脱線

27



「ずっと好きでした」

氷帝学園の北棟の廊下の端、日中も日が射さないその場所は、いつもひんやりとして冷たい空気が漂っていたが、ある日を境に、景吾がそこで暇をつぶすようになってから、女子たちの彼への告白スポットに様変わりしていた。

「相変わらず、我らが王子は人気者やな」

食堂に向かう途中、その光景を見た忍足が詰まらなさそうに呟くと、横にいた宍戸は「だな」と小さく頷いた。

婚約者の出現でしばらく影を潜めていた景吾のファンや好意を示す者たちだったが、が彼を応援すると周囲に漏らし、告白行為が解禁されると、待ってましたとばかりに、付き合いを申し込むようになった。ストッパーが外されたので、以前より多くの女子が景吾の周りに群がり、あの手この手で景吾の気を惹こうと試みていた。

「あいつらも勇気あるよな」

「玉砕覚悟で健気やな」

2人がそうこぼすのにも理由があった。何故なら、の「告白行為の解禁」は、一部からすれば、彼女の勝利宣言のように見えたからだ。

時を同じくして、景吾の彼女に対する態度が変わったのだ。それまで、親が我が子を監視するように密着指導していた彼が口を閉ざし、あからさまに距離を取った。それは、突き放すと言うよりも、どう接して良いのか分からなくなってしまったような戸惑いがはっきり伺えた。

とピアノの連弾の練習をしていた宍戸に、景吾が声をかけ、と視線を交わすことなく、顔も背けたまま、去っていったことを思い出す。

「跡部の奴、意外と小学生みたいな反応するんだよな。見てるこっちが恥ずかしくなる」

「せやな。鳳の方がまだマシやった」

そう言われて、宍戸は足を止めた。忍足が足を止めないので、2人には距離が生まれる。多くの生徒が宍戸を追い越して食堂へ向かう。廊下の窓から、射す光に目を細め、景吾が告白を受けている場所を窓越しに眺める。北棟の廊下の端、そこは陸上部のトラックが良く見える場所だと、鳳が嬉しそうに話していた。ついこないだの話だ。止まった宍戸に気づいて、戻ってきた忍足が同様に窓の外に顔を向けた。

「堪忍な」

「なんだよ。急に」

「俺ら、鳳にババ引かせたやん?」

鳳のに対する恋心が知れ渡ると、テニス部員たちはこぞって鳳に諦めるよう諭した。好きな人の恋を応援してやれ、とまで助言した3年生もいた。皆、揉め事を嫌ったからだ。そして、素直な鳳は先輩や同級生の言葉を聞き入れて、本人に対して応援するとまで言った。

「ダセェな。どうせ後悔してないんだろ?」

「せやな。でも、宍戸はちゃうやろ?」

後悔していないと言ったら嘘になる。景吾の変化に気づき、その様子をただ眺めているしかない鳳を思えば、胸が痛んだ。けれど、彼の意思を無視し、尊重することもなく「お前の為だ、諦めろ」と自分の意見を押し付けた宍戸には、慰める資格がないように感じられた。



「激ダサだな」





*********





補充のテニスボールを買いに行くよう顧問の榊に指示された景吾は、指名されたメンバーを引き連れ川沿いの土手を歩いていた。まだ昼過ぎで太陽は南方の高い位置にあり、羊雲が青空に広がっている。横目で、樺地、日吉、鳳を見やり、溜息をつく。ボールなどいつもの業者にまとめて注文すれば良いものを、あえてこのメンバーで使いに出したのは、鳳と自分の関係がこじれていることを察したからだろう。


度々出してしまう鳳に対する冷たい態度を改めることができず苦慮していた景吾だったが、宗教の一件で、彼に優しくするなど無理だと、諦めに近い感情を抱くようになっていた。




あれ以来、景吾はとすら、まともに話せていない。

最初は、許可なく彼女の体に触れてしまい、あまつさえ性行為に近いことをしてしまった気まずさのせいかと思ったが、そうじゃなかった。

時間がたてば前の様に戻れると考えていたのに、日に増して、彼女に対する態度が悪くなる。目を合わせられない、会話が続かない、しまいには自分からは声をかけられなくなった。朝のスカイプ通信も、車での移動も、沈黙が支配するようになり、彼女の一挙一動に心がざわついて動揺する。そんな自分が恥ずかしく、気持ち悪く、取り乱さないように取り繕うことに精一杯になってしまっていた。

これが、巷で言う恋なのか?

