脱線

06. 三不政策
不接触・非交流



以外の人を好きになったらどうなるんですか?」


それは、まだ景吾が小学4年生の頃だった。跡部家の客間で、の父親と景吾の祖父が二人で酒を飲み交わしている時に、彼は冒頭の質問をしたのだ。今まで、酒を飲んで日本の将来について険しい顔をして話し合っていた彼らが、呆気に取られたように目を見開いて「何言ってんだコイツ」という顔をした。それから、いつも通り、がははとの父親は下品に笑った。


「景吾君、そりゃ、仕方ないよ!なあ、跡部さん?」

「ああ、そうだな」

は正妻に迎えてもらうが、他に好きな女ができたら、その女は愛人にすれば良いさ!心配要らないよ。も分かっている。つーか、君は確実に他の女を好きになるさ」

「それは、彼女に失礼だがな」

は父親の俺から見れば、確かに可愛い。でも男からみたら、てんでダメだ。モテる景吾君にとって、はただのお荷物だ。この容姿に、経済力と権力がつくんだぞ?君は選び放題だ。景吾君、君は立場的に浮気を許される身なんだ」

それは景吾にとっては非常にショックな話だった。「人を殺してはいけない」と大きく書かれた標識の下に、小さく書かれていた「戦争になったら仕方がない」という注意書きを発見したような、そんな残念な現実に直面したような感覚を抱いた。

「浮気をしてはいけない」でも「他に好きな人ができたら仕方がない」そんなことで良いのか!?良いわけないだろ、と思った。
彼は口では女子生徒に向かって「メス猫ども」と言い、男子生徒に「俺様を崇め称えろ」とか非常識なことを平気で言う割には、常識人で真面目で、以外にも誠実な人間だった。まあ、そうでなければ、200人という人望が集まるはずもないのだ。










『アンニョハセヨ、ケイゴ。私はインドに留学したので半年くらいは日本に帰らないかもしれません。なので、週末デートは当分できません。いやはや遺憾です』

『はあ!?お前、俺の了承も得ず何勝手に留学して『おっと、なんか、海外なんで電波が悪いみたいです。では、ツァイチェン。ムッシュー・ケイゴ』

「おい、?・・・・おい!!信じられねえ。アイツ、俺の電話を切りやがった!つーか、インド行って何語を勉強してんだよ!」

五月晴れの青空の下、跡部家の屋敷中には、うがーと喚く景吾の声が響き渡った。不機嫌な景吾がリードしたテニス部の朝練はいつもよりハードなものだったが、景吾がに電話をかけ忘れたり、デートをすっぽかしたりする度に、毎度このような練習をするものだから、レギュラー部員にとっては日常の一部でもあった。


「で、マリーちゃんは、跡部の意に反してインド行ってしもうたんやな?」

「意に反するも何も、あれは事後報告だった!」


氷帝テニス部員は、景吾の婚約者のことを『マリー・アントワネット』から取って『マリー』と名づけた。もちろん、名付け親は忍足で、跡部が婚約者についてほとほと困っている様子を見ると面白半分に「なんや、またマリーちゃんが問題起こしたんか?」と彼の悩みを聞き、まあ、その後で尾びれ背びれつけて部内に広めるのだった。

そのおかげで、部内で跡部の婚約者は、ものすごい人物に仕立て上げられている。跡部家と同じくらい裕福な家のお嬢さんで、かなりの浪費家。いつも跡部ではない男といて、毎夜、町に出ては遊びまわっている。趣味は博打でガラの悪い人間と付き合いがある。

このほとんどは忍足が勝手に想像し、ばら撒いた噂だったが、残念なことにあながち間違いではなかった。情報源が忍足ということで、レギュラー部員のほとんどはその話を信じていなかったし、穏やかな気質の鳳や、リアリストでノリの悪い日吉は全く信じていなかった。

因みに、忍足が跡部の婚約者を『マリー・アントワネット』と呼んだ所以は、彼女の夫が性的不能であったことからだった。氷帝1、モテる男である跡部は、女の噂が後を立たないのだが、実際につきあった女は一人もいない、そんな彼を指す意味を含めていた。



