脱線

05. 人民戦線
遊撃戦・持久戦


「テニス部なんて、入らないで下さいよ。私、亜久津と遊べないなんて嫌ですよ。」

「お前の指図は受けねぇ」

「がーん。私とテニスどっちが大切なんですか」

「テニス」

「がーん。まさかの青春到来。では、私と壇太一、どっちが大切なんですか」

「壇」

「がーん。まさかのカミングアウト。では」

「ウゼェな」

「がーん。」




放課後、いつものビルで、亜久津が昔パシりに使っていた青学2年の荒井を仲間に入れ、三人麻雀をやっているときに、亜久津は都大会に出場するため部活に出ることを話した。

無表情で『がーん。』と何度も言ってくるに対して、苛立ちを覚えた亜久津は彼女の口に間食用の焼きそばパンを突っ込んで黙らせた。不満をもらしていた彼女だったが、焼きそばパンを口に頬張ると、「貴方、意外と流されやすいですよね。自分からというよりも、人にお願いされて断れなかったんじゃないんですか?」とせせら笑った。

麻雀板をひっくり返し、彼女をぶん殴りたくなった亜久津だったが、珍しく良い牌を持っていたので自重した。




ついこの間、ガラの悪い高校生3人組にからまれていた壇太一を亜久津が助けてから、こういう彼女の刺々しい物言いに拍車がかかった。不良が集まることで有名な高校の生徒だったため、は警戒しているのだ。


「試合に出るということは、喧嘩ふっかけられても、相手にできなくなるんですよ」と吐き捨てるように言い、牌を乱暴に捨てると「スーアンコー!」と叫びガッツポーズをした。荒井が「マジかよ」と嘆き、亜久津は今度こそ麻雀板をひっくり返した。













その翌週から亜久津はテニス部に顔を出すようになり、遊び相手がいなくなって暇になったも亜久津に会いに山吹中に行くようになった。テニスコートの近くには観客が少ないわけでもなかったが、他校生が毎日来れば自然と注目されることになる。それも怪物・亜久津の知り合いとなれば、自然とみんなの興味は注がれる。はテニスコートのフェンス越しに設置されているベンチに座っていただけだが、存在感は十分あった。



立海の制服を着た身なりのキチンとした女の子と、亜久津の関係を詳しく知りたいと好奇心を抱く者は後を絶たず、だからと言って迂闊に彼女に近づけば、亜久津に何をされるか分かったもんじゃないので、誰も話しかけることができなかった。


テニス部の中では彼らが恋人同士であるという憶測が飛びかっていたが、彼女がいかにも良家のお嬢さんと言う感じで、亜久津とはアンバランスだった。ベンチに座る際にはハンカチを引くし、読んでいる本はトルストイの神曲、黒髪に化粧をしていない中学生らしい顔、どこからどう見ても、亜久津と付き合うような人間には見えなかった。


だからと言って、亜久津が脅して手に入れたにしては地味すぎたし、そこまで美人ではなかったし、何よりも彼は女には不自由していなかった。とっかえひっかえで、保健室や図書館でそういう行為に及んでいたとか、女子高生に手を出したとかという噂は後を立たない。真相は闇の中。永久に謎のままだと思われていた。












ある日、マネージャーがインフルエンザで4人中3人休んだ時、当初三人が行く予定だった部品の買出しにマネージャーである壇太一と、自称金運が良いと言う千石清純が代わりに行くことになり、あと一人を誰にするかと決めかねていた。亜久津の練習相手が選ばれようとしたとき、それまで沈黙を貫いていた亜久津が「に行かせろ」と言ったのだ。

だが、部員の皆は言われた意味が分からない。テニス部には一人として『』の姓を持つものがいなかったからだ。首を傾げているテニス部員に小さく舌打ちをしてから、亜久津は親指をくいと後ろに向けた。部室の窓の外、ベンチで本を読んでいる噂の少女がいた。