そう考えが行きつくと混乱した。

願ってもないことだった筈だ。もしも自分がその想いを抱くとするならば、相手は彼女である必要があったし、そうなればお互いに幸せな未来が訪れると疑うことなく信じていた。その義務感に近い感覚で思い描いていた未来が、唐突にやってきたが、想像とは全く違った。

それまでにもあった独占欲を超えた過激な思想が、頭の中をひしめくようになった。彼女が男子と話をしているだけで、怒りが抑えられなくなり、よくペアを組んでいる宍戸を、貶めたいと思うようになった。鳳なんかは、夢で何回か殺してる。そんな自分が怖くなる。



微妙な空気の中、先に口を開いたのは鳳だった。こちらを気遣ってか、樺地と日吉は少し離れた後ろを歩いていた。

「部長、俺のことは気にしないで下さい」

頑張って笑顔をつくるその拙い動作が、相手の保護欲をそそる。でかい図体の割には「かわいい」と称される所以だ。

「大丈夫ですから」

もともと害のなさそうなあどけない顔をしているが、鳳が言葉を添えるとその純真さが余計際立つ。

景吾にしても、鳳がを無理やり略奪するとは思っていない。

無理やりには、だ。この青年の良い所を、部長である景吾は誰よりも理解していた。真っすぐで、汚れのない人間が、どれだけ稀有で尊く魅力的か、そのうち、だって気づく。いや、既に気づいているかもしれない。この痛々しい程ひたむきな姿を前に心揺さぶられないでいられるのだろうか。


「あー、跡部景吾!」

突然名前を呼ばれ、土手下に目を向けると、そこには何度か声をかけたことがある橘杏がいて、隣にはしかめ面の彼女の兄である桔平もいた。兄妹だからか、揃いもそろって似たような目をして、景吾を睨んでいた。

「また、ストリートテニスを馬鹿にしに来たのね!」

「どうせナンパ目的だろ。うちの杏に手を出すなら、俺を倒してからにしろ」

以前自分から手を出した手前、無視にするのは悪いなと少し思いつつも、相手するのは面倒くさそうなので気づかなかったことにし、景吾は鳳に向きあう。せっかく、顧問が気を利かせて設けた場を無駄にはしたくなかった。

「正直言うと、俺は」

話し始めた瞬間、急に舞い上がった砂埃が視界を塞ぎ、日吉の悲鳴が聞こえた。袖で目を庇っていると、後ろから馴染み深い声が耳に届く。


「ご機嫌よう。景吾さん」

一瞬体が固まって、反応できなかったが、代わりに鳳が「さん」と声を出した。景吾の横を通り過ぎたは土手下に降りて行き、その後を違う制服を着た2人の男子が続く。亜久津と荒井だった。予想外の登場人物に固まっていると、日吉の呻き声が聞こえ、我に返る。

気づけば、を含めた3人が蹲っている日吉の隣で伸びている男を囲んで何やら問い詰めてるようだった。その男が先ほど吹っ飛んできて日吉にぶつかったのだと、景吾はようやく理解できたのだが、が男の腹を蹴り出したので慌てて間に割って入った。

「おい!何やってんだ」

注意されたが景吾に視線をやるが、景吾はすぐに目を逸らしてしまう。

「お、目逸らしたぜ」

近くにいた荒井からそう指摘され、景吾は眉を潜め、青学で見て知っているが、話したこともない相手の不遜な態度に不快感を示す。そうしている間に、亜久津がの横についたので、更に眉間に皺を刻みこむ。

