、体を這い、シャツと一緒にブラジャーをずらして、胸をもまれると、より強い快楽の波が来た。

これは、確かに癖になる。依存する。ああ、よく分かる。

だって、こんなにも気持ちいい。抗うことは難しいだろう。



恥ずかしげもなく喘ぎ声を漏らし、絶頂を迎える。心拍数が跳ね上がり、弾んだ息がはじけ、体が痙攣すると、少し遅れて、太腿に熱い液体がかかった。

肩で息をし、まだ、どこかうとうとしながらも、すーっと頭が冴えてくる。
噛んだ右腕が、ジンジン痛み出してきた。

男のズボンのチャックから出ているものが、視界に入って、時が止まる。

ぱちぱち、と瞬きする。


「きゃあ」

ブワッと全身に鳥肌が立って、飛び上がる様に起き上がり、叫び声を上げたら、すかさず口を抑えつけられた。相手の爪が頬に食い込み、胸が震える。

「声を出すな」

上擦っているが、よく知る景吾の声だ。

これも、幻聴なのだろうか?

冷静になって周りを見る。大人1人が入れる黒い箱がいくつか置いてあった。自分もその中の一つにいたんだろうか。壁一面に習字で文字が書いてある。床が畳なので日本国内なのかもしれない。時計は短い針が8を指していた。窓がないので、朝なのか夜なのか分からない。そこまで確認してから立ちくらみが起きて、ふらつくと男が体を寄せてきて支える。

まだ、頭はぐらぐらするが、熱は引いていた。

目を強くこすって、もう一度、相手の顔を覗く。

何度見ても景吾だ。その顔と髪の形を、確かめるように右手でなぞってふれる。手の動きに合わせて、彼の視線が動く。異常に耳が熱く、髪の付け根から首にかけて、似合わない汗が噴き出していたが、まぎれもなく彼だった。


「・・・景吾さん?」

「正気に戻ったか?他の信者に見つかる前に逃げるぞ」

目を合わせることをせず、慣れた手つきでに白装束を着させ、信者が付けるお面をかぶらせる。

「本当に景吾さん?」

「誰だと思ったんだ」

「醜いデブのおっさん」

いつもの調子で、景吾は口を開きかけたが、すぐに閉じた。先を急ぎだったからだ。

「宍戸に言われて来て正解だった」

老人を案内していたら、泣き声が聞こえ、倉庫で監禁されている女子を見つけたらしい。彼女を家まで送った後、を置いてきたことを思い出し、景吾に連絡したとのことだった。こらこら、ちゃんとお前が責任もって来いよ、しかも連絡遅いよ、といつもだったら思っただろうが、頭が働いてなかったのでぼんやり説明を聞くだけだった。

「ほら」

寝起きのような、どこか足が地についていない感覚だったが、景吾がポケットティッシュを差し出してくると、自分でも分かりやすくらい、さーっと血の気が引いていった。

着せられた白装束の胸元をつかみ、自身の下半身をみやる。信者たちから、水をかけられたため制服全体が湿っているが、スカートの皺になった個所が他より濃い色をなしていた。太腿を触るとぬめりけのある液体が指を伝い、先ほどの記憶と感覚が鮮明に思い出され、顔が紅潮する。

「えっと、あれ、幻覚でしたよね」

「ああ」

「あのこれ、現実じゃないですよね?」

「ああ」

目を閉じて、口をぎゅっと結んだ景吾が気まずそうにしながら赤べこのように頷く。歯切れが悪い。差し出されたポケットティッシュは行き場を失ったように、揺れていた。

込み上げてくる不安を解消するため、彼の白装束の裾をつまみ、少し開いて中を覗くが、そこでも、また現実に打ちのめされる。チャックはしまっているもののズボンが濡れているのだ。景吾はいたたまれない気持ちになって、自身の顔にも仮面を付けた。

「嘘でしょう」

「悪かった。でも、ラリったままの奴、どう対応しろってんだよ。おぶって出たら、怪しまれるし、仕方ないだろ」

「射精しといて、なに偉そうなこと言ってんですか!?」

「悪かったって!こっちは免疫もないんだ。亜久津とやることやってるくせに、ぐだぐだ言うなよ」

「亜久津は、出してません!!」

「どういう状況だよ!じゃあ、どこまでさせたんだよ!」

「ペッ」

「言うな!聞きたくなねぇ!」

「なんですか、さっきからメチャクチャじゃないですか!亜久津に裸を見せるのは、医者に見せるのと同じですよ!中3なのにもうすぐ千人切りなんですからね!」

それが本当なら、それこそ患者として病院に行った方が良いと、景吾は反論したかったが、黙って、の手をひいた。亜久津は医者ではないし、まだまだ千人斬りには及ばない、なによりも、早くこの場から出ないといけないということを、分かっていたからだ。それに、お互い羞恥心から、大声で騒ぎすぎていた。

長い長い廊下を歩きながら、は鼻をすすって、どうせならお姫様みたいに触れるだけのキスで目覚めたかった、あんなところで不衛生だ、胸まで触る必要はなかった筈だ、など不満を言い続けた。幸い、他の信者と鉢合わせることもなかったが、聞かされている景吾は、罪悪感が募っていく。

楽にさせてやらねばと、始めた行為も、途中から夢中になってしまったことは、否めなかった。慰めの言葉も思い浮かばなかったが、彼女が次に


「もう、お嫁に行けない」と、言ったので

「俺んとこ、来るんだろ」と、そこだけは即答した。





*********







「むむむ、ううう」

「なんだか、すみません」


盤上で黒い石をひっくり返し、白くする度、鳳は、申し訳なさそうに背中を丸め、唸る宍戸に謝罪を入れた。

その日は、鳳の姉が占い師に予言された運命の相手が現れる「13日の金曜日」だった。朝早く起きて、家から飛び出ていった姉を心配した鳳は、宍戸に助けを求め、2人はオセロをしながら、日本で一番有名なスクランブル交差点近くのカフェで彼女の様子を伺っていた。


「俺、宍戸さんに言われた通り、説明したんです。あの占い師は、よく分からない白ずくめの組織の手下で、予言もよく分からないから信用しちゃいけないって。でも、姉は、よく分からないって言って、話を聞いてくれなかったんです」

鳳の話を聞きながら、自分の説明の仕方が悪かったのかもしれないと深く反省する。

駅近くの秋田犬の銅像前に鳳姉が立ってから、かれこれ4時間となり、どうするべきか思案していた時に、周囲がわっと騒々しくなり、ニュース速報が入ったことを知らせた。宍戸が人の視線の先を辿ってビルの液晶画面へ目を向ける。『人気の美人占い師逮捕!カルト教団ついに摘発へ!』と大きく映し出された。

「宍戸さん、大変です」

「そうだな」

「運命の相手が現れました!」

「ええ?」

張りのある声を出した鳳の方を振り向くと、彼はビルの液晶画面ではなく、真っすぐ秋田犬がいる方向を見ていた。頬を赤らめて緩ませた鳳似の女が、目を輝かせて、胸元で手を握り、話しかけてきた男に何度も頷いていた。

それは、恋の始まりの瞬間、のように見えた。










列車が再び動き出す。

前へ前へ、音を立てて進んでいく。

それまでよりも、快調に、信念をもって。

見逃してきた景色も、今度は目を見開いて進む。


すぐ後に、スピードが出すぎていると、誰かが言ったが、車輪の音でかき消された。

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