脱線

03. 造反有理
徒資派・実権派




「どういうことだ」



「だからですね。私にピアノの才能はないんですよ」





しれっと言うに対して苛立ちと怒りを覚えた俺は近くにあったゴミ箱を蹴った。小指が当たって予想以上に痛い思いをしたが悲鳴を上げるわけにもいかず、俺は彼女を睨んで耐えた。



「月曜の英語の授業はアイルランド訛りの先生だから嫌だ。水曜の華道の先生は香水がキツくて花の匂いが楽しめない。木曜のバレエと金曜の水泳は服装が恥ずかしい。適当な言い訳ばっかつきやがって、イイカゲンにしろよ!」

「ご安心を。火曜日のお稽古がまだ残っています。というか、そこまでスケジュールを把握しているとストーカーのようですね。婚約者と言う肩書きがなければ、即豚箱行きですよ」

「婚約者と言う肩書きがなければ、こんなことしてねーよ!喧嘩売ってんのか!」

「落ち着いて下さい。公共の場ですよ」



は口元に人差し指を持っていき「しっ」と言ったが、今俺たちがいるのは遊園地であって、落ち着く必要もなければ声を抑える必要もなかった。ただ、まあ、小さい子供たちが俺たちを指差してヒソヒソ話している所を見ると、少し配慮した方が良いかなとも思えた。

小学校高学年となった俺たちは、大人を伴わず外に遊びに行くようになり、今日は久々にテニス部が休みだったのでを外に連れ出したのだった。都内にある遊園地で規模は小さく、アトラクションもそんなに数はないが、交通の便が良いため週末は混雑していた。俺たちは午前中で全ての乗り物を制覇し、その後ホットドッグを買い、ベンチで軽い昼食を取っていた。世間話を軽くして、それから彼女の近況を聞いた。そしたらこのザマだ。



火曜の稽古といえば、茶道教室だが、それもいつまで続くか分かったもんじゃない。ため息をつきたくなるのを我慢して、ホットドッグを頬張る。彼女は俺の説教など意にも介さず、隣に座っている老人が読んでいる新聞に目を通していた。



「景吾さん。『連続誘拐犯』ですって、景気が悪くなると治安も悪くなるんですね」

「ああ、そうだな。ついでに、俺の機嫌と気分も悪い」

「大丈夫ですか?先帰ってもいいですよ。私はもう少し遊んでいきます」

「・・・。火曜の稽古はが続いてんのは、あれか?こないだ言ってた『亜久津』って友達のおかげか?良い奴なのか?」



は「さあ?人を理解するのは宇宙を理解すると同じくらい難しいことですから」と白々しく言ったが、同じ茶道教室に通う人間でも、『亜久津』は、きっとと違って清楚で大人しい女なのだろう。ソイツから影響を受ければ良いと思うが、そんな他力本願なことは言いたくないので、俺は自分ができうる限りのことは全てしようと思った。

とりあえず、来週からはヴァイオリンとフランス語の教室に通わせよう。カバンから携帯を取り出して使用人に手配を頼んでいると、が何か言いたそうに恨めしそうにこちらを見てきたが、俺は一切の口答えを許さなかった。ただ、彼女の場合、口答えせずとも従わないので結局意味がないのだが。

ホットドッグを食べおえた後、売店でキャラメルポップコーンを買い当てもなく歩いていると、俺たちはお化け屋敷の前に着いた。一つ先の角にプラネタリウムがあり、そっちに足を向けた彼女の腕をひっつかんで屋敷に押し込んだ。彼女は「こんなのには入るなんて、品性を疑われますよ!」と叫んで、チケットを切るスタッフに睨まれていたが、引きずるようにして歩を進めた。中央に着いたら、手を離し全力で出口まで走って彼女を一人にするのが目的だ。泣いて縋り付いてきたら許しを請う彼女の姿を想像して俺は口を弧に描いた。


辺りが暗くなり、そろそろメインの妖怪が出てきそうな雰囲気が辺りを包んできた所で俺は彼女の腕を開放しようとしたが、その時に強い力で逆に腕を掴まれた。





「きゃああああああああああ」




の声ではない耳をつんざくような効果音が響き、耳を塞ぎたくなったが、腕を背中に回されそれができなくなる。


化け屋敷の中、女子に腕を取られてイチャつくのが夢なのは、俺も否定しないし、好きな女となら一度は経験してみたいものだとも思う。


しかし

しかし、腕を取ったのは、好きな女でもなければ、でさえもなかった。
それは成人した男の手だった。
暗くて良く見えないが、男によって俺は鳩尾を殴られると口に布を詰め込まれ、腕と足をガムテープのようなものでぐるぐる巻きにされ袋に入れられた。小学6年生時の俺の身長は160センチ未満、体重は40後半で、大人であれば容易に担げる大きさだった。の腕を離していなかったので背中合わせに彼女も同じ袋に入れられたことが分かったが、彼女は死体のように抵抗する気配を見せなかった。