「まあ、ご存じの通り、色々ありましたからね」

は鼻を鳴らすと、男が抱えていたバッグを取り上げ亜久津に渡す。

「ああ、ラリってる婚約者を弄んだり、な」

相槌を打ちながら、亜久津は荒井にバッグを投げ、

「あー、婚約者を後輩にやらせたり、とか」

日吉を見ながら、荒井がバッグの中身を開いて中に手を突っ込む。

「婚約者がいるのに、ストリートテニスにかこつけて女子をナンパしたり。と、まあ人生色々です」

近くにいた橘兄妹に気づいた、が一連の伝言ゲームのような言葉遊びを締めくくる。

「・・・お前ら、仲良いな」

全て聞き終えてから、景吾の口からはそんな言葉がついて出た。耳を疑ってしまうくらい、筒抜けだ。他人の口に戸は立てられないとよく言うが、本人が周りに吹聴しているという酷い有様に眩暈を覚える。

話を聞いていた日吉が、荒井を指さし疑問を口に出す。

「部長。あの人、俺を見ながら、変なこと言ってませんでした?」

「日吉、なんかしたの?」と、鳳が日吉を険しい顔をし、「はあ!?何かしてるとしたら、それはお前だろ」と言い争いを始めた。

一方、バッグから財布を取り出した荒井は、免許証をに投げ、有名な風俗店のポイントカードを見せびらかした。

「見ろよ。このおっさん、先月は毎日行ってたみてーだぜ。すげー貯まってる」

「毎日行ってたなら、むしろ溜まってないんじゃないですか?」

そう言葉を返したの頭を、景吾は久しぶりに叩いた。

話を聞けば、ひったくりにあったたちが、犯人を追い詰めている状況らしく、鞄の中には他にも財布がいくつか入っていた。景吾は、樺地に近くの交番に行き警察を呼んでくるように伝え、たち3人に助言する。

「これ以上、何もするな。お前らが犯罪者になるぞ」

「私のSuicaも盗られたんです。私は、この男に、電車に乗る自由、希望、そして未来を奪われたんです。この屈辱が、貴方に理解できますか?」

「お前のSuicaは俺が持ってる。教室に落ちてた」

一昨日拾ったのだが、利用履歴を調べたくて返していなかったとまでは、言わない。

「どうりで、私の鞄を探しても見つからなかった筈です」

「大事なことだから覚えとけ。他人に迷惑をかけるな。それから、巻き込まれた日吉に謝れ」


その場に一気に白けた空気が流れる。「なんつー、お騒がせな奴なんだ」先ほどまで走っていた荒井は近くの芝生に寝転んで空をあおぎ、亜久津はの背中を軽く膝蹴りする。よろけたに鳳がすかさず両手を広げ受け入れる体制を取ったが、は踏ん張り、キッと景吾を見返す。

