脱線

29




目が覚めて、勢いよく起き上がり、枕元に置いてあった携帯にパスワードを打ち込む。日付を確認し、SNSアプリのアイコン右上に表示された100以上の新着メッセージの存在に唾を飲む。ゆっくりアイコンに触れると、友人たちからの祝福の言葉がずらりと並べられていた。

「・・・夢じゃない」

画面をスライドさせて、埋もれるように隠れていた景吾のメッセージを開く。『起きたら、連絡を入れろ』とコメントがあった。

急いで鏡台の前に座り、くしを取る。いつもより念入りに髪を整えて、リップを丁寧に塗る。潤い過ぎた唇を見て、ティッシュで拭きとるが、今度は細かい縦皺が気になり、またリップを塗る。それを何度か繰り返してから、化粧ポーチから未使用のマスカラを取り出す。

「さすがに、張り切り過ぎか・・・」

鏡に映る自分の頬はチークも付けていないのに紅潮し、目は潤んでいる。これ以上、何かを上塗りしなくても十分人生で一番輝いているように見えた。目を瞑れば、昨日の舞台上の出来事を反芻してしまう。景吾が熱い目を向けて、はっきりと『好きだ』と言ってくれた。思い出しても心臓が爆発しそうだ。気持ちを落ち着かせるため、手をパタパタ振り、顔に風を送る。

そう、浮かれている場合じゃない。いや、むしろ昨日、一生分浮かれ切ったので切り替えが必要だ。景吾と両想いになれたのは嬉しいことだし、素直に喜んでいいことだ。

でも、中学生の交際が長く続かないことは同級生たちの経験談から知っていたし、愛情というものが永遠に続くものでないことも両親の離婚から重々承知していた。先人たちは、口を揃えて、努力、忍耐、思いやりが大切と言ってきている。きっと関係の継続には並大抵でない労力が必要なのだろう。

「でも、こうなったら頑張りたい」

優秀な家庭教師、エステティシャンをつけよう。料理人には食事の内容を変えてもらい、それから夜更かししないよう気を付けよう。景吾に向かい合うと考えた時点で始めてもよかったものの、足踏みしていたのは、どうせダメだとどこかで諦めていたからだ。


彼の様子が変わったのが、あの宗教事件の後だと考えると、自分の魅力云々と言うよりも、性行為がきっかけじゃないかと、当てがつく。彼の言う通り、免疫のない中学生にとっては刺激が強かったのかもしれない。劣情と恋情が混同することはよくあることだ。

それでも、良い。どんな理由があろうと、一時的な感情でも言質は取ったわけだ。真面目な彼なら当分撤回はしない。少なくとも、卒業までは安泰だ。


パソコンから呼び出し音が鳴り響く。

毎朝恒例のスカイプの時間だ。










演劇祭の翌朝、いつも通り車を出して家にを迎えに行った。玄関から出てきた彼女を抱きしめると、見送りの使用人たちと運転手が口をポカンと開けて驚いた顔をした。顔を真っ赤にさせたが照れて笑うと、心が幸福感で満たされた。

両想いになったから終わりじゃない、ここからが始まりということは理解していた。告白すると決めた時から、恥を忍んで友人や諸先輩の意見を聞き、売り上げ上位に位置する恋愛関係の指南書は読み漁ってきた。要するに、慢心せず、気持ちを伝えあい、すれ違いを避けることが重要なんだ。

中学生でつきあったカップルが結婚し、一生を添い遂げるという確率が低かろうが、どんな残酷な統計を見せられようが気にならない。俺もも特別な人間だ。うまくやれる。

後部座席に座ったの手を握り、車を出すよう運転手に指示する。

「なんだか緊張しちゃいますね。皆の前であんなことしちゃって、教室でからかわれそうです」

「堂々としてれば良い。人前で愛を確かめ合うことは恥ずかしいことじゃない」

「そうですか?末代までの恥レベルで私は恥ずかしかったですが・・・あ、教室に着くまで、しりとりでもしません?少しでも気持ちを落ち着かせたいんです」

気が楽になるようフォローをしたにも関わらず、きっぱり反論された景吾はむっとしたが、に茶目っ気たっぷりに笑い返されると、全て許せてしまった。目じりが下がり、笑い皺ができると、可愛いとか、愛しいとか、そんな言葉がぴったり当てはまる。素直に伝えようか迷っている間に、「では、私が先行で始めますね『しりとり』」と、いつものように勝手に幼稚な遊びを始めた。

