畑シリーズ

独活の大木



気づけば、家にいた。カカシと私の家だ。いつも隣にいたカカシがいなくてキングサイズのベッドは、ことさら大きく感じられた。頭は未だ朦朧としているが、起き上がれないほどではなかった。


「気が付いたか」


頭上から発せられた声に気付いて顔を上げると、不機嫌そうに千本を揺らしているゲンマがいた。


「お前は、どうしてこうも人に心配をかけるんだ。お前の容態は、すこぶる悪いが、今木の葉病院は満室で空きがない。特に外傷がないことから自宅療法になった。」

「カカシは?」

「カカシさんは火影様に任務報告をしに行っている」

「火影様?」

「・・・お前の、元師匠の綱手様が就任した」

「まだ生きていたワケあのババア」


起き上がると全身に酷い痛みを感じ、は呻き声を漏らした。窓から吹き込んでくるそよ風が、汗をかいた体を冷やし、ぼうと気が抜けていた頭が冷えて冴えてくると、彼女は今の状況を冷静に判断した。任務を完璧に遂行できず、カカシに子供の存在を知られた。仕事とプライベートの両方で最悪の事態が起きている。



「てか、アレ抜け忍だよね?完璧職務放棄してんじゃん。そもそも、里への愛が感じられないし、図々しく火影の座に就くのも信じられない。」

「忍びの世界は、一般人たちが好む、お高くとまった議会制民主主義は取り入れてないんだよ。お前が一番知ってるはずだ。基本、世襲。あとは元老院の気まぐれ」

「私、ナルトが火影になったら抜け忍になるから。マジで」

「世襲っつっても、それなりに実力を伴わないといけないからな。ナルトは…無いだろ」

「そういえば、ダンゾウ様はどうした?」

「あ?」

「ダンゾウ様」

「あんな野心家に木の葉を任せられっかよ」

「あれだけ『火影になりたい』って言ってんだから、ならせてやりゃー良いのに。少なくとも、里を思う気持ちはあのババアより上だよ」


「あのな、…とりあえず、火影様を『ババア』呼ばわりするな。殺されるぞ」

「殺される前に、ダンゾウ様と手を組んでババアを始末するから、問題無い」

「問題大有りだ。お前の頭に。・・・ともかく、今は粥でも食べて安静にしてろ」



ゲンマが台所をかりて作ったのだろう。粥からは白い湯気が出ていた。お椀を持つとじんわり暖かさが伝わったからか、目の前にゲンマがいたからか、気が一気に緩んで涙が出そうになった。しかし、一体、私は何のために泣くというのだろう。任務は成功とは言い難いけれど失敗ではなかったし、必要とされていた情報は手に入った。子供にしても、いずれカカシにばれてしまうことだった。何のために涙を流すのだろう。


「ゲンマ、任務は?」

「夜から門の警備だ。」


窓の外では太陽が南に位置しており、彼の任務時間には未だ余裕があるように感じられたが、本来であればの介護などせずに休みをとっていなければならないのだ。木の葉崩れで、里の様子はずいぶん変わってしまっており、窓の外には荒地が目立っていた。復旧作業は捗っていないのだろう。多くの死者を出し、多くの人を不幸にしたその事件が起きていたとき、私は里にはいなかったが、その状況がいかに悲惨なものであったかなど想像に易い。

疲れた顔をしているゲンマにが自分の体を心配しろと休むよう言うと、彼は濡れタオルをの顔面に投げつけ、近くに置いてあったコップの水をにぶっかけた。それから、近くにあった18禁小説やコップや雑誌などを迷うことなくに投げつけた。部屋には大きな物音が響き、は彼が投げてくるものを最低限の動きで避けた。



「ふざけんなよ!!お前、イイカゲンにしろ!なんで、いっつもいっつも何も言わずに!いっつも、昔からそうだった!お前は最低で酷い親友だ!本当に最低だ!」


急に立ち上がってヒステリーを起こしたゲンマに、は目を大きくしたが、彼が目から涙を流していることに気付いて、口答えすることはなかった。


「危険な任務につく時は、先に報告してから行けって言っただろ!難しくない筈だ!別に引き止めるつもりなんかない!でもな、でも、お前、一言くらい、何か言ってからにしてくれよ!忍は人形だとか、道具だとか、そんなこと言ったって、実際は生きてる人間なんだ!俺が、どれだけ心配したか、お前考えたことあるか?考えたことないよな!知ってるよ!薄情者!だいたい、お前は―」



一通りに対する文句のような罵りのような愚痴のような、そんな言葉を羅列していくと、そのうち、木の葉崩れでどのくらいの死者が出て、どれだけ里に被害があって、それから、ゲンマがよく通う定食屋のおじさんが死んだとか、チームを組んだことがある人間が簡単に死んだとか、そんな話を聞かされた。
目を真っ赤にして泣いているのか怒っているのか分からない顔をして、唾を飛ばしながらいつもよりテンションの高いゲンマを見ながら、は里に帰ってきたことを実感した。


そっか、ゲンマも私も生きているんだ。生き残ったのか。そう思った。
安心した。勇気が出た。そう思うことは不謹慎だろうか。















彼のヒステリーは3時間ほど続いて、そのうち腹の虫が収まってくると、の体の調子を気にし始めた。何を今更とも思ったが、「木の葉崩れ」で彼が受けた衝撃を、やりきれなさや精神的苦痛を少しでも軽減できたのであれば、それでいいとも思えたので、大丈夫だと答えようと考えたが、やっぱり、水をぶっかけられたのは腹が立ったので、気分が悪いと答えた。