「現在進行形で、他人に迷惑をかけてる貴方に言われたくないですね」

「アーン?」

「また、ナンパですか?」

視線を飛ばされた杏が、勢いよく頭を下げた。

「ごめんなさいっ!」

この返事に氷帝のメンバーは驚いて目を瞬きさせる。

「ええ、貴方は悪くありません。御曹司というものは等しく皆、気が強い庶民を溺愛するものなんですよ。これが世に言う富の再分配なんです」

「少女漫画の読みすぎだ。ナンパと溺愛じゃ思いの入れようが違うだろ」

先程視線を逸らした景吾が言うと、言い訳じみて聞こえ、の機嫌は更に悪くなる。

さん、私、ストリートテニスを馬鹿にするような人と付き合う気はないんです」

「それは貴方がまだ幼いから、そう思うんです。もう少しすれば『財布』と割り切れるようになります」

「俺には他にも取り柄がある筈だ」

景吾が控えめに口をはさむと、「知ってます。一例ですよ。一例」とが平然と答える。

「景吾さん、邪魔ばかりしてきた私ですが、今日は心を入れ替え助太刀しますよ」

何のことだか分からず景吾がを見るが、その瞳には杏しか映っていない。いつもの調子で主導権を握り物事を押し進めていく。

「さあ、勝負です!橘杏とのデートをかけた、ストリートテニスのリベンジマッチをしましょう」

腕を振り上げ、橘兄妹を真っすぐ指さす。ぎょっとした景吾が、咄嗟にの指を掴むが強く睨み返される。

「前回やったって聞きましたよ。結果、貴方は負けた。違いますか?」

なんで知ってんだ。と言うのは、あまりに情けなく、特に亜久津と鳳がいる前では何も言い返せかった。

「負けたままで良い筈がありません。男女ダブルス3回勝負。女子は私と杏さんで固定。こちらからは亜久津、荒井さんを出しましょう。そちらも2人選んで良いですよ」

相手に選択権を与えながらも、日吉を押して杏の前に連れていき、強そうな樺地を隠すように前に立つ。義理堅い杏は、気が進まないながらも鳳と日吉を指名した。いずれにしろ、二人とも氷帝テニス部で跡部の後輩なので、不利には違いなかったが、恩人のには逆らえない。

女子たち主導で、試合の対戦相手とルールが決められ、桔平が近くの枝を拾って地面に内容を書いていく。

第1試合: 杏・日吉vs・亜久津
第2試合: 杏・鳳 vs・荒井
第3試合: 杏・桔平vs・跡部

勝手に名前を出された亜久津だったが文句も言わず、体をほぐし始めたので荒井は黙って追随した。

一方、氷帝の2年からは不満が漏れる。意外にも最初に声を上げたのは鳳だった。

「なんで、その人なんですか?」

荒井を指さし食って掛かる様に言う。

「俺もさんのチームが良いです。俺、絶対に勝ちます」

「鳳さん、博打ちは語呂を大事にするんです。ほら、見てください。亜久津、荒井、跡部の、この綺麗なトリプルAの頭文字。とても縁起が良い」

の独壇場だった。交代したほうが勝てる、ということをほとんどの人間が知っていたが、誰も口には出さず、ほぼ全員が試合をやる意義に疑問を持ちながらも、その場の空気に流され押し切られた。



審判台に登った景吾はコート全体を見渡した。右のコートでは日吉と杏が打ち合わせをし、左のコートでは亜久津がラケットのガットをいじっていて、はローファーから運動靴に履き変えていた。

勝負するからには、氷帝は勝たなければならない。

「日吉、お前が山吹の亜久津と試合ができる機会なんて、そうそうない。氷帝テニス部次期部長の実力を見せつけてやれ。

それから、鳳。お前は強い。お前が相手にするのは青学の控え選手だ。選ばれしものと、そうで無いものの差を教えてやれ。宣言通り絶対に勝て」


コートに立つ日吉と、副審をしている鳳に向かって檄を飛ばす。声をかけたものの、鳳については名前を口にしただけで胸につかえを感じた。

「「はいっ!」」

元気よく返事をする部員の言葉を聞き顎を引く。橘チームをストレート勝ちさせれば、デートすることもないし、自分もこのバカげた試合に参加することもない。

「The best of 1 set match. service to play」

試合開始のコールを送る。近くに高い建物もなく空が広いその場所に、景吾の声がよく通った。サーブの位置についたが、テニスボールを何回かバウンドさせる。その手慣れた様子に、杏と日吉が気を引き締め足に力を入れた。一気に緊張感が増す。

しかし、最初のサーブでが空振って、ついで2回目も落とし失点し、「サーブミスでも点を取られるんですか」と、テニスに関する知識の無さを披露すると、亜久津と景吾以外を驚かせ、一転して空気が緩んだ。面倒見の良い桔平は、慌てた様子での後ろにまわり丁寧にルールを説明し出す。