「ええ機会やないか。マリーちゃんがいない間、羽でも伸ばしたらええやん」

「アーン?」

「こういう時にこそ彼女の一人や二人作っとくべきやで。なあ樺地?」

「・・・ウス」

「おい、樺地、適当に頷くのはやめろ。婚約者がいるのに恋人をつくるなんて非常識だろ」

「えらい頭固いな。俺にも婚約者はおるけど、関係あらへん。それはそれ。これはこれ。親が勝手に決めた婚約者に一生操を立てるなんて阿呆らしいで?昨日、ミス・氷帝に告白されとったやん。まさか、断るとは思わんかったから何も言わんかったんやけど、お前もう少し柔軟に考えんとあかんで?」

部室のソファに無造作に置いてあった雑誌をぺらぺら捲りながら、忍足はため息をついた。
部室に置いてある雑誌の表紙には『3年前の連続誘拐犯逮捕の裏側に』『チカン冤罪〜少女たちの罠』『妻の浮気現場レポート』『ストーカー被害拡大』『学級崩壊の真実』など物騒なことが書いてあるが、彼の興味をそそるのはその週刊雑誌の最初の数ページ、つまりグラビア特集だけだった。


「何事も経験や。一度、他の女とつきあってみぃ。世界が変わるで?」

「容姿に惹かれただけの、俺のことを何も知らない女とつきあえって言うのか!?」

因みに、は景吾の所属している部活も知らない。

「何や、お前、婚約者のこと好きなんか?」

「好きなわけないだろ!あんな出来損ない!何をやらせても、結果を出さない、すぐに飽きてやめる。ブスで頭が悪くて、俺には相応しくない腑抜けた女だ!」

「なら、答えは出てるやん。相応しい女を隣に置いたらええ」

忍足が顎を窓に向けて、くいと上げ、それを追って窓の外に目を向けた景吾は、昨日告白を断ったミス・氷帝の後姿を視界に捉えたのだった。

















『ボンソワール・ケイゴ。トーキョーのお天気はどうですか?』

「ボンソワール。晴天だ」

『・・・。大丈夫ですか?頭』

「ああ、大丈夫だ」

『・・・。重症ですね』

「なあ、浮気って悪いことだよな?」

『良い事ではないと思いますが』

「そうだよな。俺は最低な馬鹿野郎だ」

『・・・。すみません。ここ電波が悪いようで、もう一度言ってもらえますか?』

「お試しで良い、って相手が言ってきたんだよ。期限付きって言葉が魅力的だったんだよ。断ろうとしたんだ。ただ、周りがというか、忍足が『モッタイナイ』ってスローガン掲げてくるし仕方がなかったんだ。いや、周りは関係ない。弱かった俺自身に問題があるんだ。少し、相手が美人で胸がデカくて頭が良いってだけで、・・・あれ、考えてみれば完璧だな。いや、それでも、受け入れてはいけなかったんだ。悪魔の誘惑だった。俺は・・・」


『あの、話がみえないんですが、これ本当に跡部景吾の携帯で合ってますか?』




「本当悪かった!許してくれとは言わない。俺を罵ってくれ!」


『バカ、アホ、マヌケ、ナルシスト、セクシスト、我侭、生意気、自己中、無神経、雷親父、傲慢ちき、勘違い野郎、中学生病患者、泣き黒子』














***********












 
「幸村さん、検診の時間よ」



看護師がカーテンを開けると、部屋の中には太陽の温かい光が差し込んだ。眩しい光に照らされて幸村は重いまぶたを開けたが、医者の顔を見ると、すぐに閉じた。

寝ても覚めても考えるのはテニスのことだけだというのに、テニスコートに立てないどころか、ボールもラケットも持たず、何ヶ月もの間をベッドの上で過ごす俺は、まさに生ける屍のようだった。生きているんだけど、生きていることを実感できない。

入院した当初は母親に限らず、毎日必ず誰かが幸村の見舞いに来ていたが、幸村が「大丈夫だよ。大したことないから」と安心させるように言い、1ヶ月も経つとほとんどは幸村の存在を忘れたように来なくなった。何度も来ることによって、幸村の気を煩わせたくなかった者もいれば、学校生活に追われて本当に幸村の存在を忘れてしまったものもいた。