勿論手足を固定されて、口も塞がれていては何もできないとは思うが、せめて「んーんー」とか布越しでもいいので焦燥する様子を見せて欲しかった。自分だけが焦っていてなんだか馬鹿らしく思えてくる。いや、彼女のことだから、これをアトラクションの一部だと勘違いしているもかもしれない。



そこでふと、俺は重大なことに気付いた。
アトラクションでなければ、コレは一体何なのか。






「景吾さん。『連続誘拐犯』です」

ホットドッグを食べながら、そう言っていたの顔が頭に浮かんだ。










************

















袋につめられた俺たちは、車のような乗り物に乱暴にいれられて場所を移動し、かび臭い場所に連れられてきた。目隠しをされていたため、これ以上詳しくは述べられないが、目的に着くと誘拐犯と思われる男が俺たちの目隠しを外し口の中の布を取り出した。同時にせきこみ手で口を押さえたくなったが、後ろで手を結われているためにそれもできず、芋虫のように体を揺らすだけで、俺は無様な格好をさらすこととなった。


視界が鮮明になるとそこが使われていない倉庫の中だということが分かった。辺りは埃がつもりとガラスの破片や瓦礫が散らばっていた。天井付近に窓が2,3個あり、夕焼けがさしていた。

誘拐犯であろう目の前の男は、アメリカ合衆国大統領の覆面をかぶり、両手に黒い手袋をし、紺のスーツを着ていた。彼は手元にある写真と俺たちの顔を見比べ、気絶しているの顎を上に向けると「この子か」と呟いた。




「おい、俺たちをどうするつもりだ」

「彼女が、総理大臣候補議員の娘で合ってるかい?」

「質問に答えろ!」



俺が睨むと、男は肩をすくめて「威勢がいいなぁ。君はニュースを見る方かい?」と聞き、頷くと彼は口を歪めて笑った。





「良い子だ。じゃあ、最近の連続誘拐事件についても詳しく知っているわけだ。犠牲者は7人。皆、裕福な家庭の子供たちでね。電話するとすぐに交渉に臨んでくれて、巨額の身代金をあっというまに用意してくれた。7人とも良い子だったから・・・殺したくなかったなぁ」

「・・・身代金を払ったのに殺したのか」

「金を奪うのが目的だ。人質を返すことではないからね」




アタッシュケースから、パソコンやコードを取り出して、机代わりに用意した段ボール箱の上に設置し、コンセントを探し辺りを動き回りながら俺と話を続け、探し出したコンセントになんだかよく分からない機械を取り付けた。それを横目で見ながら、背中で手を固定しているガムテープをどうにかしようと、ガラスの破片を手に取ったが、映画のように上手く切れるはずもなく、ガムテープよりも先に自分の手が切られてしまうのではないかと思った。ただ、俺は諦めることを知らなかった。




「そんなことを繰り返せば、誰も信用しなくなるぞ。誘拐された子供が誰も生きて戻らないことを知っていれば、親は金を出さなくなる。お前が手に入れたい金も入らなくなる」

「そうかな。試しに君の家に電話してみる?」




その嫌味ったらしい台詞を聞いた俺は被害者であることも忘れて睨みつけたが、彼は両手をあげて降参のポーズをしニヤニヤ笑うだけだった。



「人はね、希望に縋る生き物なんだよ。簡単に諦めないし、絶望もしない。チャンスがあれば必ずトライする。電話に出た君のお母さんは君の今の状況を嘆き悲しむだろう。絶望に浸るだろう。そこにだ。僕が救いの手を差し出す」

「身代金を出せと」

「彼女は喜喜としてお金を払うだろう。私は彼女に夢と希望を与えたからな」

「そのあと、絶望の淵に立たせて突き落とすけどな」

「僕は愛や良心を信じる方なんだ。親は子供を捨てられない。お金よりも家族の方が大事だとする道徳はとても素晴らしい」

「俺たちを殺すのか?」

「ほら、君も希望に縋ろうとしている。うん、そうだね、殺すよ。最後に話したい人はいるかい?別れの言葉くらいなら告げさせてあげるよ。君は巻き込まれただけの人間でだしね」