「はっ、さすが、名ばかり婚約者だけあるな」

のヘマで、予想以上に早くサーブの順番が回って来た日吉は、歯を見せて笑う。とぼとぼとコートに入っていくを確認し、トスを高くあげラケットを勢いよく振り下ろした。

放ったボールがネットを超え、狙い通りコートラインギリギリに落ちていったことを見届けてから、日吉は審判の景吾へ、評価をもらうべく視線を向けた。



が、次の瞬間、轟音と共に球が弾け飛ぶようにして、日吉の顔面にボールが直撃した。

「・・・フィフティーン オール」

景吾の冷たい声が響き、その場がしんと静まり返る。亜久津が打ち返したのだ。

「大丈夫ですか?」

倒れている日吉にネット越しからがハンカチを差し出すが、敵の情けは受けないとばかりに、日吉は鼻血を手の甲でふき立ち上がると一歩前に出て声を張り上げた。

「今は油断したが、テニスは力じゃない!練習量も技術も、俺の方が勝ってる。跡部さんに言われた通り、今日ここでお前を」

「日吉さん、5メートル」

「え」

啖呵を切る日吉の言葉を遮ったのはだった。

「半径5メートル以内に入ってますよ」

「え?試合中なのに?」

日吉は目を瞬かせて、再び聞き返した。

「まあ、別に良いんですよ。あの満月の夜のことを他の人にお話しするの、私は全く問題ないんです。私はね」

がちらりと審判台の方を見たので、日吉は急いでコート後方へ下がった。

「安心しろ。テメーが取りやすい場所に球落としてやるよ」

サーブの位置に着いた亜久津から、発せられた言葉にゾッとする。ボールをバウンドさせ、瞳孔を開いてこちらを見る姿はもはや肉食獣が獲物を狙う時の目つきだった。

それから、亜久津による豪速球のサーブで文字通り滅多撃ちにされ、上手く向こうに送れたボールも馬鹿力で打ち返され、試合が終わる頃には、闘争心は恐怖心へ代わり、日吉の全身には多くの痣が残った。ルールも碌に分からないは言わずとも、杏すら試合に参加している気がしなかった。ただ、彼女達、特にの失点のせいで無駄に試合時間は長引いて、日吉の地獄が続いたことだけは確かだった。まともなラリーがないまま、テニスコートで、一方的に人がリンチを受けているという珍しい光景だった、とのちに、桔平は語る。




第2試合に移り、主審を桔平と交代した景吾は、ベンチで汗を拭いてる亜久津の近くに座った。

「おい、ヤらせてないからな」

痣の数を数えている日吉に目を向けながら、ぼそっと呟く。自身と日吉の名誉のため、誤解は解いておかなければならない、と思ったからだ。

「ああ、日吉とは寝てないらしいな。本人から聞いた」

なんだよ、普通に話してたんじゃないか、と安心するが、小声でだったにもかかわらず、日吉が話題に食いついてきた。

「どういうことですか?そんな言われのないことが噂になってるんですか?!あの人が転入してきてから、俺、事件に巻き込まれてばっかりなんですけど」

「うるせぇ、だまれ。こっちは、テメーが5メートル離れてないといけないワケも聞いてんだ」

「お、鳳です!あれは鳳ですよ!俺は関係ない!」

立ち上がった亜久津に睨まれた日吉は、即座に鳳の名前を出した。これ以上、痛めつけられたくないと心と体が悲鳴を上げていたので、かばう余裕は一切なかった。亜久津は鳳がいるコートに目を向け、景吾は日吉の慌てように不信感を抱く。

「なんの話だ?」

「テメェが、部員の指導を怠ってるって話だ」

「アーン?」

「宗教の件も、全部聞いたぜ。しっかりしろよ」

そっちも普通に喋ったのか。デリカシーのかけらもないと嫌な気持ちになる。





その時、第二試合一セット目終了を知らせるコールがでた。

早い。早すぎる。

振り向くと、青ざめた表情で地面に膝をついていると荒井の姿があった。2人とも額から大量の汗を流し、ぜぇぜぇと肩で息をしている。

「すごーい!あそこからボールが入るなんて!あんな技、初めて見たわ!」

反対のコートでは、鳳を褒めちぎり、手を叩いてはしゃぐ杏の姿があり、同じチームにも関わらず、桔平が不満そうな顔をしている。試合に勝って景吾とのデートを阻止したとしても、結局別の男に妹を取られるだけではないか、と危惧しているようだった。

