七班の子守という任務を終えたカカシは、昼飯を取ろうと商店街をうろついていた。
丁度良い、人の少ない店に入ろうとした時、隣の本屋に馴染み深い後姿を発見して、足をとめた。栗色の髪がふわりと揺れて、その存在を主張している。その人物とは、今朝方、朝食の具について喧嘩をしていた為、カカシは、声をかけるべきかどうか少しの間逡巡した。
が、それでも、彼女の傍にいきたいと思い、――――ゲンマに変化した。
情けないとは思うが、この時彼にはこの方法しか思いつかなかったらしい。
ショーウィンドウで自分の姿を確認して、目的の人物を後ろから、ぽんと肩を叩く。
「よ、。今日は非番だろ。昼飯付き合えよ」
ゲンマのように振る舞ってみるが、カカシは自分が発したこの横柄な台詞にに無性に腹が立った。
ゲンマはに馴れ馴れしい。それに改めて気づき、腹が立ったのだ。だが、カカシのそんな思いも知らずに、は、振り向きもせずに雑誌の立ち読みを続ける。
「良いね。天ぷら屋とか、どう?」
「え、昨日食べたばかりだから・・・それは、ちょっと」
「そ、じゃ、一楽ね」
本を置くと栗色の丸い眼をカカシに向け、にっこりと笑い、はカカシと手を繋いで歩き出した。
気分も機嫌も最高潮だった。浮かれていて、何も考えていなかった。酷く単純な男だって、罵られても、返す言葉が無い。
でも、幸せとは、そういうものなのかも知れないと、その時俺は思ったのだ。
だから、背後から迫り来る殺気に気づいたのは声をかけられてからだった。振り返ると、色白の長い黒髪をもった綺麗目の女が、顔を真っ赤にして立っていた。
「ゲンマ!なんで、他の女と手なんか繋いでんのよ!」
女が、俺をキッと睨み攻め立てる。そう問い詰められて、重要なことを気づく。そうだ、手を繋がれて失念していたが、今、俺はゲンマの姿だった。
天国から地獄に落とされるってこんな気分なのだろうか。俺はをキッと睨んだ。
本当だよ。何で手なんか繋いでんだよ。。
そんなカカシの視線は無視して、は女をじっと見て、小さく溜息を付くと、肩を竦めた。
「この男は私のだけど?」
「嘘!」
嘘だろ。
「本当よ」
が俺の腕に白い手を絡めてくる。ゾクリと背筋が凍った。
「信じないわ!そんなの初耳よ!」
俺も信じたくない!初耳だ!
悲しいかな、目の前の女と悉くシンクロした。
「そう、じゃあ、覚えといて、この男は私のもの。私もこの男のもの」
俺は頷くことも出来なかったが、唖然として首を振ることもできなかった。それを、悲観的に解釈したのだろう、道の真ん中で女が泣き出した。
初めて、ヒステリーを起こす女の心境が分かった。
家に帰ると、しばらく放心していたが、そうもしてられないと思い直し、すぐ変化を解いて、の家に問い詰めに行った。これは完璧に浮気だ。に限ってそんなことは無いと、言えないのが、痛いところだった。
しかも、親友のゲンマっていうのは厄介だ。
奴の方がと付き合いも長いし、信頼も厚い。
下手したら、俺が切られる方になる。これは由々しき事態だった。
呼び鈴を鳴らす前に、がドアを開けた。きっと、先に気配を感じたのだろう。因みに今日は殺気というオプション付だった。
が、「疲れてんのに」と、げんなりした様子で、ドアを開けて俺を中に入れる。そのぞんざいな態度にも、今は一々腹が立つ。
無言でリビングに向かうと、先客がいた。諸悪の根源、ゲンマ大王だ。
「なんで、ゲンマがいるわけ?」
俺に気づくと、ムスッとした表情で睨んできた。普段と違い、好戦的なゲンマに驚きながらも、負けじと睨み返す。
「丁度良かった。カカシさんにも、話があったんすよ」
「へー、奇遇だーね。俺もなんだよね」