最後に話したい相手と言われて、俺がまず初めに思い浮かべたのは両親だった。それから、部活の連中、クラスメイト、教師、使用人、様々な人間が俺の頭を駆け巡った。たった12年しか生きていない俺だったが、それでも多くの人と出会い、何らかの関係を持ち、共に歩んできた。それをこんな所で終わりにしたくはないと思った。

反射的に思い浮かんだ電話番号を口にしていた。「残念。話中だ」ツーツーツーと冷たい無機質な機械音が聞こえてきて、俺は額から汗を流し、ため息をついた。手も腕も血だらけだ。遺体が発見された時に、他殺じゃなくて自殺に間違えられたらどうしよう、と、しょうもないことを考えた。




「君は本当についていない。でも人生そんなもんだよ。まあ、これから交渉を始めるから、しばらくはおとなしくしていてね」




男は携帯を閉じると、先程俺が加えていた布を拾い俺の口の中に詰め込み、隣で気絶しているの体を揺すった。が不機嫌そうに眉を寄せて寝返りをしたため、「暢気なお嬢さんだ」と男は呆れたような声を出し、バタフライナイフをの頬に近づけた。俺は慌てて、芋虫状態の体を捻って彼女の体を蹴った。




「いっ」

「あ、起きたね」



手足が頑丈なガムテープで巻かれている俺と違って、は女だからだろうか、手こそはガムテープで縛られているものの足は自由で、場違いだと知りながらも、贔屓だと思わずにはいられなかった。は目を何度か瞬かせて、目の前にいる覆面をかぶっている男をじっと見た。




「・・・合衆国大統領が私に何のようですか」

「君のお父さんからお金をもらおうと企てているんだ」

「残念ですが、ママがマイケル・ジャクソンの等身大ポスターを玄関に張って以来、パパは反米です」

「そうなのかい?それは知らなかった」

「なので、筋金入りの米国嫌いで英語も碌に話せないのです。先日のサミットでクリントン元大統領に”how are you”と言おうとして”who are you”と言い、”I’m Hillary’s husband” と苦笑されて”Me too”と答えていました。それと、以前、『友人の友人はアルカイダだ』と言っていました」

「へえ、それは国際問題だ」

「そうです。世の中には問題が溢れています」

「例えば、誘拐事件とか」

「例えば、何の関係もないのに巻き込まれて殺害されてしまうとか」




二人の流れるような会話を聞いて唖然としていた俺だったが、最後のの一言で頭に血が上った。お前、狸寝入りしてたのかよ!





「分かっているなら、話が早い。今から僕は君の自宅に電話する。折をみて、君の耳元に携帯電話を当てるから、少しお父さんと話すと良い。それで、君の仕事は終わりだ」



人生もな。と、俺はその言葉さえ口に出せず内心舌打ちするが、自由な身のは口を尖らして男に反論した。




「パパが怒ったら怖いですよ。まず、来年から少し税金が高くなります。良心的な累進課税とかじゃなくて、消費税が高くなりますよ。それから、子供手当てもなくなるかもしれません。どうですか。恐ろしくありませんか」

「累進課税って?」

「景吾さん、聞きましたか?彼は累進課税も分からずに誘拐を計画したらしいですよ。」




累進課税と誘拐との間に関係があるとは思えなかったが、彼女の話を熱心に聞くふりをして、リストカットに勤しんだ。たぶん、ここがかび臭い異臭を放っていなければ、俺の血の臭いに気付かれたと思う。それくらいには血を流していた。



「人を殺すのはいけないことですよ。『幸せの追求』の第一原則で、法律でそう定められてます。貴方だって、大切な人が殺されたら嫌ですよね」

「お金が全てだよ。お金より大切なものはない」




さっきと言ってることが矛盾してるぞ!家族はどうした!愛と良心はどうした!と、言いたかった。「金が全てであってたまるか!」という意味をこめて布越しに唸っていると、が同情するような目で俺を見てきて頷いた。「そうですね。今はカードの時代です」とぽつりと呟いた。もし、俺が自由の身であったら、目の前の男よりも、まず第一に隣の女を殴っていたと思う。