特に幸村のミーハーなファンは彼がとこに伏してからの1週間は、地球が滅亡する日を知ってしまったかのように騒ぎ立てたが、テニスをしない、学校にも来ない、病気持ちの男をいつまでも追っかけているほど暇でもなければ、良心的でもないらしく、彼女たちはすぐにテニス部の健康で格好良い他の男子生徒に鞍替えした。今まで餌を与えていた犬たちに、そっぽを向かれたような気分を幸村は味わい、地味に傷ついていた。

周りは変化し続けるのに、囲われた異空間の中で、自分だけが取り残されたような自分の時間だけが完全に止まったようなそんな感覚を抱く。




「精市君、調子はどうかな?」



担当医は人の良さそうな笑みを浮かべ、ベッド横に備え付けられた機械の数値を確認しながら、幸村に話かけた。




「お母さんがお花を用意してくれたみたいだね。とても良い香りがする」



窓際に置いてある花瓶には桃色のガーベラが綺麗に咲いていて、看護師は「さんとことは大違い」と笑った。




?」



「貴方と同い年の子なんだけどね。瀕死の重体で病院に運ばれてきたっていうのに、3ヶ月経っても家族が一度も見舞いに来ないのよ。手術だって貴方と同じくらい複雑で大変なものだったのに」

「こら、患者の個人情報だぞ」

「だって、先生、私心配してるんですよ。あの子、いつも一人で個室に引きこもっては、新聞のクロスワードばっかりやっていて見ていて悲しくなるわ。誰か友達が必要ですよ」

「たまに屋上で見かけるよ。それに、友人ならいるみたいじゃないか。あの銀髪の青年が」

「あんなガラの悪いのが友達なんて、ダメですよ。他の患者さんから苦情が出ていますし、それに、この間なんか、彼、鉢植え付きの花を持ってきたんですよ。縁起悪い」



「まあ、本人が気にしていないようなら、いいんじゃないか?」

「『彼はユーモアのセンスがあるんですよ』って、笑っていましたけどね。良い子だから、きっと騙されているんですよ」





おしゃべり好きな看護師と、人の良い医師の会話は検診の際には常に交わされる。たぶん、患者の気を紛らわすためでもあるのだろう。煩わしい騒音であっても、やはりその明るい雰囲気に患者は助けられていた。それは、幸村も例外ではなかった。











久々に屋上に上がると、青々とした空が目に染みた。真っ白なシーツがワイヤーにかけられており、洗剤の匂いが鼻をかすめた。幸村は、ややゆっくり歩いて屋上の一角にあるガーデニングを通り奥のベンチに座った。ブリキのじょうろを手にした女の子が、足と腕にギブスを付け、杖をつきながら花に水をやっていた。彼女の頭には幾重にも巻かれた包帯があり、見るからに痛々しそうで、幸村は彼女から目をフェンスに逸らした。だが、フェンス越しに見る外の景色はビル一色で、彼は悲しくなって目を瞑った。ここは地獄だ、そう思った。







「幸村!!」




空が赤みを射してきた頃、見舞いに来た真田に幸村は起された。真田の隣には仁王がいて、彼は果物をいっぱいつめた籠を持っていた。



「病室にいないから探したぞ!お前、こんなところで、寝ていて体は大丈夫なのか!?」

「手術を受ける一週間前は外に出れなくなるからね。今のうちに外の空気を満喫しようと思って」

「・・・そうか。手術はいつになるんだ?」

「まだ、決めていないよ」




手術が失敗すれば、テニスの復帰どころか、人生が終わるかもしれない。そう考えると怖かった。「幸村、俺たちがお前のそばにいる。気をしっかり持て」と真田は言ってくるが、手術を受けるのは俺一人で、人生をかかえるのも俺なのだ。無責任なことを言ってくれるな、と怒りを覚える。病魔に冒されてから、彼が俺がいない間テニス部を引っ張っていることにさえ、日に日に嫉妬と羨望、憎しみを抱くようになった。なんで、俺だけが、こんな目に合わなくてはならないのか、と思う。顔にも言葉にも出さないが、だからこそ、ストレスは溜まっていった。誰にも吐露できない不満が蓄積されていく。
日に日に、病は幸村の体だけでなく精神も確実に蝕んでいった。