気が進まないまま何度か単語を交わし、車が校門前で止まると、生意気な口を塞ぐようにキスをした。真っ赤になったを置いて車から降り、言葉に出すよりも行動で示す方が得意なんだなと、軽く自己分析する。

グランドの横を通って学校玄関に向かう途中、多くの視線を集めていたが、複数の男子たちが顔を青くしたのが気になった。不思議に思って首を傾げると、が人差し指をあげて得意げに解説を始めた。

「私が景吾さんとくっついちゃって、しょげてるんじゃないでしょうか」

訝しげにを見るが、彼女は気にせず話を続ける。

「私モテるんです。実は、真田さんに告白されたこともあります。『レール』」

「『ルビー』それ、いつまで言いふらすつもりだ?もう時効だろ」

校舎に入り、廊下を歩きながらも感じる男子たちの暗澹たる空気に、の話を疑いつつも、脳裏に鳳の顔がよぎり、それから、自身の胸に手を置く。意外とライバルは多かったのだろうかと、不安になる。

「凶悪犯罪の時効は廃止されてます。3時間で撤回された私の気持ち分かります?告白されたのにフラれた気分ですよ。あれは重罪です。重罪『ビール』」

「『ルアー』小学生の頃だろ」

「景吾さんは高校生になったら、『あの時俺は中学生だったから軽率に告白なんかしたんだ』っていうつもりなんですか?私は告白を一生撤回しません。一生」

「・・・

瞳の奥深くからじっとこちらを覗き伺ってくるの肩を優しくつかみ、「俺だって、撤回しない。一生な」安心させるように言葉をつむぐ。互いの覚悟を確かめ合うように見つめ合う。この時間が永遠に続けばいい、真剣にそう思えた。

「今日の美術で、人物画を描くことになってるだろ。俺はお前を描きたい。良いか?」

そうすれば美術の時間だけでも、見つめ続けることができる。力強い漆黒の瞳、なまめかしい白い肌、絹糸のような艶のある髪、彼女の色彩でキャンパスが彩られていくのを想像するだけで胸が弾む。

「私も景吾さんを描きたいです」

彼女が体を寄せ甘えた声でささやくと、自分の体温がぐっと上昇したのが分かった。

「因みに、しりとりは、私の勝ちで良いですか?『アイドル』」

気づけば教室前だった。踏み込もうとしたを引っ張り、廊下に戻す。

「・・・『ルッコラ』」

「『ランドセル』」

「『ルイボスティー』」

「『イスラエル』」

「『ルーマニア』」

「『あひる』」

「・・・はめたな。『る』から始まる言葉は、出きっただろ」

「言いがかりはよしてください。立派な戦略です。貴方の負けということで、よろしいですね?」

「よろしくねーよ!」

「なあに、あなた達、もう喧嘩してるの?」

背後からかけられた声に、が顔を強張らせた。彼女の代わりに、声の主であるミス氷帝を見返す。

「喧嘩じゃねーよ。こいつが卑怯な手を使ったから指導してんだ」

「中学生にもなってしりとりしてるのもあれだけど、それで喧嘩しちゃうのも先が思いやられるわね」

「喧嘩じゃない。指導だ」

同じ言葉を繰り返しながら、ミス氷帝が宍戸と腕をからめていることに気づく。

「ラブラブな私たちとは大違いだね? 亮くん」

「亮くん」のワードに反応したが勢いよく振り返り、目を大きく開いた。驚くのも無理はない。美人で評判もよければ、大抵の男なら二つ返事で付き合うだろうが、宍戸はそういう類の人間ではないし、普段の様子から、ミス氷帝に対して特別な好意は見て取れなかった。昨日の授賞式でも、彼女に協力を頼まれたが、面倒くさそうな作戦を提案されたため断っていたので、まさかくっつくとは思わなかった。