一方、と荒井は、お約束のように仲間割れを始めた。


「荒井さん、貴方、青学のテニス部員でしたよね?テニス界サラブレットで、阿呆みたいに強くて生意気なチート帰国子女がいる、あの名門のテニス部員なんですよね?どうして、こんなことになるんですか!」

「るせー。向こうが普通につえーんだよ!ペアのお前はルールわかってないしな!」

「このままだと、負けて無様な姿をさらすことになるじゃないですか!」

地面に拳を叩き付けながら、が言葉を吐き捨てる。その悔しがり方こそが、既に無様だった。それでも、このままではいけないと思ったのか、重い体を起こし、その瞳に闘志を宿す。

「ハンデが必要です」

欲しい、と言わない当たり、彼女らしかった。待ってましたとばかりに、にこにこしながら鳳がセンターラインまでくると、は荒井のヘアバンドを剥ぎ取って、鳳に放り投げた。


「試合中は、右目を閉じててください」

その要求に杏は愕然とし、指示通りヘアバンドで右目を隠す鳳を見て、戦意を失う。膝をついている荒井の腕を引っ張って立たせたは、彼の背中を叩いた。

「荒井さん、ダブルスって言うのは、ペアの2人が阿吽の呼吸でプレイしなきゃなんですよ」

「ダブルスの信念語る前に、ルールを覚えろ」

「この勝負、絶対に勝ちますよ」

「当たりめぇだ」

と荒井は、スポーツマンらしく拳を合わせ視線を交わした。ベンチからその様子を眺めていた景吾と亜久津からは、唇を噛んでいる鳳の表情が良く見え、後ろにいる日吉が「救いようのない馬鹿だな」とこぼすと共に溜息をついた。

大きなハンデを相手に負わせながらも、結局、と荒井は惨敗した。それは一試合目以上に、見るに堪えない試合だった。





こうして、第3試合が開始された。

テニス部であるということを隠してた景吾が、とテニスをするのは勿論初めてだった。忙しい中でもテニスを続けてきた景吾が初めてその成果を見せる時でもあり、同じ条件で亜久津が勝っていることを考えると、負けるわけにはいかないと気負い、コートに立つ。

周囲には、ランニング中の球児、通りすがりのサラリーマン、商店街の客、他校の制服を着た学生たちが足を止め、この奇天烈な試合に興味を持ち集まってきていた。知識も貴賤も関わらず、その場に訪れる人がみな平等に見て楽しめる、ストリートテニスの醍醐味だ。橘兄妹が、既に勝利しているとでも言うような、満足そうな顔をしている。

近くで流れている川の方から、さわやかな風がふいてきた。

第三試合は、それまでとは違い普通の試合運びとなった。体力を消耗しきっている杏に対し、ルールを理解し始めたは動けるようになり、感触をつかむと、昔テニスを齧っていましたと言えるくらいの腕をみせた。

下手ではあるが、懸命にボールを取るの姿に、心を掴まれた観衆から声援が送られる。ストリートテニスを絶賛していた兄妹が、皮肉なことに、徐々に大きくなる外野からの歓声に、アウェイホームに来たような疎外感を抱き、空気に飲まれていった。

そして、とうとう景吾のサーブが決まれば、勝利する場面まで来た。


サーブの位置に着いた景吾は、改めてまわりを見渡した。背を向けている以外の視線を、一身に受ける。

いつもと変わらない、景吾のよく知るテニスコートだ。

59坪の狭くて、奥の深い世界。


目を合わせずとも会話せずとも、誰が何を考えているのかを押し計り、味方に得点を促し、相手の失点を誘い、勝利する。景吾は、自分のテリトリーにを招いて、やっと熱に浮かされた状態から解放された気になった。


冷静になると、杏をナンパしたことを胡麻化そうとせず「今はそんな気持ちはない」と、最初にはっきり言えばよかったと後悔し始める。浅ましくも、一旦勝ってからデートを撤回しようと考えていた。最初から試合放棄するよりも、の前でテニスが強い所を披露し、デートの権利も無下にした方が、格好がつくと見栄を張ってしまった。