「それにしても、よく屋上にいるって分かったね。俺、ここに来たの初めてだよ」

「ああ、から聞いた」

?」




幸村が担当医と看護師の間で交わされた朝の会話を思い出したと、同時に、仁王が嫌な顔をした。




「幸村、は変人じゃよ。俺は、奴さんとはもう一生話とうのう」



「仁王、言っておくがはお前と同じクラスだぞ」




「プリッ、隣の席じゃよ。・・・幸村を探し回とったら、奴さんに会ってのう。真田が居場所を尋ねとうよ。したら『幸村?ああ、看護婦さんたちのアイドル幸村さんですね。彼なら、屋上にいましたよ。なんかこの世の終わりみたいな辛気臭い顔をしてフェンスを見ていました。彼、近いうちに自殺しますよ』なんて、適当なことを言いよって、『関税です』ちゅうて、お前さんの見舞い用の籠からリンゴを持ってきよったんじゃ。」







「で、僕が自殺するとでも思って慌てて来たんだ?」




「俺は、の言うことなんかこれっぽっちも信じとらんが、真田が勝手に慌てよったんじゃ。幸村が自殺するほど柔な男じゃのうことくらい、知っとるよ」




「仁王、は確かにイイカゲンな奴に見えるが、悪い奴じゃない」

「奴さんが入院したのは、高校生とやりあったからじゃよ。悪い噂が絶えんし、何よりも言うて良いことと悪いことの区別がつかんところは好かん」


仁王がここまで嫌悪感を露にする人間も少ないので、相当悪い部類の男子生徒なのだろうと、会話を聞きながら幸村は思った。そして、高校生と喧嘩するほど野蛮な生徒が立海にいたという事実にも少なからず驚いた。


「怪我をしてボクシング部の大会に出れなくなったんだ。ストレスが溜まってるんだろう」

「ボクシング部に所属しておったのか?」

「試合に出るよう頼まれただけで、所属はしていなかったらしいけどな。は高校生と喧嘩する前日に試合には出れないかもしれないと言い、何度も謝っていたらしい」

「意味分からんのう。なんで喧嘩したんじゃ」




「『人にはリスクをとっても戦わなければいけない時がある』、だそうだ」




幸村はその言葉を聞いて笑った。





「結果、惨敗だろう?」

は、3人の高校生を病院送りにした。アイツに言わせてみれば、勝利だろう」

という少年を贔屓しすぎじゃないだろうか、と幸村は思った。高校生と喧嘩するような輩に対して、真田であれば「たるんどる!」と言って怒り出すだろうに、なんでこんなにも甘い評価なのだろう。




「俺は好かん。アイツは文句ばかり言いよる。ここを『地獄』じゃと言ったんじゃ」

「地獄?」







俺は、この時、『』という人間に対して興味を持ったのだった。「ここは地獄じゃのうて、幸村を救う病院じゃ。それに、奴さん、『タバコも酒も博打もダメなんて』と騒いどったんじゃが、それは病院でなくともダメじゃ」そう言った仁王の言葉は耳に入ってこなかった。立海で同級生の顔も見たこともないその少年と、会ってみたいと思った。




その翌日から、幸村は『』の苗字を探して、院内を歩き回った。看護師や医者に聞けば、部屋を教えてもらえるかもしれないが、彼はそれをしなかった。『』という少年が、仁王が言うように悪い奴であれば、下手に目を付けられたくないと思ったからだ。




』という少年は、裕福な家庭の子供らしく、個室の部屋が宛がわれており、それを知って幸村の肩を落とした。共同部屋であれば、幸村が顔を覗かせることが可能だが、個室に入ったら不法侵入だ。それでも、一度で良いから、に会いたいと思った彼はそれから毎日屋上に行くようになった。





屋上では相変わらず、包帯に巻かれたミイラのような少女がブリキのじょうろを片手に、花を世話していた。1週間経っても、『』らしき少年は現れず、代わりに幸村はそのミイラ少女に話しかけるようになった。初めのうちは挨拶だけだったが、そのうち天気の話をするようになり、会話は段々長くなり、世間話をするようになった。