「私さ、が転校してきてから、いつか亮くんがとられるんじゃないかって毎日怯えてたの。だから、跡部君とくっついてくれて本当嬉しい。私たちの邪魔しないよう、末永くお幸せにね」

「アーン?知らないのか?と宍戸は仲が悪いんだ。お前が心配するような関係にはならない。」

「跡部君って、1+1は絶対2になると思うタイプだよね。恋愛にルールってないのよ。いつ誰がどうなるかなんて分からないの」

「ルールは俺が決める。1+1の答えは2だし、言われなくても、俺たちは末永く幸せになる」

ミス氷帝の忠告をあしらい、男子たちが暗い顔をしていたのは後ろに2人がいたからで、別段に人気があったわけではないと気づき、晴れやかな気分になる。

余裕が出たついでに、「お前も隅に置けないな」と宍戸の肩を叩いた。宍戸は虚ろな目で「裏庭で泣いてたから、励ましてただけなんだ」とかぶりをふり、「なんでこうなったのか、分からない」とつぶやいた。

それとほぼ同時に「はめられた」と、もつぶやく。


呆然としている2人の前を横切り、俺は「『ルール』」と答えて、教室の中に入っていく。



さあ、新しい日々の幕開けだ。







**************







演劇祭の翌日、学校中の話題をさらったのは景吾との2人だけではなかった。宍戸とミス氷帝という想定外のカップルの誕生もトップニュースとして、生徒たちの間を駆け回った。日吉は1日で好きな人を2人失った鳳が心配になり、ここ数日はずっと行動を共にしていた。鳳が行く先には、がいて、そこには必ず景吾がいた。鳳が彼女の行動を把握し、付け回していることは当然問題だったが、日吉としては、尊敬する景吾が彼女とずっと行動を共にしていることの方が気になって仕方がなかった。


部活動、委員会、勉学と忙しい彼が、彼女と時間をともにしようすれば、当然昼休みなど隙間時間を使うしかない。授業の間休みは10分間しかないのに、彼らは人気のない非常階段でおしゃべりを楽しみ、昼休みは屋上の塔屋の上で食べていた。放課後部活が始まるまでは図書館の奥にあるソファで体を寄り添い静かに読書をしていた。離れていた時間を取り戻しているようにも見えた。




「シューズ、新しくしたのか」

「うん、買っちゃった」

テニス部ロッカー室を開けるとちょうど鳳がいた。中央に置いてあるベンチに腰を掛け、鼻歌を歌いながら、新品の靴にひもを通している。ど派手なショッキングピンクに大きく黒いチェック模様が入っている厚底のランニングシューズは、箱根駅伝で多くの選手が使い有名になっていた。

「前の靴、まだ使えただろ」

「まあね。でも、この靴の方が軽いし走りやすいんだよ」

「ったく、ものは大事に使えよ」


走るのが好きな鳳が、マラソンランナーの間で流行ってる靴を買うのは不思議なことではなかったが、つい最近がその靴を履いていたものだから深読みしてしまい、厳しい口調になる。

鳳のロッカーの扉内側に飾られた彼女の写真を見て、ため息をつく。また写真が変わっている。今回はトロフィーを片手にピースしている姿だった。

「跡部さんが気づく前に外しとけよ。ついでに携帯の待ち受けと定期入れの写真もな」

写真を中指で弾いくと折れ目がつき、鳳が「やめてよ」と嘆いたが、「こっちのセリフだ!」と強く反論した。

コンコンと窓を叩く音に外を見ると、サッカー部の同級生がいた。前髪を細いヘアバンドで止めたそのサッカー少年は、ちょくちょくテニス部のロッカー室に来ては、窓越しに不真面目な上級生や、使えない下級生の不満を愚痴っていた。窓を開けると、「よっ!日吉!」と、明るく右手を挙げた。