それから、極秘任務であったため話すわけにはいかなかったこと、20年近くサクモ上忍師を思い続けていた自分は決して薄情ではないこと、そして、危険な任務にもかかわらず生きて返ってきた自分は親友として誇るべき存在だということを、淡々と語ってやった。それが2時間ほど続いて、太陽が赤く染まる頃、が表情を崩すと同時にゲンマもも理由もなく噴出し、笑いあった。


受付嬢をしていた自分は、木の葉の全ての忍を顔見知りだった。全ての人間とその家族や生活環境を把握している。一人ひとりに人生があって、一人ひとりに大切なものがあった。次、受付につくときは苦痛を覚悟しなければならない。多くの人がいなくなってしまったことを実感するであろうから。


夕日が地平線に沈む頃、ゲンマは立ち上がってところどころ傷が目立っているベストを着た。それから、千本を加えて「何かあったら、式で呼べよ」といって玄関まで歩いていった。



「ゲンマ、ありがとう」

「あー」



頭をかいて少し照れたような顔をする親友は、昔と全く変わっておらず、は自然と口元を緩めた。玄関先で遠ざかる彼の背中を見ながら、彼女は彼に言っておかなければならないことを思い出した。



「あ、そういえば、私」




それは彼が丁度階段を降りるところだった。







「母親になったから」











勿論、彼は階段を踏み外した。




階段の下で鼻をさすって、目尻に涙をためている彼を一瞥してから、は薄く星が見え始めている空を見た。



「奇跡が起こったの」



ゲンマが何か言う前に、戸惑い慌てている彼が言葉の意味を理解して喜ぶ前に、震える口を弧に描いて、言わなければならない。







「でも、カカシの子じゃないんだ」


ゲンマが目を大きく開けて、それから顔を真っ青にした。そして、彼の瞳に映る私は、サクモ上忍師が亡くなる前日と同じくらい酷い顔をしていた。






**********




俺は彼女に何と声をかければいいのか分からなかった。祝いの言葉は勿論のこと、慰めの言葉も、出してはいけないような気がした。
サクモ上忍師が亡くなった前日を髣髴させるようなの姿に、ぎょっとして階段を上って駆け寄るが、抱きしめようと肩を触れた所で払われた。俺の手を振り払い拒絶した彼女は、自分が拒絶されたように酷く傷ついた顔をして「自業自得なんだ」と首を振った。

彼女に子供ができないのは知っていたし、結婚後はカカシさんから彼女が子供を欲しがっていることも聞いたことがあった。こんな形で、奇跡が起こるとはずいぶん神様は残酷だなと思った。諜報に入れば男に足を開くことはざらで、そして子供ができないと思っているが避妊をしないことも分かる。彼女に非があるかと聞かれれば、俺ならば「ない」と答えるだろう。けれど、それは俺だからだ。

多くの質問を投げかけたかった。でも言葉は慎重に選ばなければいけない。

「生むのか?」

は涙を零し、手の甲でそれを拭いた。何かを話そうとして口を開くが、それが震えていて、彼女はぎゅっと口を結んだ。

「いや、今は何も言わなくて良い。だけど、一人で決断するな。俺に相談しろ。」

昔と違って、たぶん今回は力にはなれると思った。それは、彼女が抱えている問題が人の「死」についての悩みではなく、人の「生」についてであるからだ。「過去」のことではなく「未来」について考えるからだ。そして、何よりも俺たちはもう子供じゃなかった。

「もし生むことを決めて、カカシさんがお前を拒んだら、俺の所に来い。」

不安げに見上げてくるを可愛いと思うが、抱くのは決して恋愛感情ではないと思う。彼女の頭に手を乗せて、安心させるように小さく笑ってやる。

「お前の夫になるつもりはねーけど、子供の父親代わりにくらいはなってやれる」

「その必要はなーいよ」

の頭の上に乗せた手を乱暴に弾かれて、いつのまにか隣にいた人物を見て俺は息を呑んだ。


「ゲンマ、人の奥さんに手を出すなんてどういうつもり?俺、結構嫉妬深い方なんだけど」

「カカシさん」

「お前が心配する必要はなーいよ。のことは俺が一番考えているし、の子供だって俺が育てるよ。」

の肩を抱いて、彼女の頭部に口付けを落とし、涙の痕を消すように彼女の頬を舐めたカカシさんは、本当にを溺愛しているようで大切にしてくれると思ったから、この時俺は酷く安心したのだった。とりあえず、俺の前でイチャつくのだけは止めてくれとも思ったが。


「医療班の人間に診てもらったんだ。おろすと母体が傷つく程度には順調に育ってるらしーよ。」

その言葉に棘を感じなくもなかったが、俺はそのことに何故か安心した。カカシさんが「おろせ」と言っていたら、は別れを切り出したかもしれないし、が「産みたい」と言っていたら、カカシさんは彼女を裏切り者と罵ったかもしれない。愛しているからこそ、許せないことがある。仕方ないからと諦められることもある。

熱く抱擁を交わす二人をからかって俺はその場を後にした。
抱き合った二人の目がどこか虚ろで遠くの方を見ていたことなんて俺は気付かなかった。
夫婦とはどういうものかとか、母性愛がどういうものかとか、俺は知らなかった。


そして、木の葉の里1番の業師と呼ばれる「はたけカカシ」という男がどんな人間なのか。俺は全くわかっていなかった。



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