亜久津の後を追うようにして、千石そして壇は部室を出て、彼女のもとまで歩いた。人の気配がしたのか、視線を浴びたのを感じたのか、彼女は彼らが来る前に気付いて、本を閉じた。


、お前暇なら買い出しに行け」


その横柄で威圧的な物言いに千石は焦った。テニスコートの近くで他校生を泣かしたら問題だし、それ以上に『女の子には優しく』をモットーに生きている彼には信じられない暴挙のように思えたのだ。千石はすぐに彼の言葉にフォローを入れた。


「マネージャーがインフルエンザでダウンしちゃってね。もし良ければ、助けくれないかなと思ったんだ。強制じゃないし、断っても良いからね。えっと、」

です。彼が言った通り暇を持て余していた所ですし、別に良いですよ」

「え、あ、本当?助かるよ。僕は」

「千石さんですよね。メス猫どもが騒いでいたので覚えました」

「え、メス猫?」

「あ、あの、僕は壇太一です。よろしくお願いします」

「知っています。このや」


が「この疫病神が」と言おうとしたところで、亜久津が彼女の頭に拳骨を落とした。それから、三人に向かってさっさと買い出しに行けと言い放ち、自分はコートに戻っていった。は頭をさすってから、二人に向かって「よろしくお願いします」と頭を下げた。








学校前でバスを待っている間、前々から興味を持っていた千石は彼女に話しかけた。亜久津と彼女の『アンバランス』のように思える二人の関係を明かすことはテニス部の代表としての義務に思えてならなかった。けれど、いきなり、恋人か、なんて聞くのは不躾すぎるので、出会いはどこかから聞いた。

は「お稽古が同じだったんです」と上品に笑い、それから亜久津の学校生活や部活動の調子を千石に聞いた。話を聞くよりも話し手に回ることが得意な千石は自分の義務感や使命も忘れて、亜久津の悪事や学校の行事など、と他愛無いおしゃべりを続けた。


バスが到着すると、支払いを先に済ますため、千石が先頭になって乗り込み、彼女は一番最後にバスの階段に足をかけた。皴と染みの多い老婆の手を引いて、乗ってきたので、壇と千石は驚き互いの視線を交わしたけれど、彼女はごく自然にさも当然のようにその足の不自由な老婆をシルバーシートまで連れて行き腰をかけさせた。それから、壇の横に座った彼女に対してその後ろの席に座っていた千石は声をかけた。


「知り合い?」

「いえ、違いますが」


のその言葉を聞いて、千石は『アンバランス』だと思った。対して、壇はを尊敬するような目で見て、亜久津のテニス部での活躍を喜喜として話していった。彼が口を開くたび、彼女の機嫌は悪くなっていったのだが、気付くものは誰もいなかった。








************







町に買い出しに行き、山吹中に帰ってきた頃にはもう空は暗く、部員たちの何人かは先に帰っていおり、部室には使い終わった制汗スプレーがいくつも転がっていた。監督に部品の買出し報告をしにいった壇以外の二人は、部室におりが慣れた手つきでスプレーを拾って片付けていると、千石は彼女にカフェオレを渡した。


「今日は本当に助かったよ。ありがとう」


は笑って首を横に振った。千石はそんな彼女に亜久津への愛を感じ、素直に可愛いなと思った。その時、机の上にあった黒い携帯のバイブ音が鳴り響き、それを見たは躊躇せずに携帯を取った。千石の記憶が正しければ、それは亜久津のものだった。


「はい。あ、こちらこそ、その節はお世話になったようで。え?ああ、まあ、そうですね。はあ、あ、ちょっと電話切らないで下さい。今、メモします」


が紙とペンを探しているのが分かったので、千石はすぐに彼女の前に部活のバインダーに挟んでいたプリントの裏を出し、転がっていたマジックペンを渡した。

は小さく会釈をし、そこに日付と時間、場所を書きとめた。彼女がプリントをたたんでポケットにしまったが、バインダーにはマジックペンがそのまま映っていて、気まずそうに千石を見た。「いや、君の所為じゃないよ。僕がボールペンを用意できなかったのがいけないんだ」と、肩を竦めた。