「また、サボりに来たのか?サッカー部の問題はサッカー部で解決しろよ。優秀なキャプテンがいるだろ」

「万年学年2位のね。テスト前になるとイライラしだすキャプテンね。ほんと頼りにならないんだ・・・って、いや、今日はそんな話じゃないんだって。委員長が号外出すって言ってるんだよ!」

「号外?どこの委員長が?」

「俺らの!」

日吉はそこで初めて自分が報道委員だったことを思い出す。しばらく委員会に顔を出していなかったので存在自体忘れていた。情報収集が得意な者、カメラが趣味の者、アナウンサー志望の者たちで構成されたその委員会では、クラスのじゃんけんで負けて入った日吉の出番はなかった。


「演劇祭が終わった直後でネタがあるとは思えないけどな」

「跡部さんとさんがつきあったろ?」

「それは、もう全員が知ってる」

「だから、スキャンダルを狙ってるんだよ!ここまで言ったら、察しがつくだろ?」

快活に話していた男子だったが、ちらりと横にいる鳳を見て声を小さくした。同時に、日吉の脳内には満月の夜の悪夢がよみがえる。鳳がの体の隅々まで愛撫をしていたことが公表されると想像がつくと、身の毛がよだった。

「・・・あ、あれは、宍戸さんが証拠を処分したし、言い逃れできる」

動揺を隠すように言い切る。

「何人も目撃者がいるんだろ?言い逃れなんて無理だ!このスクープの為に、青学や山吹まで裏を取りに行ったんだ。委員長ら、本気なんだよ」

「それ、都内を移動する交通費に、予算を使っただけだろ。立海ならともかく、何の関係もない学校じゃないか」

「往生際が悪いな。かの有名な文春の局長だって言ってる『2人以上が知ることは絶対に隠せない』。俺だって、後輩と一緒に部費を横領したのがバレただろ?」

「横領は立派な犯罪だ。そっちは金がなくなったけど、こっちは何も無くなってないし、誰も困ってない。さんだって知らないから否定するだろうし・・・」

そう言ってから、鳳は否定するだろうかと、不安になる。正直に話し、謝罪し、最悪の場合は転校してしまうのではないだろうか。

「知らないってどういうことだよ」

詳細までは分かっていないのか、サッカー少年が顔を曇らせる。

「寝てて気づいてなかった」

「それって、まずいんじゃないか?それこそ、犯罪だ。強制わいせつ罪だよ!」

「暴行や脅迫して行為をしたら『強制わいせつ罪』になるけど、相手に意識がなかったんから問題ないんだよ。先生から習っただろ」

「そんなこと言う先生、クビだよ!」

鳳を擁護したいあまりに、人格を疑われるような発言をしてしまう。

「悪いことは言わない。さんに謝って、口裏合わせといた方が良い。跡部さんの報復は怖いぞ。絶対殺される。物理的にじゃなくても、社会的に抹殺される。むしろ、いっそ殺してくれ、って思うくらいの酷い仕打ちが待ってる」

「まさか」

はは、と口を歪ませて見せたものの、あながち間違ってないような気もした。あの動画がコピーされたものであれば証拠は残ってるわけで、鳳の将来が不安になる。

一方、2人の会話についていけない鳳は、物騒な言葉を節々に耳にしながらも内容を理解できずにいた。そして、窓の外奥のほうにいた人物を見つけると両手を振って大声を出した。

さーん!!」

話し込んでいた二人は肩を震わせ、日吉が即座に鳳の足を踏んだ。「いたっ」と反応しながらも、鳳はの名前を呼ぶのをやめない。尻尾が生えていたら、ぶんぶんとはち切れそうな程それを振っているだろう。それくらい声色に喜びがあふれていた。

彼女と言えば、気づかなかったことにしてやり過ごそうとしているのが見え透いていたが、鳳がしつこく呼びかけると周囲の目を気にして、しぶしぶロッカー室の窓までやってきた。サッカー少年と並ぶ格好になり、日吉に鳳を制するよう強い視線を送る。