結果どうだ。景吾がコートに入ってから、ほぼ勝負が決まっている今ですら、は不満げにしている。ずっと一緒にいた仲だし、何が気に食わないのか分からない程、鈍くはない。
それに最初から彼女は「婚約者がいるのにナンパして」と文句を言っていた。


恋をすると世界が変わる。確かにそうだ。
勝ち負けだけじゃない、その先の世界があることを知る。



「今日は負けておいてやるよ」


手に持っていたボールを審判の樺地に投げる。わあっと観客たちがどよめいた。


振り返ったと目が合った景吾は、もう逸らすことはしなかった。


安堵の表情を浮かべるを、じっと見つめる。



お前のその気持ちはなんだ?
婚約者の肩書や、幼馴染の友情から来る可愛い独占欲か?




俺のは、もう違う。全然違うものだ。





*********








「というわけでだな。跡部の野郎のせいで、俺たちのチームは負けたんだ」

「え、荒井さんは、普通に試合して、普通に負けたんですよね?」

亜久津の事務所でポーカーをしながら、先日のストリートテニスの勝敗について話していた荒井に、並んでるカードを選びながら壇が質問する。

のせいでな。俺だけだったら勝ってた」

「はあ。というか、よくそんな試合に亜久津さんが付き合いましたね」

「俺も意外だった。しかも、跡部が負けるっつった時なんか、スゲーすっきりした顔してたんだぜ。逆に鳳の方はヤバかった。ありゃ、の話と全然違うぞ」

「亜久津さんは大人ですからね」カードを1枚抜き、壇は誇らしげに胸を張った。

「あれのどこが良いのかわかんねーが、ドロッドロぐっちゃぐちゃの展開しか感じねー」

「ドロドロ?なになに、恋バナですか。珍しい」

ちょうど亜久津と買い出しから帰ってきたが、靴を脱ぎながら「誰のです?」と嬉々として聞くと、驚いた2人がトランプを落とし、同時に隣にいる亜久津を見たのでは目を丸くする。

「いつの間に?私はなんでも話してるのに?」

「跡部のことは隠してただろ。それと話し過ぎなところは治せ。くだらねぇ話をだらだらとしゃべりやがって、聞かされる身にもなれ」

表情を変えることなく、コンビニの袋から飲み物を出し、冷蔵庫に閉まっていく亜久津に、の嗜虐心がそそられる。

「ほー、とぼけるつもりですか。私のことを、男の趣味の悪い女だとか、普段から馬鹿にしているくせに、自分だって恋しちゃってるんじゃないですか」

亜久津本人の前では、荒井も「亜久津さんも、お前に引けも劣らず異性の趣味が悪いぜ」とは言えない。

「俺がいつ馬鹿にした?」

「見てれば分かります。私、洞察力は人一倍あるんです。でも、そうですか。亜久津がねぇ、へえ、拝んでみたいものですね、その幸せ者を」


散らばったトランプを集めていた荒井と壇の肩に手を乗せると、ゆっくりと体重をかけ「わたしの知り合いですか?」と心を覗くように2人の目を交互に見る。握ったカードで顔を隠す壇と、視線を明後日の方へ向ける荒井に、冷蔵庫を閉めた亜久津が鼻で笑う。


、鏡、見てこい」


その一言に、荒井と壇は息を飲み、洗面所に向かうを黙ったまま目で追い、その姿が見えなくなると同時に亜久津に顔を向けた。

「なんだよ」

どすの利いた声に2人は同時にかぶりをふって委縮する。タバコを取り出した亜久津に擦り寄るように荒井がライターを灯して差し出すと、じゅっと音がしてタバコの煙が上がる。

「次はねーぞ」

血の気が引いた顔を何度も縦にふりながら、今後一生、亜久津との関係について言及しないことを荒井は誓った。




洗面所の方からは「ああ、髪に葉っぱが絡まってますね」と呑気な声が聞こえてきた。









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