男はと話すことに疲れを感じたのか、飽きたのか、黙々と作業を続けた。逆探知できないようにアンテナを張ったりしているのだろう。この間、ニュース番組で『連続誘拐事件の手口公開!』という特集でやっていた。彼が黙っても、は黙らなかった。ずっとしゃべり続けていた。




「お金が目的なのに、何で私たちを殺すんですか。無駄な動きだと思います。意味が分かりません。それに誘拐は3年以上10年未満の懲役ですよ。あ、そういえば、貴方は既に7人誘拐して殺害してますから、どうせ死刑ですね。私たちを殺しても殺さなくても死刑ですね。・・・。いやいや、それでもですね。死んだ後のことを考えるべきです。天国にいけませんよ」

「残念ながら、僕は無神論者だ」

「今から洗礼を受ければ良いのです。入るなら、ガンジーが信仰していたヒンドゥー教か輪廻転生がある仏教がお勧めですよ。キリスト教やイスラム教のような『聖戦』がなく、正義を語って人を殺す必要もありません」

「人を殺した僕が地獄に行くのは分かるし、僕も受け入れようと思う。でもね。僕は君のような子供が天国に行くことについて疑問を抱くことがある。人を殺さずに済むような、人より優遇された環境にいた人間が天国に行けるのは当然だと思わないかい?」

「パパが崇拝しているケネディ家の家訓には『人生が公平だと思うな』というものがあります」

「反米なんだよね。君のお父さん」

「ジョークですよ。貴方、誘拐なんて外道なことを思いつく割に、真面目ですね」





隣で彼女が馬鹿な発言をしている間に腕は自由になった。やっぱり、俺は天才で、選ばれた人間だ。ここで死ぬような雑魚キャラではなかった。

次なる問題は足だ。正座をすれば男の目に入らないかもしれないが、不自然だし、の後ろに移動して足のガムテープを即座に切るというのも危険を伴う。と俺の体格は同じくらいで、身長は彼女の方が1,2センチ高かったが、隠れるだけの大きさはない。

窓から吹いてくる涼しい風に彼女の黒くて長いスカートがパタパタとはためいた。男がこちらに背を向けている間に、足のガムテープを切り取り、無駄に長いスカートの中に足を隠した。俺たちはもともとくっついていたし、彼が振り返っても違和感はないだろう。は相変わらず男に話しかけていた。


こうして、俺はロングスカートが女の大根足を隠す以外にも様々な利用法があることを知ったのだが、その知識はこれからどうするかの問題解決までは応用できそうになかった。




用意が整ったのか、男は口元に丸い変声機をつけマイクを手に持ち、の声を制するように手の平をこちらに見せた。彼女と言えば「失礼な人ですね」と一言呟いてから口を噤んだ。失礼とかそういうレベルでものを語るな!相手は犯罪者だぞ!と普段であれば雷を落として反省文をかかせていたことだろう。










の父親と電話が繋がったのだろうか、男は簡潔に子供を誘拐したことを話し、身代金を要求した。交渉が順調に進んでいるためか、それとも、場慣れしているからだろうか、彼の顔に戸惑いや焦りは一切見えなかった。変声機を使っているため、かなり渋い声になってはいたが柔らかい声色で「では、娘さんに代わりますね」と彼はに電話を差し出した。




しかし、彼女は口を開かなかった。



彼が本物の誘拐犯で、人殺しなのだと実感し怖気づいたのだろうか、先程まで無駄なおしゃべりをしていた彼女が、まるで電池が切れたように何も言わなくなった。それまで男の動きしか追っていなかった俺だが、その時初めて彼女の顔を覗いた。






彼女は男を真っ直ぐ見たまま、口をぎゅっと結んでいた。


ここで、初めて男の顔に焦燥感が見え、彼はダンボールの上に置いてあった拳銃を持つとの米神に押し当てた。息を呑んだ。早鐘が鳴る、自分の心臓の音が本当に聞こえてくるようだった。まさか、冗談だよな。殺すのか?が殺されるのか?彼女が死ぬのか?



