「この人、チカンです!!」
ラッシュ時の車内に、少女の甲高い声は反響した。
まだ、鶏も目覚めていない時間帯、午前4時に起床するのがの習慣だった。寝ぼけ眼で、バスルームに行き、熱めのシャワーを浴びて目を覚ます。濡れた髪をさっとタオルで撫で、ジャージを羽織ると母親の家であるマンションを出て、近くにある公園で準備体操をした。
空手教室を始めた頃から、は多摩川の土手で毎朝2時間のロードワークをするようになった。小学6年生の時に空手教室をやめて、あれから2年経ち、中学3年生になった彼女だったが、その習慣は続いていた。早朝に走る人間は少なく、空気は冴えており、はこの時間が一日の中で一番好きだった。天気が良い日は朝日が見ることができ、それはもう綺麗なのだ。
腕時計を見て時間配分を考え、ペースを上げながら思いっきり走る。風の音が聞こえなくなり、代わりに心臓の音が聞こえてきて顔が少し歪むくらいのペースが丁度良いのだ。
いかにもアスリートっぽい人を見るとその人のペースに合わせて走ったりもした。勿論、相手が気付かないくらいには距離を離して走る。最近、軽く天パが入った銀髪を携えた長身の男がこの時間帯に走るようになり、よく顔を合わせる。も何度か彼の後ろを付いていったこともあるが、彼は陸上部というわけではないのだろう、筋肉の付き方が長距離走選手のもののように贅肉をそぎおとしたようでもなければ、短距離走選手のようにコブのような筋肉が付いているわけでもなかったし、何よりも彼はよりも遅かった。
いつも背中を見かけては、抜かしていた。まともな話しをしたことはなかったが、一度彼の靴の紐が解けていたことを注意したことがあり、以来、彼とを目が合うと会釈をするくらいの仲にはなった。景吾が持っている体操着と似ていたので、氷帝の生徒かも知れないと漠然と思ったが、親睦を深めるつもりもなかったので大して気に留めなかった。
2時間、ハイペースで走りきった後、軽いクールダウンを済ませて、マンションに戻り二度目のシャワーを浴びると、彼女はバスタオルで体を拭きながら景吾にスカイプのカメラ機能を外してから連絡をとった。これは、幼稚園の時から変わっていない「義務」であった。何度目かの呼び鈴で彼は出た。
「よう、今日は早いな」
「おはようございます。今日は委員会があるので、家を少し早めに出なくてはいけないんです」
「ああ、風紀委員か。面倒な委員会に入ったな。それより、昨日、お前の学校に問い合わせて2年次の成績表を見たんだが」
「プライバシーの侵害です」
「音楽の成績が悪い」
「それは私の所為じゃありません。先生の評価が厳しいんですよ」
「1って何だ。どうしたら、こんな成績が取れるんだ。印刷ミスかと思ったぞ」
「確かに印刷ミスかもしれませんね。で、景吾さんはどうなんですか?」
「今日の始業式に成績表は渡される。ま、いつも通り5に決まってるけどな」
「ああ、10段階評価の」
「5段階評価だ!」
彼がそう叫んだ所で、はスカイプを切った。委員会の時間に遅れると、彼と同じくらい怖い男に雷を落とされることになるのだ。常にむすっとした顔をしている老け顔の男を思い出して、は慌てて家を出て、近くの駅まで自転車を飛ばした。
ラッシュ時の電車には乗りたくないが、車と違って時間通りに目的地に着くので重宝している。車は、ラッシュになると進まなくなるため、時間が予想できないのだ。もみくちゃになりながらも、歩を進め電車の奥に入る。
3つ目の駅を過ぎた頃だった。隣にいた茶髪の女子学生がキョロキョロと辺りを伺いながらモゾモゾ動いたのが体越しに伝わってきた。と同じくらいの短いスカートを履いた少し化粧の濃いその学生は、カバンにはたくさんのキーホルダーをぶら下げていて電車の揺れと共にジャラジャラと音が鳴る。4つ目の駅に着き、ドアがプシューと開くと同時に彼女は後ろにいた男性の手を掴んで天井に向け挙げて、叫んだ。
「この人、チカンです!!」
それまでは普通で良かった。彼らが電車から降りて、彼女が駅員に男を渡せばいいだけだった。しかし、彼女のキーホルダーがのブレザーにひっかかり、はひっぱられるようにして一緒に電車から降りてしまったのだ。チカンの男と女子学生が「やっていない」「やった」で言い争いをする隣では焦ってそのキーホルダーを取ろうとしたがなかなか絡み付いて取れない。そうこうしているうちに電車はを置いて走り出し、彼女は委員会への遅刻を確信した。