荷物を部室裏の倉庫に置くと、がいつも座っているベンチに横になっている亜久津を見つけて彼女は彼の元まで駆け寄っていった。




「亜久津、起きてください。さっさと帰りますよ。私は貴方と違って門限があるんですからね」


閉じていた目を開けると、亜久津は千石の方を見て起き上がり「コイツ、あんま使えなかったろ」と言った。


「そんなことないよ。十分助かった。それに可愛い女の子とおしゃべりできて楽しかった」

「ついに頭が沸いたか」


千石は首を横に振ったが、彼女のせいで何度も立ち止まることがあり、時間がかかったのは事実だった。外国人観光客に道を案内したり、黄色の点字ブロックの上に置いてある自転車を移動させたり、落し物を警察に渡しに行ったりと何かと用が増えた。驚きはしたものの、不快感を抱くような行動でもなかったし、何よりも彼女は部員でもない助っ人なので文句を言わずに見ていた。壇にいたっては「さすが、亜久津先輩の」とかよく分からないが感嘆していた。


「そういえばさ、ちゃんと亜久津のつきあいは、いつからなの?」

「小学校4年生のバレンタインデーに、私が迫ったんですよ。それからです」


亜久津がタバコケースからタバコを取り出し口にくわえたが、が照れたようにそう言って頬をかくと、口からタバコを落とした。


「へえ、ちゃんって見かけに寄らず積極的なんだね」


そう言った千石を亜久津は鼻で笑い、新しいタバコに火を付け、落ちたタバコを靴で踏みつけた。




「はっ、物は言い様だな」



立ち上がり上着を羽織った亜久津は「帰るぞ」と言い、門に向かって歩き出した。
彼の後を壇は追ったが、は屈んで亜久津が踏みつけたタバコを拾い上げ、ポケットから吸殻ケースを出すとそれの中に入れた。それから、灰が付いた手をハンカチで拭いた。

振り返った亜久津は小さく舌打ちをしたが、彼女を咎めることはしなかった。けれど、それは異様な光景に見えた。やっぱり『アンバランス』だなと思った。

校舎裏から亜久津がバイクを取ってくるまで、壇と千石はと話していた。話しかけるのは、もっぱら、千石だったが。



ちゃん、亜久津が最近テニスで忙しいから寂しいんじゃない?」

「はい、とても」



俯いて制服のネクタイをぎゅっと掴む彼女の姿がとてもいじらしくて、「つらくなったら、僕に相談してね。力になるから」と言って千石は彼女の肩を軽く抱いた。首を横に振った彼女からはほのかなメンズの香水の匂いがした。亜久津のものではない、上品なものだった。「どうしても辛くなったら」と呟き、俯いてくと、彼女は千石の手をやんわりと離した。



「強姦されたと言って警察に駆け込みます」

「・・・え?」

「そしたら、彼の試合出場権は失われますから」


の物騒な発言を聞いて、千石は固まり、壇は目を見開いた。


「お前の狂言なんか誰も信じねーよ」


背後から聞こえてきた声に、二人とも振り返れなかった。が言った言葉があまりにも衝撃的だった。亜久津がにヘルメットを投げ渡すと、彼女はそれを頭に被り、亜久津の後ろの席に跨った。


「私のパパは総理大臣候補で与党の国会議員です。無理を通して道理を引っ込めることなんて朝飯前です」

「虎の威を借る狐って諺知ってるか?」

「貴方こそ、井の中の蛙って諺知ってますか?飛び入りでどこまで通じるか見ものですね。負けた暁には、腹抱えて大笑いしてやりますよ」


壇は顔を赤くしたり青くたりし、、千石は唖然としながらも、これなら『アンバランス』ではないな、と思った。





***********











都大会決勝選、青学の越前リョーマという少年を前に敗北を記すると、顧問の半田に一言残し、コートを出た。腹を抱えて笑うの姿を思い浮かべ、舌打ちして携帯を取りにかけていると、青学のジャージを着ている男に声をかけられた。