「見てください。シューズ新しくしたんです」

シューズを手に持ち窓の外にずいっと出し、自慢げに見せてきた鳳に、は自分の足元を一瞥し、少し間を置いてから「ああ、人気ですよね」とはぐらかした。が、続いて鳳が「お揃いになりましたね!」と照れながら言うので、逃げ場を失ったように俯く。

八つ当たりで日吉を睨み、日吉も睨み返すと、2人の間で見えない火花が散るようだった。

さん、大変なことになってるんですよ!」

そんな2人の間に割って入る様にサッカー少年が声を上げると、は「貴方、また、サボってるんですか?」と呆れ顔になった。

「サッカー部の問題はサッカー部で解決したほうが良いですよ。優秀なキャプテンいるじゃないですか」

「万年学年2位のね。入部した女子マネを次から次へと食っちゃうキャプテンね。良いなって思ってた真由美ちゃんまで・・・って、いや、今日はそんな話じゃないんですって。委員長が号外出すって言ってるんです!」

やはりいつも愚痴を聞かされてるのか、も日吉と同じようなやりとりを交わす。

「ほら、日吉言えよ。今、言うべきだ。むしろ、今しかない!」

鳳の愛撫事件のことを伝えろ、という意味なのはわかったが、日吉は首を横に振った。せめて、先輩の宍戸に相談しないといけない。自分の判断で進めて失敗したらと思うと怖かった。鳳の選手生命が、学校生活が、いや、人生がかかってる。

「ああ、もうっ!面倒くさいな。俺が言う!」

「おい、やめろよ!」

「そっちこそ、ぐだぐだ言うのやめろよ!どうせバレるんだ。跡部さんに知られる前に、正直に言って協力してもらった方が良いって!」

「だから、この人、意識なかったんだって!言っても混乱するだけだ!」


しびれを切らしたサッカー少年を止めるため、窓から乗り出して、相手の胸倉を掴むが簡単に外される。

白けてた様子で下級生たちの諍いを眺めていた彼女に、サッカー少年は、「さん!驚かないで聞いてください!実は号外で」と一生懸命唾を飛ばした。



さんと日吉のハメ撮り写真が出ます!」


しんと、その場が静まり返る。




動揺した日吉が窓から遠ざかるようにして後ずさると、ロッカーにぶつかり、その拍子でパラパラと写真が落ちた。

どれも、下着が見えそうなきわどいショットで、アングル的にも盗撮と呼んで差支えのない、の写真だった。
サッカー少年とが目を大きく見開き、同時にひゅっと息を飲む。





「『はめどり写真』って何?」


鳳が呑気に質問する。


それを合図に、の悲鳴がグランド中に響き渡った。






********





「記憶にございません」


報道部が押しかけてきても、そうやって知らぬ存ぜぬを突き通したらしい。

荒井が、「氷帝の報道部がインタビューしにきたんだ」と鼻息を荒くし「ついに俺も強豪校に警戒されるまでになったんだ!」と喜んでたが、この話を聞いた時、こういう裏があったのかと納得した。

同じような連中が山吹にも現れ「亜久津さんですね」と声をかけてきたが、俺の顔を見て沈黙し、質問を白石に向けた。白石はいつもの調子で「ちゃん、可愛いからね。そういうこともあるかもね。勿論、君たちも十分可愛いよ」と適当な対応をしていた。

日吉からハメ撮り写真は誤解で、鳳が出来心でキスした所を動画に収められてしまったという説明と謝罪を受けた彼女は、あっさりと許したらしい。ハメ撮りと比べれば大した事ではなかったのと、片想いの暴走については本人に経験があったからだろうが、言い知れぬ不快感が残った。跡部とくっつけば、少しは荷が下りると想像していたが、彼女の周りには問題が絶えず、そう簡単にはいかないことを思い知らされた。