4月も上旬と言う季節に、秋風のような冷たい風がピューと吹く。呆然としていると、キーホルダーの持ち主に声をかけられた。
「アンタ、私が駅員呼んでくるから、この人捕まえといて!」
「はあ」
意味が分からないまま、は男の腕を持たされ、彼女がから離れていく時に、キーホルダーがのブレザーを切った。
「何度も言うが、私はやっていない」
ゴツゴツした男の手は、成人男性のもので、腕につけているロレックスは本物だった。彼が着ているものはかなり値段の張るスーツだと言うことも、持っている腕の裾の肌触りで分かった。ほのかに香る香水は昔景吾が使っていたなんとかかんとかという奴で、は、興味深げに男の顔を覗いた。
「お人形さんみたいな顔をしている貴方なら、寄ってくる女は星の数ほどいるでしょうに。少し我慢できなかったんですか?」
「・・・。だから、私はやっていない」
「犯罪者は皆そういうんです」
「それでも、私はやっていない」
彼の月並みの、なんのひねりもない弁解を聞きながら、ホームに止まった各駅停車には乗った。電車のドアが閉まり、ガタンゴトンと単調な音を出して動き出す。特急の電車と違い、だいぶ人は少なく、は近くの椅子に座った。
「・・・逃がすのか」
「やっぱり、やったんですね」
ずっと男の腕を持っていたのだから必然的に彼はと共に電車に乗ることになり、椅子に座ることになった。勿論、彼女を振り払おうと思えば楽にできたが、が大声を出した時点で彼は回りの人間に取り押さえられる。
「本当にやっていないんだ」
「写真付きの身分証明書を出して下さい。出さなければ、どうなるか分かっていますね」
はちらりと車両を見回りに来ていた駅員を見た。
「何をするつもりだ」
「初犯かどうか確かめて、初犯なら見逃します。だって、ねえ?チカンで人生を棒に振るうなんて馬鹿げていると思いませんか?」
「初犯かどうかなんて、どうやって調べるんだ」
「警察関係の知人がいるんです」
男は胡散臭そうな顔をしたが、先程の女子学生と彼女がタッグを組んで警察に突き出されたら明らかに自分の部が悪いと思い至ると大きくため息をつき、スーツの中ポケットから財布を取り出すと1枚のカードをに渡した。「榊太郎・・・ですか。外見に反してずいぶん古風な名前をしているんですね」メモ帳にそれを書き写そうとして、は目を見開いた。
「氷帝の教師、が、どうしてこの電車に乗っているんですか?」
「私はいつも車を使っているんだが、今朝はそれが故障して電車を使ったんだよ」
「そしたら、乗る電車を間違えた。と」
男は苦虫を潰したような顔をして頷いた。はしばし男の顔と目の前にあるカードを見比べていたが、「そうですか。氷帝の・・・」と呟き、唇を舐めた。
駅に止めてあった放置自転車に乗って、学校まで走り、近くの公園に乗り捨てて走り出す。立海代付属中では自転車登校は禁止されていた。新築でピカピカの校舎の非常階段を使って最短距離で委員会の会議が行われている教室に向かった。
ドアを開けると、会議室には誰もいなかった。滴る汗を袖で拭い、ドアに背をつけて大きく息を吸って吐く。早く走りすぎた所為で、嘔吐感も伴った。ずるずるとドアにもたれた背中が落ちていき、尻が床に着くかつかないかのところで、ドアが勢い良く開く。
ひっくり返って頭を打った彼女に、かけられたのは安否確認の言葉でもなければ、労いの言葉でもなかった。
「、今何時だか分かってるか」
時間の確認だった。帽子をかぶったいかつい顔をした男が、手も差し出さずに倒れているイタイケナ少女に対して怒鳴る光景は、朝っぱらからは見たくない光景だ。
「7時半です」
「そうだ!で、委員会開始は何時だ!」
「6時半だったような気がするようなしないような」
「ああ、そうだ!遅刻とはたるんどるぞ!」
「実は、チカンを助けていまして」