顔をしかめたいのを我慢して目を弧に描く。が、実際は眉間に皺がよっているのだろう、額の筋肉が張っている。沸々と怒りがこみ上げるのを必死に押さえて、胡坐をかこうと床に手をつくと、が乱暴に座布団を投げてきた。
「、お前、もう少し、優しく渡せないわけ?」
「何で?」
絶対におかしい。この扱いは酷い。俺は本当にコイツの恋人だったんだろうか、ふと頭をよぎった疑問が、不安を煽っていく。が、机の上にコップを3つ並べて、冷蔵庫から牛乳を取り出した。
「って、お茶も無いのか、お前の家は」
声を荒げたゲンマが、の足を蹴り、転んだ拍子に牛乳がゲンマの頭にぶっかかった。
きっと、ワザとだ。
ゲンマを案じる素振りも見せずに新しい牛乳パックを開けて、コップになみなみと注ぐ。
「そりあえず、二人ともイライラしすぎ。カルシウム取って」
「誰のせいで、イライラしてると思ってんだ!」
牛乳も滴る良い男の、ゲンマが叫んだ。俺もコレには同感で、に殺気をこめて睨んだ。狭い部屋に、ゲンマと俺の殺気が充満する。
彼女は、他人事のように、牛乳パックに口をつけて、暢気にゴクゴク飲んでいる。怯える素振りくらい見せたら、許してやらなくもないのに、可愛げのない女だ。
もはや、肝が据わっているという問題ではない。神経の太さの問題だ。
「とりあえず、私は悪くないわ」
「じゃあ、誰が悪いって考えてるわーけ?」
怒気を含ませながら言い放つと、二人の視線が俺に刺さった。
って、俺?俺なわけ?いやいや、オカシイでしょーよ。
「俺が何したってゆーのよ」
俺の言葉に、ゲンマが唇を噛み眉を顰めた。それを見たが、タオルをゲンマに渡して慰めるように、言葉を紡いだ。
「ゲンマ、・・・カカシとは遊んでただけよ。悪気があったわけじゃないの」
プライベートで、冷や汗をかいた経験は初めてだった。
何、この展開。あれ、俺が浮気相手だったわけ?
ゲンマが、タオルを握って、声を振り絞るようにいう。
「悪気が無ければ、許されるのかよ?非常識なんじゃねーの?」
それは、こっちの台詞だ。
「、お前、これで6回目だぞ」
何?俺って、6人目の浮気相手だったの?
目を見開きすぎて、乾燥しそうなのに、目じりが厚くなって、涙腺が緩む。
そんな俺に構わず、ゲンマが立って窓を開ける。冷たい夜の風が、音をたてて部屋の隅々まで行き渡り、俺の体と心を冷やしていく。
「次はないからな」
そう言い捨てて、ゲンマは瞬身で消えていった。
「5回目の時もそう言ってたのよね」
栗毛の髪を揺らしながら、くすくす笑うのが聞こえた。天使のような悪魔の笑みとはこれだ。これのことだ。そう思った。
笑い終えたは、すくっと立つとゲンマに用意したコップを持つと、首をかしげた。
「なんで、睡眠薬入れたの分かったのかしら」
コップを流しに運び、牛乳を冷蔵庫にしまった。その一連の動作をぼんやり見ていたが、じわりと背中の汗が滲むのは気のせいではないと思った。俺の右手にあるコップの中を除くと、牛乳は、半分以上減っていた。
汗が背中を伝う。
台所から、戻ってくると俺の隣に座ったが、ポンと手を打った。
「ああ、6度目だからか」
心底納得したように彼女は頷いて、俺を優しい目で見た。言いたいことは沢山あるのに、口が回らない。目は霞むし、意識も朦朧としてきた。
「自分の恋人も認識できない女なんて、ゲンマに相応しくない。そう思わない?」
彼女が薄く笑っていることだけは、かろうじて分かった。
「彼の恋人を選別してあげてたのよ。これは親友としての義務よね。」
の顔が俺に近づいて、口布ごしにチュッとキスをする。牛乳の味がした。
「親友としての、ね」
ああ、なるほど。
確かに、遊ばれてたのは、この俺だった。
「私は悪くないわ」
そして、俺は意識を手放した。
最後に、ニッと笑った彼女の顔を、俺は決して忘れない。
君に敵うことはないのだろう、と察した、あの日。