「なんで俺ら政治家が、記憶にないって言うかわかるか?精一杯の誠意なんだよ。事実を言ったら皆ガッカリするだろ」


『顔出すだけで良いから。いや、むしろ一言も話さないで』と担任に懇願され赴いた高校の面接室には、連日マスコミに追われてる男が足を長机に置いて新聞を広げていた。

つい最近、首相になった、の父親だ。

クリーニングから出したばかりの制服は生地が固く着心地は最悪で、面接室に入ってからは、目の前の男の存在が、自分の首周りを一層苦しくしているように思えた。

「不良でもスポーツ推薦が受けられるんだな」

アンタみたいなのも首相になれるんだな、と返そうとしたが、それよりも、なぜこの男がいるか分からず、男の隣に座っているこの高校の面接官らしき人物に目をやる。まだ若く社会経験の浅い、自分たちと近寄った匂いのするその若い面接官は、突如の国家権力ナンバー1の男の登場に完全に泡を食っていて状況を飲み込めていない様子だった。

「ここの付属大に獣医学部を新設するんだよ、それで色々あって、敷地を見学してたらお前が見えてな。面白そうだから寄ったんだ」

「色々」の中には国民が聞いてはいけないことが含まれていそうだった。

の父親と話すのは初めてではない。

最初会った時、彼は娘から離れろと手切金を押し付けてきた。手切金はに返したが、彼女が使ってしまった為、それからは借金取りのように神出鬼没に現れ、元本と利息分を払えと言っては、娘の様子を聞いてくるようになった。探偵でも雇え、と言ったこともあったが、その手の業者には既に頼んであるらしかった。

幸村って奴、怪しいと思わないか?とか、長太郎って名前は政治家に向いてるよな。など、業者から手に入れた資料を片手に娘の異性関係を気にしながら、1人ぶつぶつと話しては去っていく。

前回会った時より顔には皺が刻まれ、目の下は弛んで膨らんでいるが、油が乗った額と大きな鼻、欲まみれのギラギラした目は相変わらずだった。面接官から資料を取り上げると、口を横に開いた。

「中学生に、どんな質問すんだよ。志望動機か?出だしから嫌な質問だな。こいつんちは貧乏なんだ。学費免除につられてきたに決まってるだろ。面接ってのは家庭の事情にまで踏み込むのか。こりゃ、酷いプライバシーの侵害だな」

部外者がしゃしゃり出てきて、ここにいる方がプライバシーの侵害だ。

「入学してやりたいことは?んなもん、女遊びか悪さしかしないだろ。俺はな、顔見れば聞かなくても大抵のことは分かるんだ。まあ、けどな、景吾君とが付き合い始めたのには、驚いたよ」


2週間前、いつもいる事務所に跡部が彼女との交際を宣言しにやってきた。 「にはここに来ないよう言っておいた。もともと、お前とは住む世界が違う人間なんだ。2度と近づくな。分かったな」と、言いたいことを言うだけ言って出ていった。

隣にいた荒井が「感じわりーな」と舌打ちすると、カーテンに隠れていたは顔を出し「感動しました。これが、愛の力なんですね」両手を握りしめ悦に浸った表情をした。「彼氏との約束は守れよ」と荒井が麻雀牌を投げつけたが、はそれを人差し指と中指で器用にキャッチし、「景吾さんが言ってたじゃないですか、ここは異世界なんですって。治外法権ですから約束は無効です」と、飄々といいのけた。



「景吾君には、婚約を破棄してくれって頼んでたんだ。跡部財閥とは、もう手が切れない。ズブズブの関係なんだよ。そんな状況で、あいつらがズブズブズボズボの関係になったって意味がないだろ」

自分の娘とその交際相手に対して、よくその表現が使えるな、と嫌悪感を通り越して呆れる。

「だから、景吾君が改まってと一緒に菓子折り持ってきた時は、てっきり別れの挨拶だと思ってな。ハンカチ握って涙を流す準備をしてたんだ。だが、奴は開口一番に『正式にお付き合いすることになりました。娘さんを一生幸せにします』って頭下げたんだぜ。どう思う?」