普段からキツイ皴が寄っている眉間に更なる皴が刻まれたのを見て、彼が手を差し伸べてくれそうにないことを察し、は自分で立ち上がり、スカートから埃をパンパンと叩き落とした。埃が舞い窓から射す光にキラキラ反射した。それから彼が持っている配布資料を受け取り、小さく謝罪すると彼に背を向け廊下をとぼとぼと歩き出した。その背中を追うように彼も歩き出す。
「、上履きのかかとを踏んでるぞ」
「真田さんもズボンの中にシャツが入っていますよ」
「どこがおかしい」
「普通だと思っているところが、おかしいです」
「よく分からんことをいうな。だいたい、その短いスカートはなんだ!たるんどる!」
「この程度の長さでムラムラするんですか?意外と性欲的ですね」
はそう返事を返すと同時に廊下を走り出した。真田が怒りを露にの名前を叫んでも、彼女は足を止めずに自分のクラスまで走ったのだ。
英語と数学の授業以外の時間は読書と塾の予習につぎ込み、放課後になるとは跡部家の車で東京のフランス語教室があるビルに向かう。雑居ビルが立ち並ぶ道をスイスイと進んだ後、車はガラス張りの小綺麗なビルの前で止まった。帰りは自分の家の車が来ることを伝えて、車を帰らせると、はビルの中に入り、裏口から出ると、近くの小さな小汚いビルに走った。
それから、壊れそうなエレベーターに乗りこむと、5階のボタンを押し、息を整え、備えられている鏡を見て簡単に前髪を整えた。チーンと安っぽい音が響き、彼女は短い廊下の奥にある扉まで歩いた。扉を開けると、ムワっと白い煙が視界を塞ぎ、タバコの臭いが彼女の鼻をついた。
「亜久津、換気扇くらい回してくださいよ」
「遅かったじゃねーか」
「時間通りですよ」
「俺を待たせんじゃねー。糞が」
「まあ、聞いてください。今日、実は『一日一善』というものを実行したんですよ。困っているチカンを助けたんです」
ふふんと自慢げに笑う彼女を見て、亜久津と呼ばれた少年は「それは『一善』にならねーよ」と興味なさそうに鼻で鳴らし、ソファの上で横になりながらメンズ雑誌のページを捲っていた。
小さな事務所のようなその部屋は、亜久津の知人が勉強部屋として貸してくれている場所らしいが、詳しいことをは知らなかった。そこには必要最低限のものは揃っており、台所にトイレとシャワールーム、テーブルにソファ、薄型ではないがテレビもあり、青少年たちが屯するには快適な空間であった。
は、辺りに散らばっている服を洗濯機に突っ込み、血が付いているものは躊躇せずにゴミ箱に入れた。それから、亜久津が横になっているソファに腰掛けると足を組んだ。
「今日は麻雀、トランプ、競馬どれで勝負しますか?」
「ラジオを出せ」
「競馬ですね。良い選択です」
がソファの下からラジオを出しアンテナを長くすると、亜久津は立ち上がり、机の上に置かれていたスポーツ新聞を広げ、赤ペンのキャップを口で取り、いくつかの馬の名前の上に丸印を付けていった。「いくら賭けますか?」とが聞くと、彼は3本の指を立てた。
「30万ですか。まあ、妥当な金額ですね」
「ドタマかち割んぞ。3千だ」
「あー、3千ですか。・・・。今度、河村隆も呼びません?ほら、貴方、空手道場で仲よかったじゃないですか」
「これだけは覚えとけ。アイツをカモったら、お前をぶっ殺すからな」
「・・・任せて下さい。こう見えても、暗記物は得意なんですよ」
帰宅部のの趣味は、ギャンブルだった。フランス語が上達するわけもなく、週末には景吾の前で「フランス語の才能がないんです」と正座することが習慣となっている。
タクシーで暗いマンションの一室に帰り、シャワーを浴びてタバコの臭いを落とすとパソコンを開いた。スカイプから着信音が鳴り、彼女はマイクを取った。
「こんばんは」
「ああ」
「そういえば、成績表はどうでした?」
「・・・。音楽の成績が、いや、俺の所為じゃない。うちの音楽教師は厳しい評価を付けるんだ」
「まさか、1だったとか言いませんよね」
「印刷ミスに違いない」
「聞こえませんでした。何ですか?もう一度大きい声で言ってください」
「実は、音楽の成績が、・・・いや、何かの間違いなんだ。そうだ。あり得ない。何で、・・・監督。どうしてなんだ・・・何がいけなかったんだ」ブツブツ独り言を始めた景吾を放置しは電気を消して、ベッドの中に入った。の朝は、明日も早い。
これが私の学生ライフ