「僕を怒らせない方が良い。何でもいいから話すんだ。」



怒気を含んだような男の声が倉庫に響き、俺は自分の心臓が止まるような感覚を抱いた。この男は本気で撃つ。


「話すんだ。話せ!僕は本気だ!」




男が怒鳴っても、は瞬きもせずに、じっと男を見たまま目を逸らさずにいた。時間が過ぎるのがとても遅く、まるでいつまでも状況は変わらないようにも見えたが、俺の心臓はもう持たなかった。石のように動かず睨み合っている二人を見て、汗が全身から噴出すのを感じ、男が指を引き金にかけたと同時に俺は男に飛び掛った。















*********













銃声が二発鳴り、通信は途切れた。



家の電話には特殊な装置を付けているため逆探知に時間はかからなかったが、どう考えても警察が向こうに到着する前に全てが終わっていそうだ。

悪戯電話の類であれば良いがと希望的観測をしてみるが、電話越しから伝わる犯人の焦燥感に本物であることを確信した。何よりも夕方までに帰ると言っていた娘が家にいない。


小さくため息をつき、明日国会で議論する来年度予算の資料を睨んだ。そして、キーボードを叩き続けた。娘の死を直視するのを恐れたからではない。野党から野次を飛ばされるのを恐れたのだ。


ただ、それだけだ。















*********














頭と胸に一発ずつ打ち込まれて彼は死んだ。








目の前で起きた出来事が現実であると認識できずにいた。まるでテレビドラマのように夥しい数のパトカーが港の古い倉庫を囲み、そしてたくさんの警察が死体現場を中心として群がっている。KEEP OUTというロゴが入った黄色のテープが至る所で貼り付けられ、青いビニールが四方の視界を遮る。耳には雑踏とパトカーのサイレンしか聞こえない。報道陣がビニールの向こう側では待ち受けているのだろうか、何度も明るいフラッシュがたかれた。







「どういうことだ」










「だからですね。私に地図を読む才能はないんですよ」

「あーん?」




俺もも無事だった。

二人とも五体満足で、に至っては痣一つなく服もスカートが多少汚れただけ綺麗なままだった。汗が乾いてごわごわになった前髪を整えたいが、手が血だらけで額が汚れそうだったため、に代わりにさせた。彼女はポーチの中から玩具みたいな櫛を取り出し俺の髪を乱暴にといだ。





「俺の知らないうちに、何で火曜の稽古が空手教室になってんだよ!10字以内で述べろ!」

「『地図が読めない女だから』あ、1字多いですね」

「ふざんけんな!」
















俺が男に飛び掛った直後、銃はの右肩上に2発の弾を放ち、そのうち一発は俺の腕をかすめた。の身長より低く、しかも小柄だった俺は男に容易に捉られ、銃を額に向けられた。


「シュワルツネッガーは知っているかい?彼は映画の中では正義を語り目覚しい活躍を遂げた。しかしね、現実の世界は映画の中より厳しくてね。カリフォルニア州知事を務めているんだが評判は散々なものだ。現実ではヒーローが勝つとは限らない」




に拳銃を向けていた時よりも、男の目は穏やかで、俺を見せしめに殺す覚悟があることがうかがい知れた。が死ぬのは身代金が取れなくなるから困るが、俺が死ぬのは大して困らないのだ。俺が死んだ後、はどうなるのだろう。もっと考えるべきことはあった筈なのに、俺の頭の中にはそのことしかなかった。ぎりりと額の薄い肉につきつけられた拳銃の冷たさが全身に伝わるように感じた。「お嬢さん、よく見ているんだよ。僕が本当に人間を殺せる人間だということを学ぶんだ。そして電話に出てもらう」からの返事がなく、怪訝に思った男は俺から目を逸らし後ろを振り返った。

その時だった。



風を切る音と共にゴッと鈍い嫌な音がして、男の体がよろめき銃を落とした。







「うああああああああ!」


彼は顔を両手で押さえ雄たけびのような悲鳴をあげた。男がひざまづくと、その先にの姿を見ることができて安心したが、立っている彼女が持っている血付きの鉄パイプに気付いて、俺は顔を引き攣らせた。



「直接選挙で選ばれたんですよ。本当に評判が悪ければ、彼は州知事たり得ません。小学校の『公民』の時間に何を学んでいたんですか」




お前は火曜の茶道教室の時間に何を学んでいたんだ、と俺は問いたかった。日本の美意識では「繊細さ」や「静けさ」「わびさび」が重んじられると言うが、彼女からは一切それが伺えなかった。



しばし、呆気に取られていた俺だったが、男が立ち上がろうとしているのを見て、拳銃を拾い彼女の手を取り倉庫の出口に向かって走ったのだ。追いかけてくる男の足音を聞きながら、俺は全力で走った。彼女が自分の足に付いてこれたのは今思えば不思議なことであった。倉庫を出てすぐに銃声が響いた。