世間一般的に言えば好青年だろう。ただの交際に、そこまでする中学生は全国探しても奴ぐらいだ。

「腹が立って仕方なくてな、悔し紛れに『避妊はしろよ』って言い捨ててやったんだよ。そしたら、アイツ『勿論です』って言ったんだぜ。とんでもねーよ」

跡部は、『大事にしろよ』など、そんな類の言葉をかけられると思い、『勿論です』という言葉用意していたに違いない。それをこの男が突拍子もないこと言うから、とんでもないことになったんだろう。跡部の肩を持ちたいわけではないが、亜久津は目の前の男の肩を持つ気にはなれない。

「それで、はな、『勿論、婦人科でピルを処方してもらいます』って言ったんだよ。健気だろ?なのに、景吾君は娘の頭を叩いて、掴みあいの喧嘩が始まった。幸せにするって言った直後に、父親の前で暴力を振るったんだ。俺は、目を疑ったぜ」

目を疑う前に、娘の発言に耳を疑うべきだ。

付き合っても、喧嘩は健在のようで、この間はが入賞した人物画コンクールについて、『被写体』と『描き手』どちらの手柄なのかで揉めたらしい。けれど、付き合いはじめ特有の距離感に戸惑うこともなく、ぎくしゃくしてすれ違うなどの大きなイベントもなく、淡々とコマを進めるように仲を深めていっているようだった。以前と変わらず対立することもありながらも、立ちはだかる壁があるわけでもなく交際は順調だった。


「将来の夢は?これは大きく言っておいた方が良いぞ。そうだな、メジャーリーグに行きたいとか、どうだよ」

テニスのスポーツ推薦受けることを分かって言ってるのだから、相手にしない方が良い、と自分に言い聞かせ、昨日、将来の為とエロビデオを1.5倍速で見ていたを思い出す。

「夢とか愛とか語ってもですね、結局行きつくところは、これなんですよ」と分かったような口ぶりで、テレビ画面を追いながら、途中で止めては荒井に行為の意味や内容を細かく確認していた。自分を経験者だと偽っていた荒井は、ほとんどの質問に曖昧な回答をし、耐えきれなくなると最後は童貞だということを明かした。その後は、こちらに質問を投げてきたが、回答を要約しては「夢がないですね」とうなだれた。

「最近のニュースについて、・・・友人の父親が首相になりました、だな?ビッグニュースだろ。政治経済に興味があるアピールができるし、きっと面接官はお前に友人がいることに驚くだろ。びっくりニュースだ」


机にあったスマホがチロンと短く音を出す。

の父親と面接官の視線が、画面に向かった。

「お前、ここは滑り止めか?」

「ああ」

担任の言いつけに反して、徐々に顔色が悪くなっていく面接官を見ながら答える。黙ってることにもそろそろ疲れた。

「なら、問題ないな。この学校潰れるぜ」


つぶれるのは物理的になのか、社会的になのか、と考えて、報道部からハメ取り写真の件が跡部に耳に入り「なんで、そんな誤解が生まれたんだ」と問い詰められ、死んだ方がマシと言うほどグラウンドを走らされたという日吉の話が頭に浮かぶ。



居ても立っても居られない様子で、面接官は立ち上がると「俺、新卒一年目なんですけど」と頭をかかえ室内を歩き始めた。

「若いんだから、次があるだろ。少子化で引く手あまただ」

「去年80社受けて、内定もらえたの、ここだけだったんです」

縋るような目を向けられた彼は、豪快に笑い、胸を張った。

「安心しろ。生活保護もある。まさに人生の滑り止めだな!」


わあっと地面に蹲って泣き出した面接官をみて、高校、大学を真面目に出ても、こういう未来があるのか、と思い憂鬱な気分になる。

「でも、そうか、お前らも中学卒業か。国民の三大義務の一つが終わるわけだ。・・・俺、よく頑張ったな」

の父親はそう感慨深く言い、窓の外へ目を向けた。




空は青く、雲一つなかった。


社会的地位もある経済的に安定した男と一緒になることが、女にとって幸せだと思っていた俺は、この結果に不満はなかった。




全てが順調で既定路線を問題なく進んでいるように思えた。

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