互いに個人情報は流さずに、ただ目の前にある、永遠とも思える暇を潰した。





普通のどこにでもいるような、そんな女の子だった。顔が幼いように感じられたが、話してみると自分と同じくらいの年なのではないかと、思った。


退屈でつまらない日々が続き、そして、2週間目に仁王と真田がまた見舞いに来たのだった。






「調子はどうだ?」

「うん。悪くないよ。それより君たちが言っていたに会えないんだ」

「同じ病院にいて、会えんのか」

「タイミングが悪いんだな。俺たちはさっき廊下であったぞ。」

「何か言っていた?」

「・・・『退屈で死にそう』と言うとったのう」





共感できた。幸村はその少年を心の友だと思った。自分が思っていて、言えないことを彼は全て言葉にして吐露してくれる。それをうれしいと感じた。

















少女は屋上に行くといつも花の世話をしていた。友人が見舞いに持ってきてくれた花を少しでも長生きするよう植え替えて育てているらしい。鉢植えを盛ってくるなんて非常識な人間だと思いつつ、彼は彼女に暇つぶしの道具を与えた人間を評価した。

気がつけば、幸村も土いじりに参加していて、彼女と一緒に植物を観察する習慣ができた。朝から夕方まで、時間を共にした。ガーデニング以外は、本を読んだり、新聞のクロスワードを一緒に解いたりした。幸村は少女と入る時だけはテニスのことを一切考えずに済んだ。



隔離された場所で、時間は止まっていた。それが、現実逃避というものだと知りながら、幸村はただ身を任せていた。




しかし、そのまた二週間後に真田だけが来た時に、止っていた時間が流れ出したのだ。幸村のベッドがある病院の一室で、彼は部活についての話をした後、あの少年の話をした。



が手術するそうだ」

「え?」

「ギブスを外した後も右腕の神経麻痺が続いているらしい。手術が失敗すれば一生腕が曲がらなくなる」

「・・・そう、なんだ。」

「『ここは、時間が止っていて考えるべき事を考えなくなる』と言っていた。それから、もう飽きたから退院したいともな」



幸村は真田の顔を直視できず、窓の外を見た。そして「退院か」と独り言のように呟いた。



真田が帰った後、幸村は屋上に向かった。空は赤く、太陽は地平線に沈み、星がうっすらと見え始めていた。幸村はじょうろを持った少女に声をかけた。


「手術を受けることに決めた」


花壇を見ていた彼女は、ゆっくりと顔をあげ幸村を見た。


「それまた、どうして」

「人にはリスクをとっても戦わなければいけない時があるんだ」


この幻想的な世界ともお別れだ。そう思った幸村は、少しだけ感傷的になり、涙を流しそうになった。


「手術、成功すると良いですね」


大きなガーゼが張られている頬を引き攣らせて少女が小さく笑った。この瞬間、生まれた感情を何と名づければ良いのか幸村自身わからない。ただ、この時、それまでと違う意味で時間が止まった。太陽が完全に沈み、夜の帳が下りて辺りが止みに包まれ、少女と幸村だけが世界に残ったような感覚を抱いた。





気付けば、幸村は少女に口付けをしていた。




ブリキのじょうろが、カランカランと音を立てて落ちた。























*************











「インドでの生活は、順調か?」

「ぼちぼちです。そろそろ、帰国します」




「ああ、そうしろ。お前がいなかった2ヶ月間、ミス・氷帝とつきあってみて、俺は気付いたんだ。先の無い恋愛ほど虚しいものは無い、とな」


「はあ」


「だから、あゆ。俺はお前だけを愛することに決めた。自分が好きになった女を妻に迎えられないなんて、俺が許せるわけがねーし、それに、他の女よりもお前を好きになる方がが効率的だろ?皆ハッピーだ」



「合理的な考え方ではありますが、それが実際に上手くいくかどうかは別問題ですね」



「なんだ、さっきから気のない返事ばかりしやがって、そっちで何か問題でも起きたのか?」











「景吾さん以外の人と初めてちゅーしました」



「・・・。」








「しかも、ベロチューです。腰にきました」








「お、おま、それ完璧浮気じゃねーか!!!!!」










翌日の氷帝テニス部の朝練は地獄絵図と化し、忍足の創作による「マリーちゃん伝説」は一人歩きしていく。


Index ←Back Next→