俺が口にした電話番号は、緊急用のもので最新技術を使った装置に繋がり確実に逆探知がなされ警察がこちらに向かうように仕組まれているものだった。銃声は男が放ったものでなく狙撃部隊のもので、俺たちの背後で彼は息絶えた。
















鉄パイプで男の顔面を躊躇せず叩いた女に必要な配慮かどうかは分からなかったが、俺はの目を手で塞いで現場を見せないようにした。彼女が「ありがとうございます」と呟き口を弧に描いたのを見て、俺は彼女の体を抱きしめ小さくため息をついた。なんだかんだ言いつつも、6年間一緒にいた相手だ。失わなくて良かったと心の底から思い、の体温を感じて心臓の音を聴いて安心した。




「空手が役に立って良かったですね」

「いや、お前思いっきり鉄パイプ使ってただろ!空手の意味分かってんのか!?まあ、わからなくて良い。とにかく、火曜の稽古はやめろ。そこはヴァイオリン教室の時間に当てる。あと、これからは、サボれないよう跡部家の車で送り迎えするからな」




もう一回誘拐事件が起きたら、俺の心臓はきっと止まってしまう。いつから日本はこんな治安の悪い国になったんだ。彼女を抱きしめたままそんなことを思っていると、遠くから馴染み深い声が聞こえてきた。




「景吾!!」

「母さん。それに・・・父さんまで」



両親を見た俺はを離し、すぐに彼らの元に駆け寄った。彼らは俺を肩と腕の傷が痛むほど強く抱きしめた。「馬鹿。心臓が止まるかと思ったぞ」と父さんに先程俺がに対して思っていたことを言われて、少し笑ってしまった。二人に会い、今更ながら危険な目にあったんだな、と実感し、の方を見た。二人の刑事が彼女に何か質問しているようだったが、彼女の家族は見当たらなかった。




母さんと父さんが、疲れているであろう俺のために、事情聴取を今日するのはやめてくれと警察に頼んでいる間、は刑事に連れられてパトカーに乗ろうとしていた。バタンとパトカーのドアが音を立てて閉まった時、俺は走りだしてパトカーの窓を叩いた。




「どうしたんですか?」



ジーと機械音と共に窓が開くと、は顔を出した。


「俺もいく」

「ダメですよ。景吾さんは、ご両親をちゃんと安心させてあげて下さい」




この時、俺は「それはお前も同じだろ。家に帰って安心させてやれよ」と喉まで出掛かった言葉を飲み込んだ。の親がうちの親と同じほど心配しているとは到底思えなかったからだ。俺は刑事に断りを入れてから、窓に手を突っ込んでドアを開け、彼女腕を引っ張った。




「何してるんですか?」

「婚約指輪を買いに行く」

「なんですか、突然。だいたい成長期ですから、サイズが合わなくなりますよ」

「そしたら、また買えば良い」

「先程の誘拐犯は標的を間違えましたね。彼が狙うべきなのは私じゃなく貴方でした。この浪費家め」

「金は全てじゃない。あくまでツールだ。大事なのはそれをどう使い、何を達するか、だ。言わせてもらうが、俺自身は、無駄な買い物をした事がない。」

「まあ、それはおいおい考えるとして、私はこれから事情聴取が」

「何言ってんだ。家族が待っているだろ。家に帰るんだ」

「だから」

「お前も、俺の両親の子供だろうが!」





返事も聞かず俺は彼女の車から降ろし、腕を取って両親のもとまで歩いていった。連れてきたの頭を父さんは撫で、母さんはを抱きしめた。は戸惑いながらも彼女の抱擁に応えた。



自分の口元が緩んだのを感じ、俺は心が満たされるのを知った。














当時、俺たちは小学6年生だった。




こんな関係がずっと続くと思っていた。二人の間に恋愛感情がなくとも、18になったら結婚して、ある程度の年をとったら子供が生まれて親になって、子供が大人になる頃、定年退職を迎えて、孫が生まれて、老人になっても相変わらず二人で寄り添って生きていくんだと思った。




祖父に逆らう気なんて全くなかったし、父を幻滅させるつもりなんかなかった。恋愛感情なんてもの知らなかったし、そんなあやふやなものに囚われるとは思わなかった。ましてや、それの為に将来を棒に振るようなことを夢想するようになるなんて思わなかった。













俺は敷かれたレールに満足していたんだ。
だから、彼女も同様に満足していると思っていた。








確信が持てず疑い出した時、歯車が狂いだしたんだ。


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