「うちのルーキー強かったですか?」

「お前が万年レギュラー入りできない筈だ。荒井」

「万年って、ひでぇ。正直、亜久津さんは・・・今日の試合に出ないかと思いましたよ」

「ああ?」

「いや、昨日、高校生の奴らとドンパチやったって聞いてたんで、さすがに無傷だとは思わなくて」

「なんつった?」

「え?だから、こないだ、言ってた高校生と亜久津さんがやりあう話って話を聞いたんですよ。それで、昨日は3人とも病院送りだったって聞いたから、やっぱすげーなと思って。でも、よく出場禁止になりませんでしたね」





耳に当てている携帯からは、いつまでも発信音しか聞こえてこず、亜久津は先程まで燃えるように熱かった体が一気に冷たくなるのを感じた。



「おい、病院送りになったのは高校生だけだったか?」



不思議そうに、記憶を掘り起こすように首を傾げた荒井は、「女子が巻き込まれた、っていうのも言っていたような気が」と、自信がないのか語尾を小さくして言った。カバンの中からバイクのキーを取り出すと、亜久津は走ってその場を去っていった。

後方で二人の話を聞いていた千石が荒井に「ねえ、君。それって、この場所にこの時間に集合とか、じゃないよね?」とマジックペンで大きく文字を書かれたバインダーを新井に見せると、荒井は戸惑いながらも頷いた。



「何かあったんすか?」

「彼、もうコートには戻ってこないかもね」



はあ?と、眉間に皴を寄せる荒井に対して、千石は「あーあ、亜久津君がやめちゃうなんて、アンラッキー」と大きくため息をついた。









***********








夜中ずっと集中治療室にいたが、普通の病室に移ったのはその日の朝だった。彼女の体には、長い管が何本も体に突き刺さっており、人工呼吸器が付けられていた。峠は越えていたが、相当酷い仕打ちをされたらしく、肋骨にひびが入りと右足と左腕の骨が折れたらしい。

は今回の事件で不良高校生の仲間割れに巻き込まれた女子中学生として処理されていた。高校生の一人はスタンガンで意識を失い、他の二人は顔を中心に殴られた痕があったらしいが、それは彼女の喧嘩法によく似ていた。亜久津自身も彼女より体が小さかった頃に同じような被害を被ったことがあった。彼女に顔を一発殴られた後、足で腹を蹴られ地面に伏したところで、顔を足蹴にされギリギリと地面に押し付けられ、謝罪を迫られたのだ。絶対忘れられない、小学4年生のバレンタインデーの記憶だ。


最新の技術を駆使できる経済環境にある彼女は、後に残るような傷を負うことにはならなかったが、全治3ヶ月の傷を負ったのだった。個人差によって長引いたり、短くなったりするものでもあるが、中学生の3ヶ月とは1学期分であり、相当な長さだ。甲高い機械音が発せられる中、亜久津はのベッドの横に立ち、パイプ椅子に座り彼女の頬を触った。





「腹抱えて笑えよ」







が目をうっすらと開き、その黒い瞳は亜久津を向いた。







「試合に負けた」





笑おうと思ったのか、彼女は口を歪めたが、傷口の皮膚を引っ張って痛かったのだろう。顔をしかめた。



「部活はやめた。だから、早く退院しろ」






彼女が口を開いて何かを言おうとしたので、亜久津は耳を寄せた。







無理しながら彼女が呟いた言葉を聞いた亜久津は、彼女から離れると、近くに置いてあった花瓶を窓めがけて投げつけた。ガシャーンと病院に相応しくない大きな音が響くと、は、目を細めて笑った。


















「貴方、意外と流されやすいですよね」

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